世界に、異変が起きている。 空は厚い雲に閉ざされ、風は鈍く、水はよどみ、大地は乾いていく。 海は荒れ狂ったかと思うとぱたりと凪ぎ、船を出すのはずいぶんと危険なことになっている。交易も漁もできなくなり、故郷であるサンフランシスコの港からも活気が失われたと、風の噂に聞いた。 偶然に世界各地でこれらの異変が起きているはずはない。何か原因があるはずだ。 それを突き止め、異変を終わらせてみせる。 大切なたくさんのものをこの手で守るために。 ――父さんの、ように。 「パピー、行くぞ!」 「ワンッ!」 青く澄んだ目に強い意志を宿し、パピーは大きく応えた。 『一緒に、行きましょう』 その声を、ガルフォードは確かに聞く。 ガルフォードが連れて行くのではない。パピーが共に行くことを望むのだ。 あの月の夜に出会った時から、ずっと。 青い月が、やたら大きく見える夜だった。 黒と白の毛色の生まれたばかりの仔犬が、ガルフォードの手の中にいた。産まれたばかりの仔犬の体はまだ湿っている。タオルでその体を拭いてやりながら、時折ガルフォードはあふれる涙をぐいと手の甲でぬぐった。 ジパングに行ってニンジャになる――念願の夢を叶えるべく、家を出たガルフォードが拾った仔犬だ。傷ついた母犬が最後の力を振り絞って出産した中で、たった一匹だけ生きていた、仔犬。 ――どう、しよう…… 母親と兄弟達を生まれると同時に失った、小さな小さな命。 両の掌の中にすっぽりと収まる体から伝わる重みとぬくもりは、この命が確かに生きていることを示している。 ガルフォードは早くジパングに行きたかった。ニンジャに一日も早くなりたかった。今日のこともずいぶん前から計画し、慎重に慎重を重ねて実行に移したのだ。今日を逃すと、次の機会は何ヶ月も先になる。 だがガルフォードには、ひとりぼっちの小さな命をおいていくことはできなかった。 ガルフォードが正義感厚く、弱い者を見捨てられない性格だからだけではない。亡き父の言葉が、ガルフォードの中で生きているからだ。 五つか六つの時、ガルフォードは翼を怪我した小鳥を拾った。飛ぶ力を失った小鳥は放っておくと死んでしまうのは間違いなく、見捨てられずにガルフォードは家へと連れ帰った。 そのガルフォードに父親はこう言った。 『拾ったのはお前だ。だから世話をするのも、お前だ。 ガルフォード、それを忘れるんじゃないぞ』 幼いガルフォードはその言葉を胸に小鳥の世話をし、数ヶ月後、小鳥は空へ帰っていった。 その言葉が、今ガルフォードの中に思い返される。 ――父さん、俺……ん? 指に妙なくすぐったさを感じ、ガルフォードは手の中の仔犬を見た。 「お前……」 目も開いていない仔犬が、ガルフォードの指を吸っていた。 母犬の乳を求めているのだろう。生まれたばかりの仔犬が口にすることができる、命を支えることができるのはそれだけなのだ。 「ばかだな……指からお乳なんて、出ないぞ……」 何もわからない仔犬が可哀想で、ぐす、とガルフォードは鼻をすすった。 と、仔犬が強くガルフォードの指を強く吸った。それがガルフォードには、仔犬がこう訴えているように思えた。 『いきるの。いきたいの。かあさんたちのぶんも、いきるの。 だから、おいていかないで』 と。 今この仔犬が頼れる者はガルフォードしかいない。しかしそれをこの仔犬が知るはずもない。母犬を失ったことすらわかるまい。それでも、仔犬はガルフォードの指に吸い付く。乳が出るはずもないそこを吸い、生きようとしている。 ガルフォードは強く目を擦って涙をぬぐうと、仔犬に笑いかけた。 「……OK。お前は俺がちゃんと育てるよ」 ガルフォードは仔犬を抱いて、大きな月の下、家へと帰っていった。 ――ジパングにはいつでも行けるさ。 仔犬は、パピーと命名された。 ガルフォードは自分でつけたかったのだが、一つ上の姉のシェーラがさっさと決めてしまったのだ。 「この子、顔が怖そうだもの。かわいい名前をつけてあげないとね。 だからパピーにしましょ。ほら、ワイルダーさんちの裏にいっぱい咲いてるかわいい花があるでしょう? あの花の名前よ。 パピー、お前はパピーよ」 小さな仔犬の顔にキスして、にっこりとシェーラは言った。 その笑顔に逆らうことの恐ろしさをガルフォードはいやと言うほど知っていた。それに、シェーラがつけたにしては悪くない名前である。 だからその仔犬の名は、パピーになった。 それから半年ほどが過ぎ、パピーが十分育ったのを確認してから、ガルフォードは二回目のジパング渡航計画を実行に移した。 その日も、丸い月は天で大きく輝いていた。 ガルフォードは家族が寝入ったことを確認すると、裏口から足音を忍ばせて家を出た。 ――よし。 誰にも気づかれていないことを確認し、ガルフォードが港へと駆け出そうとした、その時。 くん、と何かがズボンの裾を引っ張った。 ――……っ! 上がりかけた声をかろうじて飲み込み、足下に目を向ける。 そこには、ガルフォードのズボンの裾を銜えたパピーの姿があった。 「パピー……」 ほっとしてガルフォードはしゃがみ込むと、パピーの頭を撫でた。 「びっくりしたじゃないか」 「クゥン……」 小首を傾げ、パピーは淋しげに鼻を鳴らす。 『つれていって。いっしょに、いきたい』 パピーの青い目は、そう言っているように思えた。 そして再び思い出される、父の言葉。 『拾ったのはお前だ。だから世話をするのも、お前だ。 ガルフォード、それを忘れるんじゃないぞ』 ここでおいていくのは、父さんの言葉を裏切ることになる、とガルフォードは思った。 「よし……じゃあ、ジパングへ一緒に行こう」 ガルフォードが言うと、パピーは嬉しそうにガルフォードの手を舐めた。 そして一人と一匹は月明かりの下を港へと走り――今度は無事に船に潜り込み、一月余りの航海の後、ジパング―日本に足を踏み入れた。 日本でガルフォードは「綾女」という元くノ一に拾われ、その弟子となることができた。どうにかニンジャになる道を得たことになる 「珍しい毛並みの犬だな。お前の国のものか?」 弟子になって暫くしたある日、綾女がパピーを抱き上げて問うた。 「えっと……はい。そう、です」 まだぎこちない日本語で、ガルフォードは頷く。 「太い足をしているな。これは大きくなるぞ。 ふむ……メスだな……メスにしては恐ろしげな顔だが、目はなかなかに愛らしい。 名前は何という?」 「パピーです」 「パピーか。変わっているが、良い名だ。 ガルフォード、このパピーを忍犬として育ててみるか?」 綾女はいたくパピーが気に入ったらしい。脇から抱え上げて鼻先に顔を近づけてみたり、腹を覗き込んだり、あるいは耳を裏返してみたりと体のあちこちを調べている。 まだ仔犬のパピーは、しかし辛抱強く綾女にされるがままになっていた。 「にんけん?」 「忍の、忍者が使う犬だ」 「はいっ」 自分がニンジャになるだけではなく、パピーまで忍犬になれるなんてすごいことだとガルフォードは目を輝かせて応えた。 「ならばお前が仕込め。何をすればいいかは教える」 「えっ?」 「お前の犬だ。忍犬となってもそれは変わらん。ならばお前が仕込むのが筋だ」 それに、と綾女は付け加える。 「ガルフォード、この国で忍となるお前と共に在るならば、このパピーにも新しい生きる術が、必要だ。 この国にパピーを連れて来たのは、お前だ。ならば、それを与えるのも、お前でなくては、ならん。 わかるな」 綾女はガルフォードが自分の言葉の意味を考えられるようにゆっくりと、丁寧に言って聞かせる。 ガルフォードは目を伏せて、長い綾女の言葉をじっくりと考えた。 『拾ったのはお前だ。だから世話をするのも、お前だ。 ガルフォード、それを忘れるんじゃないぞ』 心に刻んだ父の言葉が思い出され、ガルフォードは決めた。 目を上げるとじっとガルフォードを見ているパピーの澄んだ青い目が見えた。 ――違う……俺だけが決めるんじゃない。 「パピー?」 ガルフォードが問いかけると、パピーは小さく鳴いた。 『忍犬に、なる』 パピーがそう言ったのを、ガルフォードは聞いた。 「はい、師匠!」 だからガルフォードは大きく答えた。 「キャン!」 そして小さなパピーも高く一声、鳴いた。 ――あれから……五年、か。 空を見上げてガルフォードは思う。 自分は何とかニンジャになり、パピーは立派な忍犬に成長した。もう二人とも子供ではない。 前に進む力がある。大切な者を守るために戦う力がある。その力を振るうのは、今だ。 「よし、行くぜ、パピー!」 ガルフォードがパピーに声をかけたその瞬間、突然、妖風が二人の周りに渦巻いた。 「グルルルルル……」 パピーが体を低く伏せ、唸り声を上げる。 「なんだ、この気は……憎しみ……?」 風に宿る強烈な憎しみの思念を感じ、ガルフォードはぎり、と歯を食いしばった。それはガルフォードとパピーにだけ向けられたものではない。この世のありとあらゆる全てを憎み、呪っている、そうとしか思えないほどその気は強かった。 「ククク……青い目の忍か……面白い……」 風が闇を生み出し、世界の全てを二人から閉ざす。その闇の中から、憎しみの化身が極彩色の光と化して出現した。おぼろに人の形を取った光は、明滅を繰り返しながら高笑いを上げ、 「青い目の忍よ……我が元へ来たれ……貴様に暗黒の力……全てを意のままとする力を授けてやろう……!」 「暗黒神だと!? 誰がそんなものに! 失せろ! 貴様と暗黒神は、俺達が倒す!」 背からジャスティスブレードを引き抜いてガルフォードは構えた。 「ウォン!」 パピーもまた身構えると、大きく吠える。 「ククク……ならば飼い犬と共に死を待っておれ!」 「パピーは飼い犬じゃない! 俺の相棒だ!」 「ふん……どちらにせよ、貴様らに待つのは死のみよ……クククク……」 耳障りな嗤い声を上げ、光は闇に消え、闇は再び妖風と化して消えた。 「そんなことはない! 正義は必ず勝つ!」 「ワン、ワン!」 妖風が走り去った先を睨み、ガルフォードとパピーは叫ぶ。 「パピー……あいつ、絶対に放っておけないぜ……」 呟くガルフォードを、パピーが見上げて鼻を鳴らした。その目には、同意の意志がある。 ――ああ、そうだ。 ガルフォードは改めて強く思う。 ――俺はパピーを飼ってるんじゃない。従えてるんでもない。 パピーは、自分と一緒に何処までも同じ道を行く。それを決めたのは誰でもない、パピーだ。 そして、パピーと一緒に行くことを決めたのは、ガルフォード自身だ。 だからガルフォードはパピーと共に戦える。掛け替えのないパートナーとして信頼し、背中を任せられる。 ぱたぱたとパピーが尻尾を振る。早く行こうと急かすように。 「ああ。行くぞ、パピー!」 明るく力強い笑顔をパピーに向けると、ガルフォードは走り出した。 「ワンッ!」 一声吠えて、パピーはガルフォードの隣を駆ける。 出会ったあの月の夜から続く、同じ道を。 終幕 |