王虎は、苛立っていた。 苛立ち、失望していた。 王虎の大望を果たす為の力となれる勇士、「真の漢」を求めて「長崎」なる港から日本に入って早一月。 日本は勇壮なる「もののふ」の国と王虎は聞いていた。数百年昔には、当時の中華を支配していた元の侵攻を、嵐の力があったとはいえ追い返していることも知っている。 王虎は、期待していた。この国には、己の求める「真の漢」が居ると。 だが、実際に目にしたこの国には、まるでその様な気配は感じられなかった。 確かに、武の国らしく支配階級である「侍」は皆、常に腰に剣を二振り付けていたが、どう見てもそれは飾りにすぎない。 刀が真剣かどうかの話ではない。己の武器を満足に振るえる者などいないという意味だ。 だがよくよく考えてみれば、それも不思議ではない。日本は鎖国し、清とオランダ以外との交易はない。他国と交わることなく、幕府なるただ一つの政権に統治されて百数十年経つと聞いている。つまり―国の常として多少の乱れはあるにしても―この国は百数十年あまり、戦のない平穏な時を過ごしてきたはずなのだ。 平穏は、人から戦う意志や力を奪う。時だけが人をそう変えてしまうのではない。国を統治する政権も、己の権力を守るために、武を軽んじ、文を奨める。 平穏は悪いことではない。一国の政策としても当然のことである。 が、王虎にとっては望ましくない事実だ。 勝手な思いであるといえば、その通りである。 しかし、王虎には王虎の事情があった。 大陸、今は清という王朝が支配する地に、かつてあった王家。王虎はその末裔である。没落して久しく、今や王虎の一族と旧い家臣を除いては誰も覚えていないその王家を復興し、ゆくゆくは清に代わって中華を統一する。それが王虎の大望だ。 されどかりそめとはいえ王虎は清に仕える身、その大望は即ち、清への謀反である。故にその大望は決起の時まで誰にも気づかれてはならない。慎重の上に慎重を期して王虎はその時のために準備をしてきた。十数年もの時をかけた。 甲斐あって、八割、用意はなった。だがあと二、足りない。 兵はある。糧食も、金もある。 足りないのは、将である。 数十人、数百人率いるに足る者はいる。だが、千、万の軍を率いることのできる知勇共に優れた人物が、漢の衛青や霍去病、三国時代の関羽に張飛、南宋の岳飛が如き英傑、真の漢が足りぬのだ。 故に、王虎は影武者たる双子の兄弟に国を任せ、自ら真の漢を見つけるべく秘かに日本に渡ったのである。「もののふ」の国、小国でありながら中華の支配を知らぬ国ならば、きっと己の目に叶う勇士がいると期待して。 それだけの期待を裏切られた王虎が苛立ち、失望するのは、必然と言えた。嘆かずにはいられなかった。 「この国には、もはや真の漢はおらぬのか……」 それでも王虎は一縷の希望を持って日本をさすらった。 王虎の大望を果たすためには、優れた勇士が必要なのである。故郷ではようやく王虎に疑念を持ち始めた清王朝の目が厳しく、人を求めこともままならなくなってきた。清の目の届かぬ異国に、希望を託すしかなかった。 その日、王虎はある町の外れで昼餉を取っていた。町の名は京。かつては日本の都であった町であり、今も皇帝はこの町に住まう。 日本は不思議な国だと王虎は思う。皇帝がいるのに、国を治めるのは将軍だ。将軍は何故に皇帝に成り代わらないのであろうか。中華ではそれが当然であり、王虎の夢もまた、行き着く先はそこだ。 日本に来るまでは、武を重んずるからこそ将軍が国を治めているのだと王虎は思っていた。今はわからなくなってしまったのだが。 昼餉を平らげる。今日の昼餉は近くの店で買い求めた「握り飯」十個。炊いた飯を丸めて海苔で巻いただけのものだが、王虎は気に入っている。中の具は「梅干し」が特によい。 ――さて、どうしたものか。 ひとまず膨れた腹を撫で、王虎は思案した。 皇帝のいる町とはいえ、国を治める都ではない所為か、京はその大きさの割に―よく言えば落ち着いた静かな町といえようが―寂れている。この町で真の漢を見つけるのは難しいだろう。では何処へ行くか。 ――江戸に、行くか。 江戸は大きな、活気のある町と王虎は聞いている。そこならば、真の漢も見いだせるかも知れない。 ――しかし…… 王虎はぐっと眉根を寄せた。 既に期待は大きく裏切られた。「侍」が勇士からほど遠い者であることは、いやというほど目にした。江戸に行ったとて、何も代わらないかもしれない。いっそ日本に見切りをつけて大陸へ戻り、西域に足を向けたほうが良いのかもしれない。 「ふむう……」 腕を組み、大きく、唸る。 と、その顔が不意に上げられた。 耳に、歌が届いた。遠くから次第に近付いてくる歌は少年の声だ。朗々とした調子で歌う声は、耳に心地よい。 ――この歌……確か…… その歌が、王虎の記憶に引っかかる。何とはなしに気になり、王虎は思いだそうと首を捻った。 確かに、知っている。それは随分と古い記憶の気がする。 王虎が考え込んでいる間にも、歌う声は近付いてくる。歌詞は日の本の国の言葉だ。可愛らしい娘への恋情を飾ることなく表した、素朴な内容である。 やがて、歌声の主が姿を現した。幟を立てた小振りのつづらを背負った、やはり少年だ。少年は考え込んでいる王虎にちらっと警戒の目を向けた。だがすぐに視線を逸らすと、歌いながらも関わりになるまいと言うように歩く足を速める。 少年が、王虎の前を通り過ぎる。 「おうっ!」 「うわっ!」 突然大声を上げた王虎に、少年の歌声は叫びに変わった。足を止めた少年は目を大きく見開き、まじまじと警戒の入り混じった目で王虎を見つめる。 先の様子も含めて、無理のないことである。王虎は背が高い。六尺を遙かに超える。背が高いだけではなく、隆々とした筋肉に包まれた体は前後左右全てに十分以上の厚みがある。日本の着物を着て弁髪頭を隠すための笠もかぶってはいるが、背に負われた青竜刀が違和感を放っている。 少年が知るよしもないことだが、この青竜刀の為に王虎はひどく苦労している。日本の国の刀とは全く違った武器を携えているのだから当然だ。関所ではしょっちゅう足を止められて詰問される。最初はそういう剣術なのだと説明しようとしたが、近頃では面倒になって旅芸人だということにした。芸人を装うのは王虎の誇りにいささかの傷を付けることではあるが、つまらぬ手間をかけることよりは数段ましと諦めている。 それはともかくとして、王虎の風体は日本でははっきり言って、異様である。 その異様な人物が突然大声を上げて、驚くなというのは無理だ。 しかし驚く少年には構わず、王虎が合点がいった様子で一人大きく頷いていた。 少年が歌っていた歌、それは二十年程昔、大望のためにはまず己を鍛えようと王虎が修行の旅をしていた頃に、西の地で出会った遊牧の民が歌っていたものだ。王虎の聞いた歌とは少し節が違い、言葉も日本の国のものになっているが、間違いない。あの時も、少年―確か、羊飼いだった―が、耳に心地よい伸びやかな声で可愛い娘への恋情を歌っていた。 彼らは羊を襲う狼の群れに難儀していた。群れを率いる狼の頭は体も大きく、賢く、時には羊ばかりか人をも襲った。それを退治したのが王虎である。狼の驚異から解放された遊牧の民は、王虎への感謝を少しでも示そうと、宴を開いてくれた。 ――馬乳酒はうまかったのう…… 民の長が出してくれたとっておきの馬乳酒の味を思い出す。酸味があり、少々癖のある味だったが、王虎は気に入ったものであった。 「……旦那?」 「むっ」 声に我に返ると、怪訝な顔で少年が王虎を見ていた。王虎が思い出に耽っているのを、怪しく感じたようである。 少年の黒い目には、警戒と怪訝と不審、そして、好奇の色が見える。警戒と怪訝と不審を越えて、王虎に声をかける、好奇。 それは生きた目だと王虎は思い、好ましく感じた。飾りだけの刀を下げている侍などより、この少年の方がよほどいい目をしている。 その感情が王虎の顔にも出たのだろう。少年の表情も幾分、和らいだ。 「どうしたんだ? 何か、唸ってたけど」 「さっきお主、歌っていただろう。 その歌、どこで覚えた」 「俺の師匠。 旦那、この歌知ってるのかい?」 王虎の問いに、更に少年から警戒の色が薄くなる。 日本に渡ってからこの方、人と打ち解けて話すこともなかった王虎の口も、自然と滑らかになった。 「うむ。若い頃に聞いたことがある。西に旅にしたときにな」 「へえ、この歌も西のものなんだ。 海の向こう、清国の更に西の地での歌なんだってさ。俺達の『芸』も、元々はそっちの方から伝わってきたものだって」 言いながら、少年は王虎の前でぱっと手を開いた。開いた指の間に一つずつ、計四つの赤い玉が現れる。かと思うと、ひょいと手を返すとその玉が消える。どうやらこの少年は王虎とは違い、本職の芸人らしい。 「……ほう……。 それほど遠くからか。どれぐらい昔のことだ?」 「さぁ、よく知らない。だけど、この芸が伝わったのと同じぐらい昔って話もあるから……」 数百年以上昔かもしれない、と少年は言った。赤玉を一つ、人差し指の上で回す。 王虎は、感嘆した。少年の芸にではない。 西域からこの地まで、何千里も離れている。間には砂漠もあれば、険しい山も、大いなる大河も、広大な海もある。それらを超えて、たかが歌が、この地にたどり着き数百年に渡って生き続けた。 歌でさえこの地に渡り、息づいている。その歌に今、出会った。 この、ちっぽけな、閉ざされた島国で。 「ふっ、ふはははははははっ」 「だ、だんな?」 いきなり呵々大笑する王虎に、少年が目をぱちくりとさせる。 少年には構わず、なおも王虎は笑う。大気が王虎の笑う声に震え、風がざわざわと木々を揺らす。 ――王虎ともあろう者が、何を小さく考えていたのだ。 あの歌を知った頃は、もっと過酷な旅であった。夜、安全な場所で眠れることも少なく、盗賊や獣に何度も襲われた。この地ではそれほどの苦労はない。 それに、日本の全てを巡ったわけでもない。小さな島国とはいえ、何処にどのような人物が眠っているのかわからないのが世の常だ。 真の漢が見つからないなど、まだまだ言えたものではない。 ようやく笑いを収めると、王虎はひた、と少年を見た。 「子供、もう一度歌ってくれまいか。金は払う」 「いいよ。 お代はいらない」 本業じゃないから、と少年は言う。気の回る性格のようだ。これもまた好ましい。磨けばいい漢になりそうだ、と王虎は思う。 少年が再び歌い出す。 浪々とした、伸びやかな声が素朴な歌を、素朴なままに歌い上げる。 太く、力強い声が、少年の声に重なった。王虎が、歌い出した。 少し、たどたどしい。知っている歌と少し異なる節回しに、言葉まで異なる歌詞に、どうしてもぎこちなくなる。 それでも構わず、王虎は歌う。最初は戸惑っていた少年も、すぐに気にせず歌を続ける。 遠き地に伝わった歌を、遠き地より来た漢と、その地の少年が歌う。互いの名も、素性も知らぬままに。 愉快だった。これほど愉快な思いは、日本に来てから初めてのことだ。眠っていた活力が、王虎の四肢に満ちていく。 歌いながら、王虎は故郷を、思った。王虎が真の漢を連れて戻る日を待っている一族を、臣下を、同志を思った。 ――待っておれよ。大望成就の為、お主達の為、必ずや真の漢を連れて戻ろうぞ。 終幕 |