「ママハハ……待って……くれ…… 本当に……その力が……我らに必要……に、なるまで…… どうか……どうか、待ってくれ……」 ナコルルはその日、太陽が姿を現すよりずっと早い時間に目を覚ました。 ――声が……聞こえる……私を……喚んでいる……? 床の中でどれだけ耳を澄ましても、遠く幽かなその声が何を言っているかわからない。だが声がひたすらにナコルルを喚んでいるのだけはわかる。 ――誰……? 誰が喚んでいるの……? 次第にいても立ってもいられなくなったナコルルは、まだ眠っている家族を起こさぬように足音を忍ばせて身支度を整えると、夜明け前の闇の帳の中を駆け出した。 村のカムイ、梟のカムイが見守る中、村を出ると、風の如く走る。走る。 森の木々の間をすり抜け、川を飛び越え、野を駆けた。山をいくつも超え、谷を渡った。 不思議なことにどれだけ走ってもナコルルは疲れは覚えず、喉が渇くことすらなかった。 走り続けてどれだけ経ったか、見知らぬ山の奥深くで不意にナコルルを喚ぶ声が、止んだ。 同時にぴたりと、ナコルルの足も止まった。 その視線の先には、大きな岩がある。 昇り始めた朝日を浴びたその上に、一羽の大鷹が止まっていた。 ばさり、と大きく翼を広げ、一声高く、「ピィッ!」と、鳴く。 「ママハハ……」 ナコルルの黒く、星のような輝きを宿した目が、大きく見開かれた。 三年前、六枚の弔いの衣を重ね着した風のカムイが、カムイコタンの人々にラメトクの死を告げた。 悪しきカムイとの戦いの末に、命を失ったと。 悲しい報せに、男も女も、若者も年寄りも悲しみにくれた。 しかし一つ、おかしな事があった。 宝刀チチウシと、その守護鳥ママハハがカムイコタンに戻ってこなかったのだ。 本来ならば次のラメトクの元へママハハがチチウシを運ぶことで、人々はラメトクの不幸な死を知る。 風のカムイは、時来れば二つは戻ってくる故に決して騒いではならぬと、人々に告げた。 人々はカムイの言葉に従って騒ぎ立てることはなかったが、不安は隠しようもなかった。悪しきカムイの脅威がない時であっても、ラメトクとチチウシ、ママハハの存在は人々の心の支えなのだ。 ただただ何も起きぬ事を人々は祈った。祈るより他にできることはなかった。 幸いなことに人々の不安は三年の間は当たることはなかった。日々は平穏に流れ、人々はそれぞれの生活の中の幸せを築いていた。 だが三年の年月が流れたある日、遙か南の地でこの上も無く禍々しき者が現れたのを、アイヌの巫達は感じ取った。 現れた禍々しい存在が放つ波動は生きとし生ける全てのものに悪しき影響を与えた。 空は厚い雲に閉ざされ、水の流れは淀み、風は弱々しく吹くか、むやみに荒れ狂った。山からは熊が、野からは鹿が、川からは鮭が姿を消し、木々の緑は日増しに褪せた。 このままでは全て滅んでしまうことは明らかであり、それを防ぐためにはラメトクが邪悪を討つしかない。 先代のラメトクの娘であり、強い巫の力を持つナコルルは誰よりもそのことを知っていた。 「ママハハ……あなたが私を喚んだの……?」 三年前に行方知れずとなった守護鳥を見上げて問うナコルルを、大鷹はその金の眼で見つめる。 否も、是もその目は示さない。 「……ママハハ……私が……」 大きな黒い目でママハハを見上げるナコルルの顔には、迷いの色があった。 「私は……」 ナコルルは、振り返った。 ざわざわとした不快な感覚が、その背を這い登る。 木々の間を重い足音が響き、大きな熊が姿を現した。 「キムン……カムイ……」 それは巨大な獣、強き獣。アイヌに肉と毛皮をもたらす恵みの存在。迂闊に近づく物には死をもたらす恐ろしき存在。 故にアイヌは、その魂をキムンカムイ――大いなるカムイと、呼ぶ。 だが今、ナコルルの前にいる獣は、そうではなかった。 体のあちこちが腐れ、目に命の輝きはない。その強く鋭き牙や爪にはどす黒く乾いた血の痕が見え、この熊が多くの命を屠ってきたことを示している。 「なんて……ことを……」 哀しみと怒りの声が、ナコルルの口から洩れた。 おそらく元は寿命が来て死した熊なのだろう。そのままならばいずれ大地に返ったであろうその体に、邪悪なるモノが取り憑いたのにちがいない。 魔物と化した熊は荒い息をつきながら、ぎくしゃくとした動きでナコルルに近づいてくる。 「やめて……お願い…止めて……」 悲しい目で、ナコルルは魔物を見た。 逃げようとせず、かといって立ち向かうでもなく、ただ、佇んで。 魔物にその声は届くはずもない。 「……ウェンカムイ……」 熊を見つめた弾間、ナコルルは呟く。その目に、哀しみから生まれる怒りの色が浮かぶ。 静かな風が、ナコルルの髪を揺らした。 風を受け止めるように、ママハハが大きく翼を広げた。 「ピィィィィッ!」 鋭く高い鳴き声が空を裂き、その声に魔物は動きを止めた。 強き翼、鋭き嘴を持った鷹は、その足に宝刀を掴んで、飛ぶ。 ナコルルの元へと。 ナコルルの頭上でくるりと弧を描き、掴んだ宝刀を放す。 黒と黄に塗られた鞘と柄。アイヌの物でありながら装飾の乏しいそれは、真に必要な刻が来るまでみだりに抜いてはならぬという戒めの証。 ――チチウシ……! 反射的にナコルルは手を伸ばす。 「ピィッ!」 一際高く、ママハハが警告の声を上げる。 重く、空を裂く音。 ナコルルは地面を蹴った。 チチウシを掴み、 『ママハハ……あの子に……我が娘に――』 ――父様!? くるりと前方に体を回す。 逆様になった視界に、大きな熊の手が一瞬前までナコルルが居たところを薙ぐのが見える。 チチウシを掴むナコルルの手に力が籠もる。 足が地に着く。 ――父様、父様の声……三年前の…… 「ピィッ!」 再びママハハが鳴く。 揺れたナコルルの心を戒めるが如く。 その声に弾かれるようにナコルルは再び地を蹴った。 「風のカムイよ、力を貸して!」 ――父様と同じように! チチウシを抜く。 確かな重みが、力の存在をナコルルに感じさせる。 きらめく衣を幾重にも身につけた風のカムイがナコルルを包み込む。 「レラムツベ!」 清き風を纏い、ナコルルは宙に舞った。 唸り声を上げた魔性が腕を振るうより早く、輝く刃は魔性の胴を薙ぎ、両断する。 風を纏ったままナコルルは地に降り立つ。背後で、どう、と魔性が倒れる音がした。 チチウシを鞘に収めると、ナコルルは静かに祈りを捧げた。魔性に身体を奪われた熊のカムイの魂がカムイモシリに帰ることができるように、そして自分が倒した魔性が、今度は良き道を歩むことができるように。 祈りを終えると、ナコルルはゆっくりと岩を見上げた。 ママハハはいつの間にかそこに戻り、じっとナコルルを見つめていた。天空の遙か高みからでも、雪原を走るウサギを捕らえることのできる、鋭いその目で。 ナコルルは、静かに、その名を呼んだ。 「ママハハ」 ママハハは飛び立つと、ナコルルの肩に止まった。 頭をそっとナコルルの頭に寄せる。 悲しげに目を伏せ、ナコルルはチチウシを抱きしめた。 「やっぱり私なのね……」 ナコルルは巫術の才に恵まれた娘であった。女として当然の家のカムイ、村のカムイのみならず、男の領域たる野山のカムイの声を聞き、言葉を交わすことができた。女ではあったが、誰もがナコルルこそが次のラメトクだろうと思っていた。 父である先代のラメトクもそう思っていたのに違いなかった。父親は幼い頃からナコルルに剣技を教え、本来は男しか行かぬ狩りにもナコルルを連れて行き、カムイの声を聞く力を磨かせ、ラメトクとして育てていたのだから。 「でも……私は……」 漫然とした覚悟はあった。父が戻ってこなかった時、ママハハが自分の元に来ると思った。三年の平穏の間も、いつかママハハが自分の元に来るという確信があった。 それでも、ナコルルはその日が来ないことを秘かに願っていたのだ。 ラメトクの役目がどれほど重いか、誰よりも知っていたから。その重さを背負う自信を持つことができなかったから。 「でも……私は……」 「ピィィィィィッ!」 ばさりと羽音を立てて、ママハハがナコルルの肩から飛んだ。 木々の間を縫って、ナコルルの周りを飛ぶ。 「ママハハ……?」 ママハハの行動に首を傾げた瞬間、ぐん、とナコルルは自分の魂が引き寄せられるのを感じた。 力強く羽ばたくママハハに、ナコルルの手にあるチチウシに。 二つを通して、ナコルルは「それ」を視た。 悪しきカムイを倒しながらも、ラメトクもまた、力尽きて倒れた。 「ママハハ……あの子に……我が娘にチチウシを……」 苦しい息の下でラメトクは傍らに降り立ったママハハに、宝刀チチウシを差し出す。それがラメトクである者の最後の仕事だ。次なるラメトクにその証を受け継がせる為の、ささやかな儀式だ。 しかしこのラメトクは、続けて言った。 「だが……どうか、待ってくれ……本当にこの力が皆に必要になるまで……待ってくれ……」 ママハハは、じっと、一人の父親を見つめた。 今まで多くのラメトクに従い、多くの死を見てきた宝刀の守護鳥、決してラメトクに殉ずることのない大鷹は、ばさりと翼を広げた。 それに応えて風のカムイが衣を翻し、カムイコタンへと、駆けていく。 「感謝する……」 自分の最期を見守るママハハを見つめる父親の目が、ゆっくりと閉じていく。 どこか悲しそうで、どこか安心した色が、僅かにそこに見えた。 「願わくば……娘……達が……」 目が完全に閉じ、言葉が途切れた。 生者の国での生を終え、ラメトクの魂は死者の国へ、その妻が、ナコルルの母が待つ国へ赴いてゆく。 それでもナコルルには、チチウシを通して父の最後の言葉が聞こえた。 ――……いつまでも良き暮らしを送らんことを…… その言葉を最後に、父の姿が霞のように消えていく。 魂が引き戻されるのを感じて、ナコルルは叫んでいた。 『……父様……! …………!』 いつの間にかナコルルの肩に戻っていたママハハが、ピィ、とまた鳴いた。 夢の終わりを告げる為に。 「父様……」 チチウシを抱きしめたまま、ナコルルは両膝を突いた。 あとからあとから涙が溢れてくる。 「父様……とう……さま……」 チチウシを抱きしめ、父を失って初めて、ナコルルは声を上げて泣いた。 ママハハを従え、チチウシを携えたナコルルが戻ると人々は二度歓声を上げた。 一度目の歓声は、朝早くから姿の見えなかったナコルル―ナコルルが戻ったのは家を出た日の夕方だった―が無事に戻ってきたことへのものだ。 二度目の歓声はナコルルが手に失われた宝刀を携え、その守護鳥を従えていたことへの、彼らが待ちわびていた新たなラメトクが現れたことへのものだった。 人々はすぐさまナコルルにラメトクとして邪悪を討つことを請い、ナコルルはラメトクとしてその願いを受け入れた。 そしてナコルルの旅の無事と、戦いの勝利を祈る儀式が行われた次の朝、ナコルルはこれまでのラメトクがそうだったようにママハハだけを連れて、家を出た。 「ナコルル……」 心配そうに見つめる祖父母に、ナコルルは笑顔を向けた。 不安はある。戦いたくないという思いもある。 しかし、父の願いが心にある。 ――父様……私は今、戦いに行きます。必ず戻って、父様の願いに応える為に。 「お爺様、お婆様、行って参ります。 大丈夫、私は必ず帰ってきます。 悪しきカムイを倒して、ママハハと一緒に」 笑顔のナコルルに祖父と祖母は、心配そうな顔をしながらも、頷いた。 「行ってらっしゃい、ナコルル。 お前の無事を祈っているよ……」 「はい、行ってきます!」 二人の心配を、自分の不安を吹き飛ばすように大きく言うと、ナコルルは故郷に背を向け、歩み出した。 優しい風がナコルルのまわりでくるくると舞う。 その中に父親の声を聞いたような気がして、ナコルルは微笑んだ。 終幕 |