残焔


 雨が降り出したのだと、半蔵は思った。
 故に躰が冷えるのだと。
 故に視界が霞むのだと。

 焔が消えたのだと、半蔵は思った。
 己が内で激しく燃えさかっていた、焔が。
 故に体は重く、故に心は空虚なまでに静かなのだ。
 物言わぬ我が子を目の前にしているというのに。
 座り込んだ半蔵の目の前に、真蔵が横たわっている。
 異国風の着物を纏い、端整な顔立ちには穏やかな表情が浮かんでいる。一見したところでは眠っているようにしか思えない。
 だがその着物の胸には、赤黒い染みが広がっている。肌の色も異様に白い。触れても、ぬくみは感じない。
 当たり前だ、と半蔵は思う。
 死んだのだ。心の臓を刃で貫かれて、この者は死んだのだ。
 己の手を、見る。
 手は、きれいだった。体中傷だらけで、装束も覆面も巻布もぼろぼろになっているというのに、手だけはきれいだった。
 奇妙なものだと半蔵は思った。
 我が子を殺めた手が、きれいに見えるとはどういう事なのだろうと。
 両の手を、強く握りしめる。
 あの日と同じに、何も掴めなかった、空の手を。
 

 あの日の出羽の空は厚い雲に覆われ、昼間というのに夕暮れ時のように暗かった。
 鬱蒼と木々の茂る山中は更に暗い。その中に、半蔵に背を向けて立つ真蔵の装束の白い色が、鮮やかに浮かんでいた。
 この出羽に、その色の装束を纏う者は一人だけしかいない。半蔵の長子、真蔵である。先までこの修行場で一人、鍛錬に励んでいたはずだ。
 だが、我が子のはずのその者から、『脅威』を半蔵は感じていた。首筋にぴりぴりとした感覚が走り、忍の本能が目の前にいるそれを『敵』と告げる。
 これまで誤ったことのないそれを、しかし半蔵は否定した。
 我が子が脅威のはずがない。ましてや敵であるはずがない。
 それでも、半蔵の―忍の―体は動かなかった。我が子に近づくことができなかった。
「真蔵……」
 掠れた呼びかけを、口にするのが精一杯だった。
 声が聞こえたのか、青年はゆっくりと振り向いた。
 能面のように表情が抜け落ちた顔の虚ろな目が、半蔵を見る。
「父……上……?」
 無表情だった顔に、安堵の色が浮かぶ。幽かな微笑みもあったかもしれない。
 だが半蔵がそれを確信するより早く、閃光が真蔵を貫き、瘴気と邪気を含んだ颶風(ぐふう)が真蔵の周囲で渦を巻いた。
「真蔵!」
 風と光に顔をかばいながら叫ぶ半蔵の声を、狂ったような真蔵の哄笑がかき消す。
 否、『それ』はもはや真蔵ではなくなっていた。
 異国風のゆったりとした衣に身を包み、邪気に波打つ髪を揺らめかす、人の形をした、異形―『それ』こそが『脅威』であり『敵』なのだと半蔵は悟る。
「貴様、何奴!」
 背の忍刀に手を懸け、身構える。
「我が名は、天草四郎時貞……」
 両の手を大きく広げ、それは名乗った。
「天草四郎……?
 真蔵をどうした!」
「汝の息子の躰は我が憑坐であり、今や我自身。
 魂は既に魔界に堕ち、今頃は死霊の餌食よ」
 半蔵さえも寒気を感じるほど美しく、邪悪な笑みを浮かべ、『天草四郎時貞』は言う。声にも、顔にも、体格にも、真蔵の面影は欠片もない。
「な……に……?」
 地から湧き出す水のように、しかしゆっくりと、『何か』が己が内に現れたのを半蔵は感じた。
 『何か』は怒りであったかもしれない。哀しみであったかもしれない。憎しみであったかもしれない。いくつもの感情が入り交じったそれらは次の瞬間には焔と化し、半蔵を突き動かす。内なる焔に突き動かされるまま、半蔵は地を蹴り、忍刀を引き抜き、天草に斬りかかる。
 だが刃が魔性をとらえる寸前、ゆらりとその姿は揺らめいて一撃を躱わし、ふわりと宙に舞い上がった。
「貴様に躰を乗っ取られるは我が息子の未熟。だが、その躰は返してもらう!」
 忍刀を天草に突きつけ、半蔵は言葉を叩きつけた。常の冷静さは消え失せている。普段はほとんど感情を露にしないその顔にあるのは、強い怒りだけだ。
「未熟とな? 愚かな……」
「なんだと!?」
 天草は、クックックッと喉を鳴らして笑った。
「この者は苦しんでおったぞ。汝が息子という立場にな。
 この者は憎んでおったぞ。追いつけぬ汝を、手を差しのばすことのない汝を。
 汝には覚えはないのか?」
 天草はふわりと半蔵に近寄ると、そっと手を伸ばし、半蔵の頬に触れた。
 愛しげに、しかし妖しく。
「なん……だと……」
 触れられるほど近づかれても、天草の言葉に身を縛られたように、半蔵は動けなかった。
「愚かとは、幸いよな。
 この躰、ありがたくもらっていくぞ」
 すうっと半蔵から魔性は離れ、宙に舞う。だがその手は、ぎりぎりまで半蔵の頬に触れたままだった。
「……待てっ!」
 遠ざかる天草に我に返った半蔵は、大きく跳躍し、その後を追う。
 斬るためではなかった。
 刀を握らぬ左手を伸ばしていた。
 だが嘲笑を残し、天草は姿を消した。
 半蔵の左手は虚しく空を掴む。
 空を握ったまま、半蔵は着地する。
 その半蔵の頬に、ぽつりと小さな雫が落ちた。
 さあっと、細かい霧雨が降り始める。
 その雨の中、半蔵は一人、出羽を去った。


――あの時も、雨だったか。
 半蔵は、横たわる真蔵を見つめている。雨の所為か、その姿が時に霞み、にじんで見える。
 死した我が子は、何も語らない。
 天草が語ったことの真偽も、半蔵に向けた表情の訳も、何も、半蔵は知ることはできない。
 己が我が子に為してきたことを思い返して推し量ることしかできない。
 出羽を出たあの日から、ずっと考えてきたことだ。
 どうしてやれば、真蔵を守れたのか。魔の囁きに囚われることを防げたのか。
 あの時、言葉をかければ良かったのか。
 あの時、手を差し伸ばせば良かったのか。
 あの時……
 半蔵は、更に強く両の拳を握りしめた。赤いものが、指の間から染み出す。
 どれほど考えたとて何にもならないのはわかっている。例え真実に近づいたとしても、過ぎ去った時を取り戻すことなどできない。消えた焔の代わりに、冷たい悔いの念が心を埋め尽くしていくだけだ。
「……真蔵……儂は……」
 呟いた半蔵の目に、地に転がった忍刀が映った。
 真蔵に目を戻す。穏やかな、安らかな、死に顔。
 声が聞きたいと、半蔵は思った。
 真蔵の言葉を聞きたいと。何故にそのように安らいでいるのか、何故何も言わぬままに逝ったのか――
――今なら、まだ追える。
 半蔵はのろのろと立ち上がると、忍刀を拾い上げた。
 出羽を出てから幾月か、ずっと振るい続けてきた刀だ。
 本来使い捨て同様に扱う忍刀が、今日まで保ったのは奇跡であった。
――これで、最後か。
 今までに感じたことのない重さを忍刀に感じる。掌の傷が、じんじんと痛む。
 それでも半蔵は、己が喉に、刃を向けた。
「聞かせて、くれぬか。我が過ちが…何であったのか………」
 忍刀の短さは、喉を突くによい―そんな馬鹿げた考えが脳裏を掠める。
 天を見上げ、目を閉じる。最後に見た空は、どこまでも高く、青く澄んでいた。
 僅かに手を引き、突き上げ――

 気配に手を止めたのは、半蔵の忍の本能か。
 それとも。

 それでも半蔵が反応するよりも早く、現れた気配達は半蔵の腕を掴み、その自由を奪った。
 右に一人、左に一人。それぞれが半蔵の右腕、左腕を掴んでいる。
 半蔵の前、真蔵の遺骸の向こう側に、四人の忍が膝を突いている。
「半蔵殿、お待ちください。
 貴方様は伊賀衆にとって掛け替えの無きお方。
 死することは許されませぬ」
 一番年かさの忍が、静かに強く、告げる。
――伊賀の、追手か。
 誰にも何も言わずに出羽を出て、以来報告一つせずに勝手を通した半蔵である。追手が出るのは当然だ。もっとも、これまで追手はいっさい手を出してこなかった。半蔵も彼らがつけてきていたのは知ってはいたが、何もしてこないならばと構うことはなかった。
――それが、今更。
 覆面の下からじっと自分を見つめる忍達を、冷めた思いで見返す。
「……儂は里を抜けた身。自ら始末をつけるが筋であろう」
 それまでちらりとも思わなかった理由が、口をついて出る。
 己が命を絶つのは、始末などではない。しかし、始末でもあるのだと、気づく。
 「伊賀の服部半蔵」の自害は、そう理由がつく。
――『服部半蔵』……か。
 今の今まで意味を失っていたその名に己が縛られ、おそらくは抜け出せぬ事を半蔵は理解した。
 その名が縛るのが、己だけではないことも。
「里長よりの命にございまする。天草めに斃されたのでない限り、半蔵を生きて戻せと。
 また、それに当たっては半蔵の言は聞く必要無しと仰せに」
――やはりそう、来るか。
 あのしたたかな里長が、黙って『服部半蔵』を死なせるはずなどない。そして、『服部半蔵』がそれを拒む訳にはいかぬのだ。
――なれど……!
 ぎり、と半蔵は覆面の下で唇を噛む。
「半蔵様」
 その耳に、よく知った声が届いた。
 半蔵の右腕を押さえる忍の声だ。覆面の下の黒い目が、恐ろしいほど真っ直ぐに半蔵を見ている。
――勘蔵……
 若い頃の己に生き写しの姿形をしたもう一人の息子の眼差しの奥に、激しい朱を見たように、半蔵は思った。
 強く半蔵の腕を掴み、勘蔵は一言、一言はっきりと半蔵に告げる。
「半蔵様が死ぬことを、真蔵殿は求めておりませぬ。
 そのようなこと、兄上は許しませぬ!
 どうか、思いとどまってくださりませ!」
「許さぬ……か」
「誰も、父上が死ぬことを、許しませぬ」
「誰もか」
「誰もに」
 勘蔵の目は、じっと半蔵を見据えている。
 その向こうにもう一つ、己を見つめる目がある。錯覚やもしれなかったが、半蔵にはそう感じられる。
「真蔵も、許さぬのか」
「許しませぬ」
「お前も、許さぬのか」
「許しませぬ。
 父上……半蔵様、思いとどまってくださりませ」
 半蔵の腕を掴む勘蔵の手に更に力がこもる。痛みがそこに生まれるほどに、強く。
――応えねばなるまい。
 痛みに、半蔵は思った。
 何に、どのように応えなければならないのかは、わからない。
 それでも、応えねばならないのだ。死することを誰にも許されないならば、応えを返さない限り、己は永劫、我が子の声を聞くことはできまい。
 ここに在る二人の、どちらの声も。
「あい……わかった……」
 離せ、と左右の忍に言う。二人は年かさの忍の表情を伺い、頷きが返ると半蔵の腕を離し、その脇に控えた。
「我が命……お主らに預けよう」
 忍刀を、置く。
 忍達が安堵したのを、半蔵は感じた。
 右脇に控える忍―勘蔵が誰よりも安堵したのを。
 そして、もう一人、安堵した。確かに。

 半蔵は真蔵を抱き上げ、立ち上がった。
 力無い我が子の躰は、記憶にあったよりも、思っていたよりも大きく、重い。忍刀とは違う重みが、腕に、心にのし掛かる。
 その重みを半蔵は胸に刻み、低く告げる。
「戻る」と。
 忍達に、勘蔵に、真蔵に。
 己自身に。
 告げた後、歩み出す。


 歩む半蔵は、気づいていた。
 焔は消えていない。
 消え失せたと思っていた焔は、確かに息づいている。
 故に、己は今歩んでいる。
 焔を胸に抱き、歩みゆくのだ。
 今はまだ弱い焔が、いつか勢いを取り戻す日を得るために。
                                       終幕


時よ 時よ 永劫の中の
ほんのかすかな 瞬きだけれど
わたしたちは ここに生きてる
寄せては返す 幾億の波の
寄せては返す 生命の真昼 生命の暗闇

song by Hiroko Taniyama "Yakusoku no Umi"

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