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「龍炎舞!」 女の声と共に、赤い炎がうねった。 なすすべなく、不知火幻庵は炎に呑まれた。全身に熱と痛みが走る。衝撃と共に、体が地面に叩きつけられる。息ができない。叩きつけられた所為か、炎に焼かれた所為かはわからない。 「ケ……けひっ……っ」 びくびくと身を震わせ、掠れた声を上げる幻庵を、赤い装束の女が見下ろす。「龍炎舞」なる火術で、幻庵に致命傷を与えた女、名は不知火麻衣と言ったか。 幻庵の眼はしかし、とどめを刺そうと近づいてくる女を見てはいなかった。 ただ、空を見ていた。 抜けるように蒼い、青い空を。 鬼哭島という忘れられた島がある。 日本の近海にある小さなその島は、草木も生えぬ岩ばかりの地だ。島の近海は実は結構な漁場なのだが、潮の流れが速く、複雑なために人を寄せ付けないでいる。 ごくごくまれに、嵐にやられた漁船が漂着することもあったが、その船が再び出向することはなかった。 この島に足を踏み入れた者は皆、不知火一族の餌食となるのである。 不知火一族とは、一言で言うならば異形の一族である。人の形をいびつにしたもの、と言うのがいいだろう。 その一族の大半は、肌の色が緑だったり青黒かったり、背が蚤のように曲がっていたり、手足が異常に長かったり短かったり、やたら痩せていたりあるいは逆に酷く太っていたりと、人の感性で言うと異様で醜い姿をしている。もっとも、彼らの感性も価値観も人間とは異なっており、姿であろうと心であろうと、醜いほどに美しく、賞賛するに値するものとなる。 不知火一族の男達は、時折、島を出る。複雑な潮の流れも、道筋を知る彼らを阻むことはない。そうして人の世に降りたっては、殺し、奪い、破壊する。それは全て、その身に潜む、邪悪な衝動を満足させるためだ。 人はそんな不知火一族を鬼と、化け物と呼んで恐れた。 恐れから出たその言葉は、間違ってはいない。不知火一族の血はたどれば魔界に繋がるのだ。かつて、何らかの影響で魔界から人間界に迷い出たものがあり、それが人と交わったのが不知火一族のはじまりなのだという。 そのような異形の一族の住む鬼哭島の岬に、ここ十日、毎日訪れる者があった。 名は、幻庵。不知火一族最強の戦士であり、不知火一族で最も禍々しく歪んだ存在であった。 幻庵は朝、日の出の頃に岬を訪れるとその先端にうずくまる。そのまま僅かも動かず、じっと空を睨んでいる。日が西の海に傾き、空が赤く染まり始めてようやく立ち上がり、住処へと戻る。そしてまた翌朝、岬へとやってくる。 不知火一族としては珍しい、奇妙なことである。 不知火一族は夜行性だ。魔界の血を引くせいか、日輪の光を嫌う。よほどのことがなければ、日の下になど出てこない。 しかし幻庵は毎日陽光の下に姿をさらし続ける。 肌の色が緑で、両腕が長く足の短い幻庵がうずくまっている様は、蛙と似ていた。 晴れ渡った空を見上げ、雨を請う、蛙。 今日もまた、幻庵は岬の先端にうずくまっていた。丸く、ぎょろりとした目を見開き、空を見上げている。猫と同じく光によって大きさの変わるその瞳は、今は糸のように細い。 幻庵のとがった耳が、ぴくりと動く。近づく足音を、耳にしたのだ。 足音はゆっくり近づいてくる。岩場を裸足で歩いてくる。不知火一族で履き物を履くような者はいない。 幻庵は、一度瞬きをした。 足音が、止まる。幻庵の隣で。幻庵の上に、細い影が落ちる。 「何の用ケ」 顔も向けずに、幻庵が言う。 「幻庵様こそ、毎日こんなところで何を……」 問いで言葉を返したのは、女であった。胸と腰を申し訳程度に布で隠した、白茶色の肌の女。不知火一族ではあるのだが、人の感性でも美人といえるだろう。それでもその艶やかな黒髪を飾る人骨のかんざしと、幻庵と同じく糸のように細くなった瞳が、この女もまた不知火一族であると表している。 「あざみ」 幻庵は女に目を向け、その名を呼んだ。 女――あざみは、幻庵の妻である。 人の感性で美人と言うことは、不知火一族としては醜いということだ。そんなあざみを、最強の戦士であり、女など選び放題であるはずの幻庵が娶ったのは、不知火一族の大きな謎である。 「お前は島の外を知っているケ?」 「いいえ。私は島の外には行ったことがありません」 唐突な幻庵の問いに、きょとんとした顔であざみは首を振った。 「そうケ。そうだケ。お前は、女だケ」 つまらなさそうに、幻庵は頷いた。 男は島を出ることはあるが、女はまず島を出ることはない。血を絶やさぬ為、島で子を産み、育て、家を守るのが不知火一族の女の役目だからだ。 「はい……でも……」 あざみは己のふくよかな胸の上に、手を置いた。その眉が悩ましげに寄せられる。そんな表情も美しいが、幻庵の興味を引くことはない。 「行ってみたいと思います……近頃、特に」 幻庵に向けるあざみの目に、妖しい光が揺れた。頬も僅かに紅潮し、あざみが軽い興奮状態にあることを示している。 「お前も、血が騒ぐケ」 「はい。ざわざわと。 島の外で、何か起きていると、私の血も言っております」 「そうだケ。強大な魔が出現したケ。魔の時代が来るのだケ」 「それで、皆……ざくろやむくろまでも落ち着きがないのですね」 あざみの言う通り、ここ十日程―そう、幻庵が岬にを訪れるようになった辺りから―不知火一族は一様に気分が高揚し、落ち着きを失い、そわそわとしている。幻庵とあざみの子、ざくろとむくろもずっと興奮状態にあり、ここのところあざみは二人の世話に随分と苦労していたのであった。ここに来る前も、寝かしつけるのにかなり骨を折っている。 「ケ」 興味なさげに、幻庵は頷いた。 不知火一族も、血縁の者への情だけは人と変わらない。だが今は、幻庵は子供達よりも気になることがある。 血をざわめかせる強大な魔の出現。それがもたらすであろう魔の時代は望むところであるが、「強大な魔」そのものは、何か、気にくわない。 このまま放っておけば、「強大な魔」が全てを支配するだろう。そうはさせてはならない。「強大な魔」を排除し、この不知火幻庵が魔を、全てを支配する――空を毎日見上げながら、そんな野望を幻庵は抱いていたのだった。 といっても、ただ空を見て、夢想していたわけではない。吹き抜ける風の中に、流れる潮の匂いに、「強大な魔」の、仇敵の存在を求めていたのだ。 それもこの十日で、随分と絞れた。西だ。西の、かつて多くの血と怨嗟の声を吸った地に、その魔はいる。それを幻庵は感じ取った。 と、幻庵の上に落ちていたあざみの影が、消える。 「……ケ?」 怪訝な声と共に幻庵が目を向けると、あざみは腰を下ろしていた。立てた膝を両手で抱え、やはりまぶしそうに目を細めながら空を見上げる。 「どうしたケ?」 「幻庵様が見ているものを、私も見たい」 そう言ったあざみの顔が、大きく歪む。 かたっと両眉を下げ、眉間どころか鼻の頭にもにしわを寄せ、大きく口を開いて歯茎までむき出す。これがあの美女かと思うほど、その顔が醜くなる。 微笑んでいるのだ。 あざみがこんな笑い方をするのは、幻庵の前だけだ。腹を痛めた子にすら見せぬ、醜悪この上ない表情。 微笑むあざみに、幻庵は顔を向けた。その顔もまた、醜悪に歪む。 これがあるから、幻庵はあざみを己の物にしたのだ。誰も知らない、己だけの至宝。この笑みを持つ女を手に入れたことは、幻庵の独占欲と優越感を大いに満たしている。 「……勝手に、するケ」 幻庵は少し早口に呟くと、また空を見上げた。その体内で血が、どす黒い衝動と共に、ざわめく。ざわめきがさっきまでより大きくなった気がするのは、あざみの笑みを見た所為か。 魔の王として君臨した自分の傍らに、笑みを浮かべるあざみをはべらす。想像するだけで、ふつふつと欲望がたぎる。 だがしばらくの間、あざみと離れなければならない。己が野望を果たすための旅路に、女は連れてはいけぬ。 あざみはそのことには、気づいていないだろう。 ――ケ…… 幻庵の胸に、野望とは異なる何かが、さざめいた。 それを誤魔化すように、幻庵は空に目を向ける。 陽光のまぶしさに目を細くし、抜けるように蒼い、青い空を、見つめる。ただ。 空は、青い。青くて、どこまでも遠い。 この空は、鬼哭島の空に繋がっている。 幻庵の唇が、僅かに動く。 ――……あざ、み…… もはや音にはならぬ、吐息のような声で呟いたのは、妻の名。 妻は、あざみは、きっと岬で空を見つめているだろう。幻庵が目的を達し、己の元に返ってくる日を信じているだろう。あれは、不知火一族らしからぬ、一途な女だった。 「……ケ…ケケッ………」 幻庵は、顔を歪めた。笑った。 人の世の暦で天明八年、不知火幻庵は、死んだ。 眼を見開き、青い空を見つめた、まま。 終幕 |