「お前の舞は、美しい。アマノウズメの如く」 死に逝く父は、震える手で狂志郎の手を強く握った。 「未だ荒削りなれど……己を放ち、己を律し、何人もの目を惹きつけてやまぬものを秘めておる…… 狂志郎、先の舞、見惚れたぞ……」 死への道を歩む父が紡ぐ言葉、それは狂志郎が何よりも欲していた賛辞の言葉だ。 「親父殿、わしは……っ」 父の手を握り返し、狂志郎は声を絞った。普段なら、いや、たとえ三刻語り続けても、強かに酔ってさえも伸びるように出る声が、掠れ一つ起こさぬ声が、今は思うようにならない。 父にはまだ聞きたいことがある。教えを請いたいことはいくらでもある。それなのに声は、出ない。 一方で父の言葉は、途切れながらも狂志郎の魂にはっきりと響く。往時、舞台に立っている時となんら変わることなく。 「「志」の時は、終わった……「狂志郎」の名は、もはやお前には役不足…… きょう、しろう……狂死郎……これよりは、「死」の一文字を背負え……負うて迷い、苦しみ……「死」を見据え……人三化け七が境地……追い求めよ、狂死郎……」 そう言うと、父は目を閉じた。全て話し尽くした、そう言わんばかりに息を吐く。長く。 「……黄泉にも……舞台は、あるかのう……」 それが最後だった。 千両狂志郎、否、千両狂死郎の父であり師である男は、一人、黄泉への興行へと旅立った。 「親父、殿……」 狂死郎の頬を、涙がこぼれ落ちる。 狂死郎は役者だ。感情など、舞台にあればいくらでも思うままになる。 だが今、この時は、師を、父を失った喪失感と哀しみの涙は、止まることはなかった。 それより、四十八日。 夜である。 時刻は、子の刻。真夜中だ。 天に輝く満ちた月に見守られ、江戸の町は闇と眠りに包まれていた。聞こえるのは、夜回りの声ぐらいのものである。 静寂と闇の中、千両狂死郎は一人、舞台に座していた。 頭には緋色のかつらを、身には鬱金(うこん)色の上衣にかつらと同色の袴をつけている。 白く塗った顔には、朱も鮮やかに隈取りを入れている。 一分の隙もない、役者姿だ。 座した狂死郎の前に、一振りの薙刀があった。 僅かに射し込む月の光を強く弾く刃が、それが舞台用の竹光ではなく、真剣であることを示している。 狂死郎自ら『世話女房』と名付けた薙刀だ。気心の知れた女房の如くに、この薙刀を自在に使いこなす役者にならんとの狂死郎の誓いがこもった名だ。 その『世話女房』を睨み据え、狂死郎は夜闇の中一人座している。 本来ならばとっくに休んでいる時間であるのに、狂死郎は眠れなかった。 眠れぬ理由ははっきりしている。明日の芝居興行の初日だ。 ただの初日ではない。千両一座の先代座長であり、狂死郎の師であり、父であった役者の四十九日法要興行の初日だ。 またそれは、『千両狂志郎』改め、『千両狂死郎』の披露目の興行でもある。 いつもの初日とはまるで異なるのだ。故に、十日も前から千両座の面々の緊張は明らかであったし、江戸の町は明日の興行の話で持ちきりになっている。 狂死郎もまた、落ち着かない気持ちで今日まで来た。座長である自分がこの様では、座の一同が落ち着かないのも当然だとわかってはいるが、それでも心中でざわざわとざわめくものを払拭できずにいる。 明日の初日が常と異なるという緊張の所為だけではない。別の何かが狂死郎の中でさざめいている。原因は初日であることは間違いがなが、この感覚がなんなのかがわからない。 ざわめき、さざめくそれは夜になっても鎮まらず、眠れぬ狂死郎はならばと一人、舞台を訪れたのだ。 姿形を整えてきたのは、役者としての矜持。役者が舞台に、それも特別な意味合いを持つ舞台に寝間着で上がるわけにはいかない。 しかしこうして舞台の上にあっても、心のざわめきは治まらない。むしろ、強くなったような気さえする。 ――……むむう…… 眉根を寄せて唸る狂死郎の目に、蒼白い光が入った。強い光ではないが闇に慣れた狂死郎には眩しく、思わず目を閉じる。 薄々と目を開くと、光の元は狂死郎の前に置かれた『世話女房』であった。 その刃が、光を弾いている。 小屋の隙間から忍び入った月の光を、強く、蒼く。 竹光の銀紙にはあり得ない、本物の力がそこにある。この力に惹かれ、二年前、狂死郎は『世話女房』を手に取った。 二年前、それは「千両狂志郎」の名を父から襲名した年。 一頃、浄瑠璃に押されて人気を失っていた歌舞伎が、優れた狂言作者(脚本家)の登場と、彼の考案した回り舞台やセリなど奇抜な舞台装置によって息を吹き返したのは、まだそう遠い昔のことではない。蘇った歌舞伎の火を更に盛んにするためには、役者ももう一工夫するべきではないかと二年前の狂志郎は考え、そして、薙刀を手に取ったのだ。 真剣の持つ力と緊張感、それを己が芸に取り込むことができれば舞台をより華やかに、生きたものにすることができる。そう、考えたのだ。 狂志郎が薙刀を舞台に取り入れた理由は、そればかりではない。 歌舞伎にとって逆風の時を芸の研鑽を怠ることなく耐え、機を得るや即座に立ち上がり、磨いた芸を花開かせた父、江戸でも指折りの役者との謳われた父、先代千両狂志郎。狂志郎が人としても役者としても尊敬する、偉大な存在。 その父であり師である役者にはない、自分だけの芸を得たいという強い想いも、狂志郎が『世話女房』を手にした理由であった。 狂志郎の工夫を知った師は、反対の意も賛成の意も示さず、ただこう言った。 「人三化け七、忘れるなかれ」と。 『人三化け七』とは、一般的には醜女のことを指す。人が三に化け物が七混じったほどに醜いというわけだ。 しかし、舞台に立つ者には、別の意味もある。 化け物は狂気、人は正気。正気が三に狂気が七の精神状態こそ、舞台においては最も望ましいと考える。正気が四では虚である舞台に水を差し、狂気が八では実である舞台が浮ついてしまうという。 虚実の狭間で観客に夢か真かの世界を見せる役者にとって、『人三化け七』とは目指して止まぬ境地の一つ。 狂志郎とて、その言葉の意味するところは知っている。他の役者と同じく、常日頃から己に言い聞かせ、目指す境地である。 その言葉を改めて言った師の意を狂志郎は当初、図りかねた。 だがすぐに、身を持ってその意を知ることになる。 良かれと思って手にした『世話女房』――真剣には、芸に潜むものとは異なる狂気、そして業があった。 芸のそれらを背負うだけでも苦難の道であるというのに、新たに負った狂気と業――剣の道は、狂志郎の前に、まさに艱難辛苦の道を示した。 芸と剣、二つの狂気と業に呑まれてはならず、かといって逃げることも当然ならず。狂志郎は日々「人三化け七」の言葉を胸に、稽古と鍛錬に明け暮れ、舞台に立った。 己が道のこと故、苦ではなかったが楽とも言えぬ時であった。だがその甲斐は、十二分にあった。 最期の時に、師より与えられた言葉。 それで全てが報われたと、狂死郎は思った。 ちかりと、また『世話女房』が光を弾く。その光が、狂死郎を回想から引き戻す。 天には雲が出ているのだろう、小屋に差し込む月の光は時折途絶えてはまた差し込むのを繰り返し、『世話女房』の弾く光もそれに従う。 狂死郎には、『世話女房』が自分に語りかけているようにも思えた。内でさざめくものが何か、『世話女房』は知っている、そんな気さえする。 何を座り込んでいるのかと、急かされている気もする。 狂死郎は『世話女房』を、取った。 立ち上がる。 舞う。 何の演目の舞かなど、頭に浮かびもしなかった。 心の命じるままに、舞う。時に激しく足を踏みならし、時に軽やかに宙に舞う。冷えた夜気を唸らせ、切り裂き、世話女房を振るう。 心が舞う。体よりも激しく、軽やかに、肉の束縛を嘲笑い、拒むが如く舞い、飛翔する。 だん、だだん、と強く狂死郎は六方を踏んだ。遊離する心を、己が器につなぎ止めるが如く。 ――人三化け七、人三化け七、逝かせはせんよ。 からからと高笑いしながら、ずしりと重い薙刀を肩に担ぎ、左手で大きく弧を描く。弧を描いた左手を前に、客席に向かって突き出す。 ぐる、と首を回す。緋のかつらが生あるもののようにうねり、弧を描く。 だん、と足を踏み出す。 くわ、と目を見開く。 見得を切る。 全てが、制止する。 狂死郎の内でさざめいていたものさえも。 狂死郎は知った。己の中で何がざわめいていたのか。 だん、と今一つ強く足を踏み出す。 ぶん、と薙刀を大きく振り回す。 くく、と喉が笑いにひくつく。 ――舞台恋いしや、四十と、九日。 謡の如く低く、呟く。 父の死の哀しみよりも、それによって背負うものの重さよりもなお強く、狂死郎の心を乱したは舞台への想い。それはあたかも八百屋お七の恋情の如く、清姫の愛憎のごとき激しき想いであった。 まさにそれは、狂気である。 なれど今、狂死郎は狂気の正体を知った。正体の知れた狂気は相対することができる。恐れることは何もない。 いつしか月の光は消え、それよりも鋭く、鮮烈な朝の陽光が小屋に射し込む。 その光の中、狂死郎は舞台に独り仁王立ちに立ち、客席を見据えていた。 朝日が射してもまだほの暗い芝居小屋の大半を占める、客席。 今は無人のそこは、今日の昼過ぎには客で埋め尽くされることだろう。 無数の客の前で、演じ、舞う。 想像するだけでぞくぞくとした痺れるような歓喜が、下肢から背骨を伝って狂死郎の体を這い上がる。這い上がったそれは狂死郎の全身に広がり、その肉体を、魂を突き動かそうとする。 舞台を恋うて恋うてさざめいたときよりもなお強く。もっともっとと貪欲に、狂死郎の全てを駆り立てる。 とん、と。 ――待て。待て待て待て。 逸る想いを抑え、狂死郎は世話女房を舞台についた。 「人三化け七」 良く通る声が、小屋の隅々までに響く声が、千両狂死郎という役者に言い聞かせる。魂に言葉を、刻み込む。 人三の山を越えてしまえば楽しかろうと思う。化け七の谷に堕ちれば、この上なく快であると知っている。 ――なれど、それではならぬ。 それでは舞台に立つ意味は、観客の前に在る意味は、ない。 「のう、親父殿」 狂死郎の大きな眼が、舞台の袖に向く。 狂死郎の舞台を常にそこで見ていた父の姿はもうない。だが狂死郎は、己はそこに父の存在を感じ続けるだろうことを、知っていた。 役者として、一つの境地に至るその日までは。 「見ていて、くだされ」 ――狂死郎、「死」の一文字を背負い、迷い苦しみ「死」を見据え、人三化け七が境地、追い求めていきまする。 狂死郎は、だん、と足を踏み出した。眼を見開き、観客席をぐるりと睨めつける。 ぶんと『世話女房』で弧を描き、振り回す。 「狂死郎歌舞伎、はじまり、はじまりぃ〜〜!!」 終幕 |