それは、春。 暖かい日だった。 老学者の庭の桜は盛りを迎え、あと一日か二日で、そのあるかなしかの重みだけで花を散らし始めそうであった。 「先生」 その桜の木の下で、これまでになく真剣な顔で、青年は言った。 「名前をつけてくれねぇか」 「誰に」 「誰にって、俺に決まってるだろ」 老学者は口の端に乗せかけた『何故』という問いを、すんでのところで留めた。 代わりに、じつと青年を、頭の上―老学者よりも頭一つ分高いところにある、ぴんぴんと好き放題に飛び回った前髪が特徴的な―から足の先まで眺めた。 この青年と老学者が初めて会ったのはもう十年以上も前になる。 老学者が―そのころはまだ老人というには早い年であったが―江戸からこの武蔵の田舎に居を移してすぐに、土地の侍がその子供を連れてやってきた。それが、この青年である。 きかん気が強く、真面目に学問を修めようとしない子供に手を焼いた親は、江戸からやってきた学者ならあるいはと考えたらしい。 子供は確かにきかん気は強いと見えたが、その内に強い好奇心があることも学者は見取り、引き受けることに決めたのだ。 初めこそ、子供は学者の言うことを聞かなかったが、その、酒を友としながら語る話―学者は子供に無理に教えるということはせず、ただ己の持つ知識を徒然に話して聞かせ、子供が何かを問えばそれに答える形を取った―に徐々に引き込まれ、次第に熱心に学者の話を聞くようになった。 酒にも興味を示し、一年も経たぬ内にいっぱしに飲めるようになりもしたのだが。 それから時が経ち、子供は少年となり、侍の子の常として剣を学ぶようになった。たちまちの内にその魅力にとりつかれた少年は熱心に修行に励み、才にも恵まれたこともあって、十五の年には近隣に少年に敵うものはなくなった。 それ故に、そして、もう一つのあることを理由とし、少年は遠出をするようになった。何日も、時には幾月も「剣の修行」と称して家を出て帰らなくなったのだ。戻ってきても家には帰らない。土産―多くの場合、それは酒であった―を片手に老学者の庵を訪れては、あれやこれやと話して聞かせるのである。 例えば江戸で人気の歌舞伎役者、千両狂死郎と剣を交えたとか、将軍家剣術指南役の柳生十兵衛は食えぬ親父であるとか、そういう話を嬉々としてするのであった。 土産の酒を傾けつつ、話を聞く老学者は、いずれこの少年―青年が、二度と戻らぬたびに出るだろうと思うようになっていた。 故に、言葉を飲んだ老学者は目を細くして、こう言ったのだ。 「決めたのじゃな」 「ああ」 力強く、青年は頷く。 「もう、家には戻らねぇ」 だからよ、と青年は言葉を続ける。 「これまでの名は捨てる。田舎侍の息子は死んだ。ここにいるのは一人の剣客だ」 「それで儂に名を付けてくれとな」 「そうだ」 再び、青年は頷く。 「そんなもの自分で決めれば良かろう。年寄りの手を煩わせるでない」 青年が名付け親に自分を選んだのを嬉しく思いながら、しかし渋面を老学者は作って見せた。 ぐいと太い眉を青年は寄せ、ちらと己の腰の刀に目を向ける。 「だってよぉ、俺が自分で決めた名前を先生は笑ったじゃねぇか」 「それはお前、『河豚毒』などと刀に名付けるからじゃよ」 その二尺三寸の大刀は、青年がとある古寺で手に入れたものだ。無銘のそれに青年自ら命名したのが「河豚毒」。河豚の毒と同じく「あたれば」死ぬより他にないからだと青年は言ったものだ。 それを聞いたとき、老人は声を上げて笑ったものだ。 刀の銘にそれは無かろうとおかしく思ったからであり、だがもう一方で、うまいことを言うと思ったからである。 その時青年は、老学者のもう一方の思いには気づかず、うまくつけたと思った銘を笑われたことにただむすっとしていた。もっとも、老学者が秘蔵の一本を開けてやると、たちまち相好を崩したのであるが。 「だから今度は先生に頼むんじゃねぇか。先生なら、俺よりはましな名を考えられるだろ」 「当たり前じゃ」 「なら、頼むよ」 「しかたないのぉ。 お前の旅立ちのはなむけがわりじゃ」 老学者が頷くと、青年はぱっと顔を明るくした。 「聞こえのいい名を頼むぜ。あの千両に負けねぇぐらいの」 「剣客が歌舞伎役者に張り合ってなんとする」 言いながら、ふむ、と老学者は考えた。 青年から、今を盛りと咲き誇る桜へ目を向ける。 「そうじゃな……」 思案する老学者を、青年は期待に満ちた目で見つめた。 目を半眼にし、桜を見つめたまま、時折ふむ、ふむと声を漏らすほか、ぴくりとも老学者は動かない。 青年は、じっと老学者の言葉を待っている。 その頭に、ひらりと白いかけらが落ちた。 気の早い花びらが、二人の肩や頭の上に舞い降りはじめたのだ。 それが一つ、二つ、三つと増えていっても老学者は何も言わない。 「せ……」 ついにしびれを切らした青年が声をかけようとしたまさにその時、老学者の目がひたと青年を見据えた。 「覇王丸」 はっきりと、老学者は青年に言った。いや、青年をそう呼んだ。 「お前の名は今日から覇王丸じゃ。 覇道を行くも、王道を行くもお前の心一つ。 古(いにしえ)の項羽の如く、己の心のまま進むのじゃ」 「覇王、丸……覇王丸……覇王丸か」 噛みしめるように、新たな己の名を青年―覇王丸は繰り返す。 やがてその顔に、会心の笑みが浮かんだ。 「ありがとよ、先生。いい名だ。感謝するぜ」 「ふん、名前負けせぬように、精進することじゃ」 「ああ、必ず」 大きく頷くともう一度、「ありがとよ」といい、覇王丸は老学者に背を向ける。 「待て、覇王丸」 「なんだ?」 首だけ、覇王丸は振り返った。 「そこで待っておれよ」 老学者は一端庵の中に入ると、徳利を下げて戻ってきた。 「儂のとっておきじゃ。餞別にくれてやろう」 「先生のとっておきって……あれかい?」 「そうじゃ」 ぐっ、と口をへの字曲げて老学者は頷いた。 「……ありがたく、もらっていくぜ」 一瞬だけ老学者と徳利を見比べ、だが次の瞬間にはぐいと口の端を曲げて笑うと、覇王丸は右腰に徳利を下げた。 「それじゃあな、先生。飲み過ぎには気をつけな」 「お主こそ」 「ああ」 くるりときびすを返すと、覇王丸は歩み始めた。 力強く、確かに。風のように颯爽と、速く。 遠くなる背中に老人は一抹の寂しさを覚えながら、だが暖かい目で青年の旅立ちを見つめる。 その時、覇王丸が足を止めた。 老学者に背を向けたまま、刀を抜く。 抜いた刀を、天へ投じる。 同時に、鞘も腰から抜き、抜いた左手を、真っ直ぐに横に伸ばす。 投じられた刀はくるくると回りながら天高く飛ぶと、一瞬、ぴたりと宙で止まった。 陽光を、ぎらりと幅広の刃が弾く。 弾かれた光が老学者の目に届いたときには、もう刀はくるくると回りながら落ち始めていた。 落ちる先にあるのは、覇王丸が構える鞘。 カシィンッ! 鞘が刀に収まる音を、確かに老人は聞いた。 庭の桜がその音に身を震わせ、花びらを散らすのも見た。 五尺七寸の覇王丸の背丈が、楊枝ほどにしか見えぬほどに離れているにも関わらず。 そして、覇王丸は再び歩き出す。 刀を左の腰に差し、徳利を右の腰に下げ、振り返ることなく、強く、速く。 「あやつめ……」 最初は小さく喉を震わせ、しかしすぐに大きく声を上げ、老学者は笑った。 年寄りの笑い声に、応えるようにまた、桜の花びらがひらりと舞った。 終幕 |