孤独


 半蔵は目を開いた。
 開いた視界を、藍を繰り返し繰り返し染めた色にも似た、闇が満たす。
 遠くから聞こえる河鹿(かじか)の澄んだ鳴き声の他は、何の音もない。
 息遣い一つさえも。
 闇を、静けさを破らぬように半蔵は体を起こすと床を出た。
 部屋を出て、土間に降りる。火の気のないそこは、初夏とはいえひんやりと空気は冷えている。
 半蔵は戸を開いた。がた、と戸が開く音が妙に大きく聞こえ、思わず手が止まる。
 一尺ほど開いた戸から、水と若い葉の匂いが漂い入ってくる。出羽の山里は田植えを終えたばかりだ。つい先日まで雪が残っていたはずの里にも、春が、夏が訪れていた。意識を向ければ、変化は否応なしに感じられる。
 音を立てないように静かに戸を開ききり、半蔵は一歩、表に出た。水と葉の匂いが、里を囲む山の新緑の匂いが、より強く感じられる。
 今宵は月はない。星だけが空を飾り、その光はまた、地にて田の水面をも飾っている。
 そのどちらでもない光が、天と地の間をたゆたう。
 やわらかく、ほんのりと緑がかったいくつもの光が明滅を繰り返しながら、夜闇の中を舞うように揺らめいている。
 螢だ。
 舞う螢のいくつかが、つい、と一方向に流れる。
 追うとはなしに、半蔵は飛びゆく螢を視線で追った。
 螢が飛ぶ先には、女が一人、いた。半蔵に背を向けて立っている。
 女に魅せられたように螢はその周りを舞っていた。それらの光が、女の姿を夜の闇から浮かび上がらせている。
 女は、藤紫の着物を纏っていた。あれは確か、気に入りの着物だったはずだ。襟元で束ねた茶の髪は、緩やかに波打って背に流れている。
 その髪や、ほっそりとした肩に、螢が降りる。どんな宝石よりもその光は美しく、どんな飾りよりも女に相応しく思える。
 半蔵は無言でその姿を見つめる。息をすることすら忘れたように立ちつくし、ただじっと、女を、見つめる。
 その唇が、微かに動く。だが声には、ならない。
 ふわりと、女に止まっていた螢が一斉に宙へと舞った。
 女が、振り返る。





 遠くから、河鹿の声が聞こえる。

 半蔵はただ、螢を見つめていた。
 息をすることすら忘れたように、立ちつくし。独り。
                                   終

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