雨が降っていた。
 雨の源たる厚い雲が天で光を閉ざし、篠つく激しい雨は地で全てを閉ざす。
「……あなた?」
 繕い物を終えた楓は、縁で半蔵が降りしきる雨を見つめているのに気づいた。
 腕を組み、無言で雨を見つめている。楓の声にも気づいた様子はない。ただじっと、雨を見つめている。
 縁で、屋根の下にいるというのに半蔵が雨の中にいるように、楓には思えた。濡れそぼりながらも雨の中の何かを見つめていると、見えていた。
――……あなた……
 そんな半蔵を、楓もまた見つめたきり動けなくなった。
 声をかけることははばかられ、かといって見なかった振りをすることも躊躇われた。
 それほどに、夫である人の背は遠く、見えていた。
――雨の中に……消えてしまいそう……
 抱えた着物を持つ自分の手に、力がこもったことにも気づかず、楓は夫を見つめていた。

 どれぐらい経っただろうか。
「楓」
「……っ、あ、はい」
 かけられた声に楓は反射的に答え、ぱちぱちと目を瞬かせた。
 目の前に、半蔵がいる。いつの間に歩み寄ってきたのか、それ以前にいつ振り返ったのかも、楓は気づかなかった。
「どうした?」
「いえ……」
 小さく首を振る。答える言葉は、見つからない。先程までの半蔵の様子も、自分がそれを見つめていたことも、話してはいけないと強く思う。
「楓」
「は、はい?」
「しわになっているぞ」
 半蔵の視線は、楓の抱えた着物に向けられている。
「……あ」
 着物に目を向けた楓の頬が、ほんのりと染まる。
「吊してまいります」
「うむ」
 衣紋掛けに着物を掛けてこようと踵を返した楓は、ふっと振り返った。
 何故かは、自分でもわからない。
「……?」
 どうした、と半蔵の視線が問うている。
 先程までの、雨の中にいないのに雨の中にいるかのような様子は、まるでない。いつもの夫がそこにいる。消えるはずもなく、確かにそこにいる。
 そのことに、楓は大きく安堵した。
「いえ、なんでもありません」
 自然と笑みを浮かべて応えると、急いで奥の部屋へと向かった。


 妻の背を見送った半蔵は、肩越しに僅か、外を見やった。
 雨はまだ降り止まない。勢いも衰えず、激しく降りしきっている。
 だが、雲は幾分か薄くなったのだろう。先程より明るくなったように見えた。
――……斬紅郎。
 口の中で友の名を呟くと、半蔵は雨から目を逸らした。


50のお題トップへ
物書きの間トップへ
物書きの間トップへ(ノーフレーム)