海


 土佐の海は、広い。
 広い海の彼方から寄せる波は重く、荒い。
 柳生十兵衛は公儀隠密として日本全国津々浦々を巡り、様々な海を見てきた。しかしこれほどに雄々しく力強い波はこの地でしか見たことがない。
 これが十兵衛の故郷の海だ。物心ついたときから、江戸に立つまでずっと見てきた海だ。
 月の名勝、桂浜から眺める海。
 大海に面して左手に竜頭岬、右手に竜王岬。幼い頃は竜が示すこの海の広さ、波の荒さに心高ぶらせるだけだった。海を海として、ただそれだけのものとして見つめてきた。
 もう少し大きかったならば何か考えたかもしれないが、海の向こうに自分と同じ人の住む国があること、ましてやいつかそこに行きたいなどと思いもしなかったろう。
 身分の低い侍の家の子に、そんな夢を見る余裕が生まれるはずもなかった。

 道が拓かれたのは、七つの時。

 幕府の密命を受けて土佐を訪れていた柳生宗矩が、剣才を郷士の子供に見出したのだ。
――新陰流を受け継ぐ器あり。
 そう感じたと、後年、家督を譲る際に宗矩は十兵衛に語った。
 新陰流総領たる宗矩には迷いも躊躇もなかった。両親に否も応も言わせず、ほとんどさらうように子供を自分の元に引き取った。
 宗矩は引き取った子供に、「十兵衛」という名を与えた。
 江戸幕府初代将軍家康に仕えた「柳生宗矩」と自分が同じ名だから、子供も同じ十兵衛としたのだという。
 これが真実であるかどうかは、十兵衛は知らない。だが因果な名であると思っている。
 十兵衛は「十兵衛三厳」と同じに剣の才を開花しながらも、「十兵衛三厳」と同じに片目を失い、「十兵衛三厳」と同じに家を出ようとしている。
 実際は十兵衛三厳は勘当されてのことであり、十兵衛は幕府の許しを得て出ようとしているという違いがあるのだが。
 しかし理由が何であろうとも、狷介な養父はこうなることは望まなかっただろう。

 砂を踏む音に十兵衛は物思いから立ち戻った。目を向けずとも、誰が近づいて来るかわかる。
「養父殿(おやじどの)」
 隣に立った一人の老いた侍に、大海に目を向けたまま十兵衛は声を掛ける。
「うむ」
 十兵衛と同じように海に目を向け、柳生宗矩は頷いた。
 老いてはいるが背筋はしゃんと伸び、眼光は鋭く、物腰に隙はない。十兵衛に家督を譲りはしたが、剣士としても侍としても未だ現役であることを、その存在全てが主張している。
「……こちらにおいでになるとは珍しい。江戸の屋敷を空けてよいのですかな」
「土佐の庵は儂の隠居所だ。すっかりお前に取られてしまったがな」
「何を言われる。隠居される気など毛頭ないではござらんか」
「それを見越して異国渡りの許しを幕府に求めたのは誰だ」
「ご存知でござったか」
 十兵衛は思わず苦笑した。数ヶ月前から幕府に「異国の剣技を見聞し、新陰流を、日の本の国の剣技を天下に知らしめ、更に高めたい」という願い出を秘かに出していたのだが、この養父にはお見通しだったらしい。しかも十兵衛が異国に渡る決意を固めた裏で、柳生家と新陰流のことは宗矩に任せればよいと考えたことまで見抜いている。
「これほどの大事、儂に隠して進められるものか。御老中方が血相を変えて使いを出して来おったわ」
「それはそれは。
 それで、養父殿はいかがなされた」
「十兵衛三厳の例に倣うがよろしいとお答えした」
「養父殿……」
 驚いて十兵衛は明き目を養父に向けた。
 驚きの理由は二つ。
 一つは養父が十兵衛三厳を喩えに引いたこと。
 もう一つは養父が十兵衛の異国渡りを認めたことだ。
 宗矩が新陰流を尊ぶこと、それは頑迷の域にまで達している。宗矩は新陰流の全てを修得し、掟を遵守し、こと新陰流に関しては自分にも他人にも、苛烈なまでに厳しかった。
 故に宗矩は未だ十兵衛が新陰流を改良し、二刀を使うことを認めてさえもいない。
 そんな養父が、他流派の者と手合わせするための異国渡りを認め、口を利いてくれたとは。
「手に負えぬうつけは外に放り出すが良かろう」
 じっと大海を見つめていた宗矩は十兵衛に向き直ると、一通の書状を懐から取り出した。
 十兵衛の驚きなど、まるで素知らぬ風である。
「上様直々の異国渡り許可状だ。柳生が剣は将軍が剣、それをもって幕府の威を異国の者どもに知らしめよとの仰せであった」
 十兵衛は無言で書状を押し頂き、開いて目を通した。
 間違いなく、将軍家斉直々の許可状である。
「……確かに、頂戴いたしました」
 喜びと興奮に声を震わせて十兵衛は書状を懐に大切にしまった。
 その様を見据えながら、宗矩は腰の刀を抜いた。
「十兵衛、抜け」
「……は?」
 唐突な養父の言葉に、十兵衛は明き目に当惑の色を浮かべた。
「上様からのお許しはその書状。
 だが儂はまだ許してはおらん。お前が新陰流の恥とならぬかどうか、直々に見てくれよう」
「養父殿……」
「案ずるな、合わせのみよ。
 お前次第ではあるがな」
「……承知」
 真意は見えぬが宗矩が剣を抜いた以上、何もせずには収まらない。
 十兵衛は宗矩に体を向けたまま後じさりに数歩下がり、刀を抜いた。
 大和守虎鉄、ただ一刀を。
「二刀は合わせには向きませぬ故」
「ふん、お前の二刀はその程度のものか」
 宗矩の口調に嘲りが混じる。
 よくよく二刀は嫌われたものよと思いながらも、養父の声に不満の色が潜んでいるのを十兵衛は感じ取った。
「その程度の剣で異国渡りとは笑わせる」
「……養父殿」
「異国に渡ってまで磨きたいという剣、儂に見せてみよ!」
 ぶん、と養父は剣で空を薙いだ。放たれる剣圧が十兵衛の頬を打つ。
 打たれた痛みは、過去に目を潰されたときのそれよりも強いものであった。
 それは十兵衛の目を覚まさせるに十分な痛みであった。
「承知!」
 鞘走りの音も高らかに、十兵衛は大和守助広を抜いた。
「三学圓之太刀で参るぞ」
 宗矩は低く告げ、つぃ、と無造作に間合いを詰める。
 ざざんと大きく、波が寄せる。

 一刀両断

 どちらが何を言うでもなく、宗矩が打太刀を、十兵衛が仕太刀を務め、刃を交わす。

 斬釘截鉄

 二人が刃を交わすのは、宗矩が十兵衛の左目を潰した日以来だ。あの日、十兵衛の才が自分の想像以上であったことを悟った宗矩は、稽古であっても決して十兵衛と立ち合おうとしなかった。

 半開半合

 誇り高き養父には、いずれ十兵衛が自分を超えていくのを知るのが恐ろしかったのか、認めたくないことであったのか。十兵衛には知る由もない。
 しかしこうして剣を再び交わしている今となっては、それはどうでもよいことであった。

 右旋左転

 確かに力量は十兵衛が勝っている。だが新陰流を極めた宗矩の剣は美しく、鋭く、強く、大きく――初めて対する十兵衛の二刀に惑わずに一分の狂いもなく合わせ、受け、先へ導く。

 長短一味

 一つの境地に達した者と剣を合わす喜び。
 存分に十兵衛は酔った。

――新陰流三学圓之太刀、五本。
 
 全てを終えると二人は間合いを取って離れ、礼を交わす。
 同時に刀を鞘に収める。
 そのまま宗矩はふいと海へ目を向けた。
「お許しくださるか」
 十兵衛は養父の横顔を見つめ、問う。
 海を見つめる宗矩の横顔が、僅かに上気しているように見える。
 その顔に、養父も自分と同じ心地であったと、十兵衛は信じた。
「ここで、お前を拾うたな」
 荒く重い波を睨むように見つめ、低く宗矩は呟いた。
「お前の二刀、異国で磨けば少しはましとなろうか」
「かたじけない」
 宗矩は顔を十兵衛に向けると、頭を下げた十兵衛に厳しい口調で告げる。
「新陰流の名、決して汚すでないぞ」
「重々、承知」
 深く頷き、十兵衛も海を見やった。
 幼き頃見つめ続けた海を、これより自分が渡り行く、広い海を。
 この浜で宗矩に拾われて剣人としての道を拓き、この浜で宗矩の許しを得て剣人として新たな道を行く。
 存外、十兵衛三厳も勘当ではなく父の許しを得ての放浪であったやもしれぬと、ふいと十兵衛は思った。
                                       終幕


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