四郎が幼い頃に聞いた異国の物語の中に、こんなものがあった。 その昔、この世にはいかなる苦しみも、災厄も、不幸もなかったという。人々は病むことも傷つくことも、憎むことも悲しむことも知らず、皆幸せに生きていたという。 それは神が一つの箱に全ての苦しみや不幸を封じていたからだった。 だがある時、一人の人間が箱を開け、それらを世界に解き放ってしまった。 以来、この世には苦しみや災厄が広がり、人々は悲しみ、怒り、そして憎しみの感情を持って生きなければならなくなった。 それでも人間は生きた。どれほど傷つけあっても手を取り合い、支えあって生きた。 それは、箱から最後に姿を現した「希望」が人々に生きる力を与えたからだ。 「希望」があるからこそ、人はどんな苦しみにも、悲しみにも負けず、生きていけるのだと、その物語は締めくくっていた。 でも、と幼い四郎は思った。 何故神は、「希望」を箱の中に閉じこめていたのだろうか、と。 そして、四郎――天草四郎時貞は思う。 「希望」にはもう一つの顔があったに違いないと。 その名は、「絶望」。 だからこそ神は、「希望」をまた、箱の中に封じておいたに違いないのだ。その双面たる「絶望」と共に。 きぃ、と軋む音がした。 意識に引っかかるその音の元を探ろうとするも、全ては、暗黒の闇に塗りつぶされている。 一つの黒ではない。揺れている。色が、濃さが、移り変わってゆく。どこも、一定ではない。 このような光景をどこかで見たと思う。 ――あれは……夜の、海。 夜の海に映った天地の闇、あるいは浮かび上がった深き水底の闇は流れる波に舞い、無限に変化していた。 不安と安らぎを呼ぶ光景だった。 幼き頃からずっと、最後の夜まで見ていた、懐かしい海。微かに聞こえる、何かが軋む音は櫓を漕ぐ音だろうか。 ――島原の、海…… 青年の中で海の像が形を為したとき、その意識は覚醒した。 同時に、己が海ではなく闇が混沌とたゆたう中に在ることを、青年は知る。 だが、それだけだった。 ここに己が在ることは青年にはわかる。しかし、肉体の感覚はない。上下左右もわからない。わかるのは、黒き闇、そして何かが軋む音だけだ。 にもかかわらず、青年は今の状態への不安も疑問も感じることなく、闇に漂った。むしろ、心地よい。このまま闇に溶けていくのも悪くない――青年は、そう思いさえしていた。 きぃ、と何かが軋む音が、また響いた。 青年が闇に沈むことを阻むように、耳障りなまでに強く。 ――この音は、一体……? ここが海ではない以上、櫓を漕ぐ音ではない。 ゆっくりと視線を巡らせる。目に映るものは、変わらず、無限を織りなす闇だけだ。音がどこから聞こえてくるかも、わからない。 ――強いて言えば、上、か…… 青年は目を上へと向けた。向けてから、怪訝に柳眉を寄せる。 ――上? ついさっきまで、青年は上下左右もわからなかった。肉体の感覚もなかった。だが今、青年は『上』を知覚し、眉を寄せた。 あの音に、己の存在そのものが呼び覚まされている、そう青年は思った。 ――誰が、何のために、我を? 思う内にも、体の感覚が甦っていく。膚が、冷気を感じる。ここは寒い。 手を握ることができる、開くことができる。髪が揺らめく闇になびく。足が、踏みしめる地を求める。 軋む音を、耳が捕らえる。眼は、無限の闇を見る。 次々に目醒め、甦る感覚に戸惑いを覚えながらも、青年はこれが初めてのことではない気がしていた。以前にも、同じように闇に漂い、そして……甦った。 ――あれは……いつのことだ……? そして、何故今、我は…… 思い出せない。記憶はまだ眠っているのか。そういえば、己の名はなんであったか。 肉体を取り戻したものの青年からは記憶が、己を己であると知らしめすものが欠落している。 青年がそのことに気づくと同時に、また、あの軋む音が響く。 音に引き出されたように、青年の姿は闇から浮かび上がる。その身が色彩を得る。肌は白く、髪は赤銅、眼には、金。 身に纏うは紫の着物に、黒の羽織。羽織には大きな立襟が付いている。羽織の胸元には六芳の星が記され、着物の袂には鮮やかな赤で炎が描かれていた。 異装、である。異様であるといってもいい。それだけではなく、この姿は何処か禍々しい。 己の様に息を呑んだ青年の耳にまた、きぃ、と軋む音が大きく響いた。 大地を真っ黒に埋め尽くした幕府の兵が、じりじりと城に迫る。 対する民は傷つき、飢え、もはや戦う力はない。 できるのはただ祈ることのみ。祈り、魂の平穏を求めるのみ。 それがどれほどに無駄なことか、誰よりも四郎は知っていた。 祈ったところで神は救ってはくださらない。祈って救われるならば、戦など起こさなかった。起きなかった。 祈りにできるのは迫り来る死への恐怖を和らげることのみ。 ――それでいい、心安らかに死んでいけばいい。祈り、心安らかに神の御元に―― どれほどの苦しみを重ねようとも、どれほどの苦難の道を歩もうとも、神の愛を信じる。それこそが信仰の道。 ――だが……だが、だが! 祈りながらも四郎は独り、悲痛なる叫びを神に向ける。 我らは死ぬために武器を取ったのではない、立ち上がったのではない。生きるためだ。信仰はその支え、希望だったはずだ。死出の旅へ導くためのものでは、なかった。 ――神よ……生きることを望むは、罪ですか……苦難を甘受することが、あなたへの信仰ですか……! 神は、答えない。 それでも。 四郎は人々に祈りを捧げさせるしかなかった。 祈りという「希望」を掲げ続けるしかなかった。 なぜならば、四郎もまた民の「希望」。 民を救うために、予言通りに顕れた神の子、天草四郎時貞。 神の子は、希望の子は、その心中がどうであれ、己の迷いを、「絶望」を民に見せるわけにはいかないのだ。 最後の、その時まで。 ――天草、四郎、時貞。 それが己が名だと、そして今の光景が己の過去であることを青年は思い出した。 深い絶望と、共に。 島原の民、二万数千がことごとく命を落とした、あの戦。 炎上する島原城、途切れることのない断末魔の悲鳴、子供の泣き声。それらを切り裂き響く剣戟の音、銃声の中で続く祈りの声。絶望の中で、最後まで皆、希望に、神にすがった。答えることのない、神に。 それらすべて、神の試練だったかもしれぬ。それだけの苦難があってなお神の愛を信じることができるかどうか、かのヨブのように、民も天草も試されたのかもしれぬ。 ――だが…… 己の手を、強く天草は握りしめる。凄惨というも躊躇われるあの光景。天草には、試練の一言で片づけるには重すぎた。 闇に、何度目になったか、きぃ、と音が響く。 この感情は初めてではないと、告げるように。 暗黒の闇に、たゆたう。 ゆうら、ゆうらと、浮くでもなく、沈むでもなく。流されるわけでも、留まるわけでもなく。 島原の戦の中で神への疑問を抱いた所為だろうか、天草は天国でも煉獄にも行けず、混沌と変容を続ける暗黒に肉体も精神も溶け込み、漂っていた。 時折、悪夢のようにあの戦の惨劇が茫漠とした天草の意識に甦り、その一瞬だけ、天草は己を取り戻した。その度に天草が繰り返すのは、神への届かぬ問い。 ――神よ……神よ、神よ…… 届かぬ問いに、返る答えはない。 しかし。 『現世での恨み、晴らしたいとは思わぬか。天草よ』 それは、いつだったか。 繰り返される問いの中に、割って入った声があった。 揺らめき流れる闇と同じように、一様ではない声だ。老若男女全てと異なり、それら全てであるかのような声が天草の意識に入り込み、響く。 ――恨みを……晴らす……? お前は、何者だ……? 『我は神。暗黒神、アンブロジァ。お前の求める答えを、お前に与うる神』 ――神……? 「神」の語った名は、天草の知るものではなかった。だが天草の心を、その「神」、アンブロジァの言葉は揺り動かした。 「答え」。天草が、ずっと求め続けていたもの。 ――我が求める答えを、お前は、本当に与えられるというのか……? 『問うか、天草。お前は何が真か知っているはず。 天草よ、現世での恨み、晴らしたいのであろう? お前が愛した民を屠った徳川の世に、復讐したいのだろう? ならば晴らせばよい。復讐すればよい。力は我が与えようぞ。 不条理な仕打ちに報いることの何が、罪か』 声が続くにつれ、アンブロジァが姿を現すのを天草は視た。不定なる闇の中に確固として存在する、全き暗黒。 闇よりもなお昏き、黒よりもなお黒き、輝ける暗黒。揺らぎも惑いも知らぬそれは圧倒的な存在感を以て、天草の魂をからめ取っていく。 ――……恨みを、晴らす……復讐を……徳川の、世に…… アンブロジァの言葉を繰り返す天草の眼に、金色の険のある輝きが宿る。秀麗な顔に歪んだ禍々しい笑みが浮かび上がる。 天草の心に膨れ上がる復讐の念、憎悪の念に煽られたかのように、ゆうらり、と周囲の闇が大きく揺れた。 『我を受け入れよ、天草四郎時貞。我こそが、お前の求める答え』 その瞬間、アンブロジァの言葉は、存在は、正しく天草の希望となった。 ――……神よ……アンブロジァよ…… 天草四郎時貞は、アンブロジァの前に、膝をついた。 ――報いを、徳川の世に、島原二万数千の民の生命の報いを……!! 天草の記憶が、また一つ甦る。 天草の意識をあの日、闇に漂っていた天草の意識を覚醒させたのは、暗黒神アンブロジァ。 アンブロジァの誘いの言葉に、天草四郎時貞は堕ちた。島原の民の復讐を、無念を晴らしたい一心で、神の愛に背を向けた。 しかしここは、闇。 ――甦ったはずの己は、何故ここに、在るのか。 ぎぃ、と軋む音がする。少しずつ、その音は大きくなっていくかのよう。 『父を超えるなど造作もないこと。 我が力を与えようぞ』 若き忍は苦悩していた。父である忍に届かぬ事に、父の声が聞けぬ事に。父の声を求め、足掻き、苦しむ様は、己と似ていると天草は思った。 どこか似た魂だからこそ、天草四郎時貞が魂の器に相応しい肉体なのであろうか。 恐れと警戒、戸惑いと渇望の意志を、若き忍の端正な顔の中に見ながら、天草は微笑む。慈悲の笑みを、迷える魂に。 『そなたにも答えを与えてやろう……さぁ、我に全てを任せよ……』 天草は確信していた。若き忍にとってこの言葉は希望であり、故に、忍が己の誘いを受け入れることを。 『この秘石……我が望み果たす為に使わせてもらう……』 日の本の国から何千里も離れた、輝ける太陽と聖なる魔石に守られし地に、天草は出現した。 魂の器の次に必要なのは、暗黒神の力をより高め、現出せしめる神具。それを求め、天草はこの地に来た。そして神具は今、天草の手にある。長きに渡り人々の祈りを受け、それに応えてこの地を守ってきた、宝珠。 ――この宝珠があれば我が力、更に高まる…… 神具を奪われ、怒りと絶望の声を上げるこの地の民に背を向け、天草は姿を消した。もうここには用はない。 ――我が望みはただ一つ。徳川の世に、復讐を。 『クク、クククク……また一つ国が消えてゆくわ……』 かつて聖石と崇められた時の輝きを失い、禍々しくも妖しい光を宿す宝珠を手に、天草は嗤う。 その視線の先で、城が崩れ落ちていく。天草に宿る暗黒神の力は宝珠によって具現し、現世に災厄をもたらす。 苦しみ藻掻き、怨嗟と絶望に呻く人々を、荒廃していく大地を宝珠に映し見やる天草の目には、愉悦の色があった。 希望はいつしか、野望と変じていた。 ぎぃ、と音が響く。 音が、天草の記憶を呼び覚ます。 ――何ということを……我は…… 甦る記憶と共に、天草の心に広がるのは、悔恨。 野望の名の元に繰り広げられる惨劇。野望に縋ることで目を背けた、己が醜さ。どれだけの希望を、己は踏みにじったことか。どれだけの絶望を、世にもたらしたか。 己が内に復讐の心があるのは否定しない。徳川の世に恨みもある。だがそれでも、己が為したことを是とすることは、今の天草にはできなかった。 島原の戦の記憶が、今も色濃く在るが故に。 ぎぎぃ、と音が響く。 次に見えるものが何であるのか、もう天草は知っていた。 『汝が無礼、今なら許そう……。我が魔道の前にひざまづくがよい!』 島原、あの忌まわしき惨劇の地が、暗黒神の下僕となった天草の拠点だった。はじまりと終わりの地であるこの島原から、復讐を遂げる。それはもはや天草の妄執と化していた。 そこに、天草の聖地であり忌まわしき地に、一人の剣士がたどり着いた。 天草を斃すために、その剣士は来たのだ。 そうだ、と四郎は独り言ちる。 幽かな笑みが、その唇に浮かぶ。 四郎の記憶は全て甦り、今に繋がった。 あの剣士が危険だということを天草は知っていた。だからこそ、時に誘惑の言葉を囁き、時に抹殺を図った。しかし剣士はそれら全てをはねのけ、天草の前に現れた。 己の目的を果たすために、刃一つ、己の力のみを頼りとして。 力だけなら、暗黒神の加護と神具を手にしている天草が勝っていたはずだ。しかし、激闘の末に天草四郎時貞は剣士に斃された。暗黒神の力を以てしても、その剣士に勝てなかった。 何故か。それは今となっては、問う意味の無い、愚問。 天草の復讐は潰え、現世から追い払われた。 器としていた肉体は、父である忍が取り戻しただろう。 そしてこの魂は、再び、いや三度、闇にたゆたう。 無念の思いはある。島原の民の恨みを晴らしたい、その望みは今でも四郎の心に巣くっている。 だが四郎は、既に思い出していた。 とどめの一撃を受けた瞬間、天草の魂には、絶望だけではなく、歓喜が共に響いたことを。 その時初めて、四郎は気づいたのだ。 答えは、暗黒にはなかった。 滅びの日を待っていた己に、四郎は知った。 きぃ、と軋む音がする。 まだだ、まだだと叫ぶ声がする。恨みを晴らせと声がする。 それは己の声のよう、暗黒神アンブロジァの声のよう。 揺らめく闇の中に、かつてのように暗黒が凝り固まっていく。 頭上から、まばゆいまでの暗黒が差し込んでくる。 だが四郎は、それら全てを拒んだ。 暗黒に、答えはない。 ――……神よ…… 低く、呟く。この問いかけは、届くまい。一度背を向けた罪人を、神は許すまい。 それでも、いつか答えを聞く日を希望と抱くも、悪くはない。答えの返らぬことを知る、絶望と共に。 そう、四郎は思った。 四郎はゆっくりと目を閉じる。闇が、全てを閉ざしていく。 今度こそ。 ぎぃ、と軋む音が聞こえる。 ばたん、と何かが閉じる。 悪しきもののつまった箱の底には、希望と絶望が眠っている。 終幕 |