雨に咲く花


 雨は、あっという間に激しくなった。
 滝のように身を打つ冷たい雨の中を、右京は走る。
 雨が近いとは思っていたが、こんなに早く降ってくるとは思っていなかった。これほど激しい降りになるとは思っていなかった。だから、傘を持ってこなかった。
 道場までは遠くない。どこかで雨宿りするよりもこのまま走って戻った方がいいだろう。
 雨を避け、少々濡れずに済んだところで…………
――……何に、なる。
 右京は、足を止めた。
 暗い自嘲の笑みが、その肉の落ちた細面を歪める。
――急いで、何になる。
 黒い雲に閉ざされた空を、右京は見上げた。


――あれから、一月……か。


 文の道では塾の筆頭となり、武の道では神夢想一刀流の皆伝を受け、早くに世を去った母の望みである士官の道も開けようかというまさにその時。
 右京は病に倒れた。
 最初は風邪だと思っていた。目的を達成しつつある中で気が緩んだ所為だと。
 しかし、三日経ち、五日経っても良くならない。案じた剣の師の薦めもあり、右京は医者に診てもらうことにした。
 右京がその日のことで覚えているのは、医者の言葉だけだ。
「労咳ですな」
 人の生死を看続けてきた医師は、静かにそう告げ、また、治る見込みはきわめて少なく、ただ安静に過ごすことで幾ばくか命を延ばすことができると付け加えた。
 それが何の救いにもならない言葉だと、言う医師も、聞く右京もわかっていた。
 病に憑かれた体では士官の道など言うに及ばず、剣人として在り続けることすらかなわない。学を選んだとしても、残り少ない時で、一体何ができようか。
 目の前が、真っ暗になった。
 今まで懸命に積み重ねてきた全てが、無に帰すことをつきつけられたのだ。
 右京ならずとも絶望せずにはいられまい。
 右京にできたことは、このことを誰にも話さず、医師にもしばらく秘することを頼むことだけだった。
 周りの人々に迷惑をかけたくない、そう思う気持ちもあった。しかし何より、右京にはその事実を受け入れることができなかったのだ。風邪を少々長引かせているに過ぎないと、そう思いたかったのだ。
 子供の頃から体が弱く、剣の修行に励むことでようやくまともな身体になりつつあると感じていた矢先だけに、己が労咳に冒されているという事実は、右京には認められなかった。

 それから二十日余りがただ過ぎていき。
 ある日、右京は血を吐いた。

 よりにもよって、道場で稽古をしているその最中のことであった。
 これでもう、誰にも―右京自身を含めて―隠し通すことも、偽り通すこともできなくなってしまった。
 道場や塾の同輩達も、それぞれの師も、皆、右京を案じ、いたわってくれた。
 また、もとより整った顔立ちであり、文武両道を修めた右京に心を寄せる娘は少なくなかった。その数は右京が病に冒されても減らなかった。病のために肉の落ちた右京の細面に新たな魅力を覚えた者があれば、病への同情が高じた者もいたという。きっかけがどうであるにしろ、右京を想う娘達はそれぞれにできる限りの世話をした。
 しかし絶望に打ちのめされた右京には、それらの人々の心遣いは慰めにならなかった。全てを煩わしいと思ってさえいた。
 何もかもを失った己には、何もかもが虚しく、無駄であり、一人惨めに死にゆくのだと、そればかりを考えていたのだ。



 そんな己が、何故雨を避けねばならない。
 濡れて病が悪化しようと、どうということもないではないか。今と何が変わるというのだ。
 それどころか、無為に生きているだけの刻が短くなるのだ。道を失った己には、いっそその方が良いかも知れないではないか。
 降りしきる冷たい雨を顔に受けながら、右京は低く、嗤った。

「右京様」

 激しい雨音の向こうから、その声が右京の耳―否、閉ざされた右京の心に届いたのは何故であったろうか。
 昏い天から視線を外し、右京は声の方にぎこちなく顔を向けた。
「雨は、お体に障りますよ。
 こちらへどうぞ」
 安堵の色の交じる優しい微笑を浮かべた娘が、通りに面する空き家の軒下に立っていた。
 右京の知った娘である。確か名前は、
「圭…殿……」
 右京の声に、圭は一瞬戸惑った表情を見せる。だがすぐに元の笑みを取り戻し、圭は言葉を繰り返した。
「右京様、早くこちらに」
「あ、はぁ……」
 言葉に誘われるままに、右京は軒下に入った。


 医師に労咳だと告げられる少し前に、右京はこの小田桐圭と会ったことがある。
 近くの山の寺への道で、道から外れたところに咲いていた花を取ろうとして難儀していた圭が、右京に助けを請うたのだ。
 元来、難儀しているものを見過ごせる質ではなく、また、体が弱く滅多に外出できない母に見せたくてと聞いては放っておけず、右京は圭に花を摘んでやった。
 その時の、まさに花がほころぶような圭の笑みを、右京は暫く忘れられなかった。


「こんなに濡れてしまって……。身体が冷えてしまいますよ」
 手ぬぐいで右京の髪や着物を拭きながら、圭はたしなめる口調で言う。
「…………はい」
 自分は何をしているのだろうと思いながらも素直に右京は頷いた。
「身体が冷えると、心も冷えて弱くなりますから。
 こんな日は、あたたかくしておかないといけません」
「…………」
 右京は、目を伏せた。
 圭の言葉に反発を覚え、だが、本心から己を気遣う圭の優しさに、口を開くことができない。
 何より、「心も冷えて弱くなる」、そう言われたことが不思議なほど心を打っていた。
「母がそうなのです」
 沈黙する右京に、気まずさを覚えてか慌てて圭は付け加えた。
「……お母上が?」
「は、はい。
 前にも申しましたが、母は体が弱くて今日のような日は気をつけていないといけないのです」
 雨に目をやり、圭は小さく嘆息する。
「そう……ですか……」
 右京は同じように雨に目を向けた。
 雨はまだ勢いを衰えさせることなく降り続いている。
 もう夏も近いというのに大気は雨に冷え、二人が吐く息も白い。
「右京様は、花は、お好きですか?」
 不意に、圭は右京を見上げた。
「は?」
 唐突な言葉に、右京は思わず圭の目を見つめ返す。
「花は、お好きですか」
「あ、ああ……好きです」
「よかった」
 にこりと圭は微笑むと、
「これを差し上げます」
左手に提げていた風呂敷に包まれたものを、右京に差し出した。
「これ、は?」
「鈴蘭です」
 圭が言う通り、白く可憐な花を三つつけた鈴蘭の鉢植えが、下げた風呂敷の中に入っていた。
「母も花が好きなのです。
 特にこのような雨の日には、花を見ていると心が強くなると申します。
 冷たい雨の中でも、花は咲いていると。小さな花ががんばっているというのに、自分も負けてはいられないと、母は言うのですよ」
 そう言いながら、圭は優しい眼差しを花に向ける。
「私もそう思います。
 誰に言われたわけでもないのに、日照りであっても冷たい雨であっても、さりげなく咲く花には、心惹かれます」
 右京もまた、鈴蘭の花を見つめた。
 白く小さな可憐な花は、時折、ふるりと震えながらも、それでもこの冷たい大気の中、可憐さを失わない。
 圭のような花だと、ふと、右京は思った。
 可憐でいながら強さを持つこの花と圭は、似ていると。静かに咲き、人を見ている。
 雨に一人、立つ人をも。
「右京様は、お一人でお住まいと伺いました。
 このような日には、花が側にあると少しでもお心強くなると思うのです」
「私は、そのように見えますか」
「え?」
 ぼそり、と呟いた右京の言葉に、圭は小首を傾げた。
 その様子に、右京は自分が言葉を口にしていたのに気づき、心中秘かに驚いていた。
 何故そのようなことを問うたのか、そもそも、そのような疑問が己にあったのか。
 だが、右京は問いを繰り返した。
 理由はわからない。わからないが、右京は圭の答えが聞きたかった。
「私は、花が側になければならないような、弱い者に見えますか」
「弱いなどと、そのような……」
 圭は大きくかぶりを振った。
「右京様は神夢想一刀流を修められたお方。そのようには思いません。
 でも」
「でも?」
 詰問に近いほどの厳しい右京の声に、圭は逡巡を見せる。
「でも……なんですか」
 僅かだけ声を和らげ、右京は圭の言葉の先を促した。
「……雨の中の右京様は、ひどくお寂しそうに見えて。
 ですから私……」

――ああ……

 右京は、圭から顔を背けた。
 そうしなければ、情けない顔をこの人に見せてしまうだろう。
 この人にだけはそんな顔を見られたくない。見せたくはない。
 口を真一文字に引き結んで胸の奥底から込み上がる熱いもの―それは右京の命を削るものではなく―を堪えながら、右京はそう、思った。
 そう思うのは、この込み上がる「何か」と同じ由縁であると、どこかで気づきながら。
「右京様?」
 怪訝に、そして不安そうに、圭はそんな右京を見上げる。
 伝わるその気振りに、一つ息を呑んで「何か」をどうにか抑えつけ―しかし顔は圭から逸らしたまま―右京は口を開いた。
「花を」
 声が、掠れる。
「はい」
 右京をじぃっと見上げたまま、圭は頷く。
「ありがとう、ございます」
「はい」
「その……こういったものを……戴くのには、慣れていない……ものでして」
「あ……ご迷惑でしたでしょうか……」
「いえ!」
 圭が顔を伏せたのを感じ、思わず右京は向き直った。
「そんなことはありません、ただ、その……どういう……」
「どういう?」
 顔を上げ、圭は首を傾げる。
「どういう……顔をすればよいのか、わからなかった……もので……」
 しどろもどろになりながら、右京は言った。自分が何を言っているのかがよくわからない。ただ、雨に冷えたはずの身体が、病の所為ではない熱に熱くなり、汗が背を伝っているのだけがいやにはっきりとわかる。
「まぁ」
 目を大きく見開き、圭は口元に手を当てた。
 そして、ほう、と白い息を吐く。
「お怒りになったのかと思いました……。
 でも、そうではないのですね」
「怒るなどとんでもない。大切に……いたします」
「よかった」
 ほっこりと、圭は微笑んだ。
 花が咲いた、と右京は思った。
 艶やかな(あでやかな)、優しい、白い花が咲いたような笑みだと。
 つられて、右京も笑んだ。
 ほんの少し口の端を持ち上げるだけの、小さな笑みであった。
 しかしそれは、労咳であることを告げられて以来の、心からの笑みであった。
                                       終幕

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