その樹は、死につつあった。 齢数百年は下らないだろう、桜花の巨木。 真冬のこの時期に花も葉もないのは当然であるが、次の春、そして夏のための芽までもほとんどない。 何より、生気がまるで感じられない。かつては見る者を圧倒させていただろう大樹の巨体からは今や、昼の日差しの下にあってさえ、寒々しい空虚さしか感じられない。 おそらく、大樹は次の春に花を咲かせることは叶うまい。この冬を越えられず、立ちつくしたままその長い生を終えるだろう。 死にゆくその樹を、男が一人、見上げていた。 闇色の忍装束に首には真紅の巻布、左顔面に縦に一筋、刀傷のある男――伊賀衆最強の忍、服部半蔵。 何故己が足を止めたのか、半蔵にもわからないでいる。だが、奇妙に心が惹かれている。 その様な己を、半蔵は怪しんでいる。何かがあるのだと、半蔵の忍としての本能が囁いている。 それでも、半蔵は動けなかった。巨大な古木を、見上げている。 往時の古木は、春には見事な花をつけただろうと、ふと思う。白い花を一杯に咲かせた大樹の様は、それは見事なものだっただろう。 ――……楓。 どれぐらい古木を見つめていたのか。いつしか半蔵は、妻を、想っていた。 この大樹に咲く花を、妻は愛おしんで見上げるだろう。自然と口元をほころばせ、言葉なく、大樹を見上げていることだろう。 ただそれは、醒めぬ眠りから妻が目醒めることがあればであり、この古木がかつての生気を取り戻せばという、夢に夢を重ねた虚しい空想。 半蔵自身、わかりすぎるほどにわかっている。だがこの死にゆく大樹を見ていると、益体もつかぬその様な思いを止めることが出来ないでいる。 ――……どうしたと、いうのか…… 己の感情に当惑していた半蔵の耳の奥で、こお、と高い音が響いた。 首の巻布が、大きく翻る。 風だ。 強い風が、吹く。風は真冬だというのに、ぬくみを宿している。 その風に、白い欠片が、舞う。あえかな朱と翳りを含んだ、風に踊る欠片、それは―― ――……桜だと……? 半蔵の疑念を嘲笑うように、舞う花びらがその視界を埋め尽くす。 鼻孔をくすぐる桜の香はやわらかい。 頬を撫でゆく桜の花びらはひやりと、冷たい。 『……きれいな、花……』 半蔵の目が、見開かれた。 拳が堅く、強く握られる。 風に舞う花びらの向こうに、大樹は在った。生を誇らんが如くに広げた枝、小枝の先までみっしりと、あえかな朱と翳りを宿した白い花をつけている。 生気に満ちたその樹を、女が一人、見上げていた。 ――…………っ 一歩、半蔵は踏み出していた。意識してのものか、無意識のものか、踏み出した直後にはもはや、半蔵自身にもわからない。 『誰?』 女が、振り返る。風に乱れた髪を掻き上げ、小首を傾げて半蔵を見つめる。 渦巻いた風が、半蔵と、女の間に舞う花びらを吹き散らした。 ぽっかりと開いた空間で、男と女の視線が重なる。 『あなた』 女が咲った。白い花の如くにひやりと、春の日差しの如くあたたかく。 女が、囁く。離れているというのに、囁きは確かに半蔵の耳に届いた。 『花を、見ていましょう。 ずっと、ずっと、一緒に』 「………っ」 半蔵は女に向かって、歩を進めていた。足は次第に速くなり、やがて、駆ける。 真紅の巻布を翻し、そこだけ切り抜かれたかのように花の舞わぬ、虚無の回廊を駆ける。 女が腕を広げる。 半蔵の唇が、微かに動いた。 次の瞬間、白刃が女の胸を貫いた。 『あなた……?』 女の顔には、笑み。 小首を傾げて、半蔵を見上げる。 「……許せ」 半蔵が低く呟いたのと、その手に二度目の鈍い衝撃が走ったのは、同時だった。 女を貫いた白刃が、大樹の幹に突き立つ。ぱらりと、老いて乾いた樹皮がはがれ落ちる。 「毒龍」 半蔵の声に、感情も躊躇もなかった。 焔が走る。半蔵の手から、刃へ、女へ、そして大樹へと朱が走り、呑み込み、喰らう。 大気がうおんと、叫んだ。悲鳴じみた甲高い音を立てて風が吹き荒れ、花びらが狂乱する。白い欠片が赤い欠片に変わるまで、時はかからなかった。 焔は強烈な熱気を生み、颶風と化して更に焔に力を与える。 焔は全て、焼きつくす。 花も、大樹も、女も―― 女は、最後まで笑んでいた。 燃える古木に背を向けた半蔵の脳裏に、女の微笑は舞う白い欠片と共に強く焼き付いて離れなかった。 |