短髪


 シャルロットは髪を切った。
 豊かで艶の良い、自然に波を打った髪を切った。
 腰の辺りまであった髪を、肩につくほどの長さまで、切った。

 フランスという国は、崩れかけていた。
 一握りの貴族が生活の苦しみを知ることなく贅沢な生活を続ける一方で、民衆は日々のパンにも事欠き、その日その日をやっとの思いで生きていた。
 貴族でありながら贅沢な生活を嫌い、領民の生活を守り支える日々を送るシャルロットにとって、貴族達の愚かさは見るに耐えないものであった。
 しかし一方で、限界まで高まりつつある民衆の不満を案じてもいた。このままではいつか、民衆は不満を爆発させるだろう。そうなったら、貴族にも民衆にも大きな犠牲が出る。
 それだけは、シャルロットは避けたかった。どれほどに愚かであっても貴族達の死までは望んでいない。民衆の犠牲は言わずもがなである。そうならないようにシャルロットは時として自領以外にも馬を走らせ、民衆の生活を助けて回った。
 また、良識があると信じられる貴族達に民衆の現状を訴えては協力を求めていた。良識があっても民衆と隔絶した生活を送ってきた貴族達に話をわかってもらうのは困難であったが、シャルロットは挫けることなく動き続けた。
 その日もシャルロットは、約束を取り付けた男爵に会う為に、深紅のドレスを纏ってヴェルサイユ宮殿に赴いていた。
――何度来ても……ここは好きになれない……
 淑女としての優雅さをかろうじて失わないぐらいの早足で廊下を歩みながら、シャルロットは内心眉をひそめる。
 ロココ調の繊細で優美な装飾に飾られた広い宮殿は、日々の生活に苦しむ民衆の存在をまるで感じさせない。
 窓の外に見える見事な庭や、宮殿の中を行き交う着飾った貴族達は言うまでもなく、自らの勤めを果たす召使い達にさえ、日々の生活の苦しみは感じ取れない。
 別世界だと、シャルロットは思った。
 この宮殿の全てが、民衆の命で成り立っているというのに、この宮殿の全てはそれを見ようとしないのだ。この宮殿の存在こそが、民衆と貴族の間の壁になっているのだと、シャルロットは思わずにはいられなかった。
――このままにしてはおけない……このままでは、この国はいずれ崩壊する……
 優雅な宮殿にも、深紅のドレスの淑女としても似合わぬ険しい表情を浮かべ、シャルロットは早足に男爵の居る部屋を目指した。
 大理石の廊下を早足で歩むシャルロットの足音が、硬く、高く響く。
 やけに大きく聞こえる自分の足音に、シャルロットは足を止めた。
「あぁぁぁ、退屈ですこと!」
 同時に、女性の高い声が聞こえてくる。「マルスの間」の方からだ。
――あの声は……しかしまさか……
 聞き覚えのある声とそこに含まれる異様な雰囲気に、シャルロットはそっとマルスの間を覗き見た。広い広間の真ん中に、豪奢なドレスに身を包んだ女性がただ一人でいる。人影は他にはない。それなのに女性は、確かに誰かと話している。
「退屈、退屈、退屈!
 毎日毎日同じ事ばかり!
 宝石もドレスも、欲しいものはすぐに手に入る。舞踏会もカードも、私が一番。つまらない、つまらないこと!」
 そう言った王妃の横顔に、シャルロットは息を呑んだ。
 どこか幼さを残した美しいその顔は、フランス王妃のものだ。だが、シャルロットの知る王妃は笑みの愛らしい、少女のような女性だったはずだ。他の貴族と同じで贅沢を好み、民衆の生活に気を向けることはなかったが、今のように大きく声を張り上げることなど無い。
 シャルロットは足音を忍ばせてマルスの間に忍び入った。素早く窓の方へ走り寄り、カーテンの陰に身を隠す。
 幸い、王妃は気づかなかったようだ。かつかつと高く足音を立てて広間の中を歩き回りながら、相変わらず何かと話し続けている。
「え……?
 まあ、処刑? ギロチン? まあ、まあ、まあ、楽しそうですこと!」
 明るい王妃の声に、シャルロットは眉をひそめた。一国の王妃たる者が処刑を楽しげに話すなど、信じられない。
――王妃……一体どうしてしまわれたのだ……それに、何と話をしている……? 
「バスティーユには処刑にぴったりな罪人がたくさんいますわ。足りなければ、連れてくれば……」
 不意に、王妃の言葉が途絶えた。
 衣擦れの音と、静かな足音がシャルロットに近づいてくる。
――気づかれた……!?
 まさか、とシャルロットは思った。
 剣の修練や狩りを通して、気配を殺す術をシャルロットは身につけている。そのようなことに疎い王妃が、シャルロットに気づくことができるはずもない。
 しかし、
「そこにいるのは誰です」
王妃はシャルロットが隠れているカーテンの脇に立ち、問いかけた。詰問口調のその言葉には、隠れ潜む者への殺気が含まれている。
――王妃……やはり普通ではない……
 完全に気づかれている。王妃自身か、その側にいる何者かは定かではないが、シャルロットが隠れているのを知っている。そして、王妃の声の中のはっきりとした殺意―立ち聞きしていた者への怒りで、ここまでの殺意を持つとは考えられない―に、「彼ら」が自分を逃がす気はないのをシャルロットは悟った。
 スカートの中に忍ばせたラロッシュの柄を一度強く握ると、シャルロットは静かにカーテンの影から姿を現す。
「シャルロット・クリスティーヌ・ド・コルデにございます」
 スカートの裾を摘んで、シャルロットは王妃に恭しくお辞儀をした。
「シャルロット……コルデですか……」
 サファイアのような美しい王妃の青い目に、冷ややかな笑いが浮かんだ。
 フランスの王妃とは思えない殺気を纏い、フランスの王妃そのものの優雅で高貴さを感じさせる物腰で、王妃はシャルロットに歩み寄った。
 その異様さと感じる力の強大さに、思わずシャルロットは後退る。
 王妃はシャルロットが後退る分だけ歩み寄り、スカートの形が崩れるのも気にせずに体を近づけてシャルロットの顔を覗き込んだ。
「聞いたことがあります。
 女でありながら剣や狩りにうつつを抜かし、淑女のたしなみを知らぬ、愚かな娘だと。
 領民どもにいらぬ情けをかけ、私や王の意に背く……あばずれと!」
 狂的に叫ぶと同時に、王妃はシャルロットの結い上げた髪―そのほとんどが付け髪であるが―を掴んでむしり取った。
 髪飾りやピンが弾けるように飛び、大理石の床に落ちて堅い音を上げる。
「王妃、何をなさいますか!」
 叫ぶシャルロットを、更に王妃は突き飛ばした。髪をむしられたショックと久しぶりのドレスに、シャルロットは躱わすこともできずに、不覚にも倒れ込んでしまった。
「何とひどい髪をしていること! 短い髪を好むならば、修道院にでも引きこもっていればいい!
 自らの分もわきまえぬ愚か者よ!」
 蔑みの視線でシャルロットを見下ろし、あくまでも優雅に、しかしヒステリックな笑い声を王妃はあげた。その甲高い笑い声と共に、どす黒い影が王妃の背後に立ち上る。影は王妃に絡みつくと、その笑い声を愛でるように王妃の頬を撫で上げる。王妃はそれを拒みもせず、うっとりと影に身を任せていた。
 シャルロットは直感的に悟った。その影こそが王妃を狂わせ、フランスの崩壊を早めているのだと。貴族を堕落させ、民衆に怒りと憎しみを植え付けているのだと。
 シャルロットは素早く立ち上がると、ラロッシュを抜きはなった。
「邪悪なモノよ! 王妃から離れよ!」
『ほう……』
 蛇が鎌首をもたげるように、影は大きく伸び上がった。同時に王妃がくたりと倒れ伏す。
『我を恐れぬか、女。
 我を求めぬか、女。
 我を崇めぬか、女』
 低く重い声がシャルロットの頭の中に響いた。耳障りな、しかしどこか心惹かれる声はゆっくりとシャルロットの中に広がっていく。
「何を言うか、魔物が!」
 右腕を後ろに引いて軽く上げ、左手のラロッシュをぴたりと影に突きつけてシャルロットは鋭く叫ぶ。
 しかし影は怯んだ様子もなく、ゆらゆらとラロッシュの剣先で揺らめいている。
『女、お前は国を憂い、貴族を嫌い、民を思う。
 女、だがお前は弱い、お前にでは国は救えぬ。
 女、我ならばお前の望みを叶えてくれよう。
 女、貴様の望み、貴族を滅ぼし、民衆の国を築く手伝いをしてやろう』
 囁くように、宣告するように影の声はシャルロットの中で甘く続く。
「黙れ!」
 ラロッシュの剣先が鋭角の軌跡を描き、影を切り裂く。しかし何の手応えも伝わってこない。影もまた一瞬大きく揺らめいただけだ。
 だがすぐにシャルロットは切っ先を上げると、再び影にラロッシュを突きつけた。
 怒りの朱に頬を染め、勿忘草の色の目で目前の影をひたと見据え、口を開く。
「魔物よ、貴様の手など私は借りん!
 私の望みは私の手で果たす!」
『髪を切り、女を捨ててか……?
 哀れな女よ……女、愛しい者もそれでは嘆いておろうの……』
「ハッ、愚かは貴様だ」
 婉然と、それでいて凛々しい笑みを顔に浮かべて、シャルロットは言い放った。

 シャルロットは、自ら髪を切った。
 愛しい人を、共にこの国の未来を思った人を失ったその日に。
 もし二人で未来を開いた後だったならば、それを見ていれば良かっただろう。
 彼の人と過ごした日々を見つめて生きていけば良かっただろう。
 だがこの国の未来は未だ暗雲の中だ。
 だからシャルロットは髪を切った。
 彼の人の分も生き、彼の人への想いを胸に刻み、この国の未来を切り開く、その誓いの為に。

「女を捨てる? 愛しい者が嘆く?
 そうとしか言えぬ貴様に、私の望みが果たせるものか!」
 カッ、と高く足音を立て、シャルロットは大きく前に踏み込み、身を低くする。
「パワーグラデーション!」
 カッ、と再び大理石を強く蹴って跳びながら、シャルロットはラロッシュを振り上げる。ラロッシュの軌跡は虹色に煌めき、影を両断する。
『……っ……な…に……!?』
 この一撃は影にも効いたと見え、両断された影は崩れ、消え失せていく。
「どうした、魔物よ。
 この程度で私の望みを叶えるだと? 笑わせてくれる」
『調子に乗るな、女ァ……』
 消えながらも、影は凄まじい殺気と邪気をシャルロットに叩きつける。。
『我は真なる我の一端に過ぎぬ……そしてこの国はもはや……終わり……クククク……残念だったな、女ァッ!』
「終わりになどさせぬ!」
 ラロッシュを一閃し、殺気と邪気を切り払い、シャルロットは叫んだ。
「この国は私が救う! そして貴様も私が滅ぼす!」
『クク……ならば来い……我…ジパング………貴様に……真……絶望……』
 耳障りな嘲笑の声を上げながら、影は消え失せた。
「フン……良いだろう……」
 ラロッシュを一振りし、鞘に収める。
「ジパングとやらに隠れ潜む貴様を討ち果たし、この国を救って見せよう」
 短い髪を無造作にかき上げる。
「この髪に、誓って」

 それから数日後、シャルロットは船上の人となり、一路、ジパングを目指した。

 シャルロットは髪を切った。
 鎖解き放たれた獅子となり、この国の未来を切り開く、その為に。
                                   終幕

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