堕天


 服部真蔵にとって、彼の人は絶対だった。
 彼の人の技、術に比肩しうる者はなかった。彼の人は常に冷静であり、的確な判断を下して誤ることはなかった。彼の人はいかなる任も完全に果たし、いかなる任からも必ず生きて帰ってきた。彼の人は配下の忍、伊賀忍を思う心厚く、また伊賀忍の誰しもが尊敬していた。
 彼の人は非の打ち所のない絶対の人であり、受け継がれし偉大な名、「服部半蔵」に相応しい人であった。
 そして彼の人は、真蔵にとっては血の繋がった父であり、人として、忍として目標とする人物でもあった。
 しかし、彼の人はあまりにも強く、速く、鋭い存在だった。
 その域への道はあまりにも難く苦しく、どれほどの修練を積んでも、行を果たしても、真蔵は彼の人に僅かなりとも追いついたと思えたことはなかった。
 真蔵が才に欠けるからではない。同年代の若い忍の中では、真蔵は十分に優れた技量を備えている。これから修練を重ねれば重ねた分だけ強くなっていくことだろう。
 しかし当代の「服部半蔵」はあまりにも優れていた。伊賀忍全てを見渡しても、半蔵の域に達している者どころか、その近くにある者すらごく僅か。とてもまだ年若い真蔵が一朝一夕で追いつけるものではない。
 だが真蔵はまだ若く、また半蔵はあまりにも近しい存在であった。それがために真蔵の己を見る目は、半蔵と比した己の未熟さ、至らなさにしか、及ばなかった。
 半蔵と己が異なっていることに、真蔵が気づくことができればよかったのだろう。
 己自身の今の力量と、これからの可能性に気づくことができればよかったのだろう。
 だが真蔵には気づけなかった。気づけず、その魂は独り、迷い道を彷徨っていた。
 更に、誰も、服部半蔵さえも、真蔵に真蔵の力を気づかせようとしなかった。それどころか、真蔵が迷い道に入り込んだことに気づいていたかさえも怪しいものであった。
 迷い道にありながらも、真蔵はただただ一途に彼の人を、服部半蔵を目指した。
 そしてそれ故に傷つき、劣等感にさいなまれ、自分を追い詰めて、いった。


 その日は、黒くどんよりとした雲が太陽を覆い隠し、昼間だというのに薄暗かった。
 真蔵は里を囲む山の修行場で一人、鍛錬に励んでいた。他の者は里の仕事に就いており、真蔵の他は誰もいない。真蔵にも仕事はあるが、今はどうしても一人で鍛錬していたかった。
 朝の鍛錬の時にぶつけられた言葉が、真蔵を里に戻ることを拒ませていたのだ。
「半蔵様には及ばぬ癖に!」
 それは真蔵に打ち負かされた若い忍の、悔し紛れの言葉であった。だがそこには本心が含まれていることが真蔵には、わかった。二人を見つめる他の忍達の中にも、同じ思いがあることをも感じ取った。
 日頃、自分でも強く感じていることだけに、直接ぶつけられた言葉と視線は真蔵の魂に深く突き刺さる。
 真蔵にはその痛みを振り切る術は、鍛錬を繰り返すことしかなく、故にたった一人で山に残っていたのだった。
 しかし、どれほど鍛錬に打ち込んでも、真蔵の心が晴れることはなかった。
 打ち込むほどに思い知らされる、「服部半蔵」の背の遠さと、己の未熟さ。
『半蔵様には及ばぬ癖に!』
「ええいっ!」
 耳にこだました声――嘲りを含んだ声に、真蔵は拳を傍らの大木に叩きつけた。
「父上を超えるとまでは……言わない……っ、だが、だがせめて……!」
――誰にも「服部半蔵の息子」であることに文句を言わせない、「服部半蔵」にも認められるだけの力が、欲しい……!
 その時、だった。
 こおっ、と高い音を立てて颶風が真蔵の周囲を渦巻いた。風が宿す異様な、禍々しい気配に真蔵は本能的に身構える。
『……父を超えるなど造作もないこと。
 我が力を与えようぞ……!』
 風の中から若い男の声が声が響いた。
 一瞬、真蔵の動きが止まった。
「……っ、何者!」
 だがすぐに後ろ腰から刀を引き抜き、真蔵は周囲に目を走らせる。険しい山々と結界に守られた忍の地に入り込んできたこの気配、見過ごすわけにはいかない。
『強くなりたいのだろう……? 我が力を与えてやろう……』
 声は真蔵の問いに答えることなく、囁きかける。
「力を、与える……?」
 真蔵の構えた腕が、僅かに下がった。聞いてはならぬ、気を許してはならぬと思いながらも、奇妙なまでにその声は真蔵の魂に絡みつき、捕らえる。
『そう、お前が望みさえすれば、服部半蔵をも上回る力がお前の物となる……』
「馬鹿な、父上を超える力などあるはずも……」
『何故……?』
 否定する真蔵の頬に、目に見えない手が触れた。ぞっとするほど冷たい感触に真蔵は思わず後退るが、その背はすぐに背後の大木にぶつかった。
 見えない手が逃れる道を失った真蔵の顎に触れ、くい、と顔を上げさせる。
 真蔵はそこに、美しい青年の顔を見た。
 年の頃は真蔵と変わらないぐらいだろう。だが朧に透け、禍々しい気を宿すその姿は、青年がこの世の者ではないことを示している。
『何故、そう思う……?』
 青年は慈愛と哀しみに満ちた笑みを浮かべ、問いかける。
「父……服部、半蔵は、絶対……超えられるわけがない……」
 弱々しく首を振った真蔵の言葉に、青年の目に炯(けい)とした光が宿った。
『絶対などで、あるものか……!』
 顔を間近に近づけ、叱りつけるように叫ぶ。
『彼の者が絶対だというのならば、何故お前は苦しんでいる、何故お前は悲しんでいる……!?
 何故、彼の者はお前を救わない!?
 絶対ならばできるであろう!?』
「それは……それは……っ」
 懸命に真蔵は青年の言葉を否定する言葉を探した。探していること自体が、青年の言葉を半ば認めていることには、まるで気づかずに。
 脳裏に、「服部半蔵」の姿が浮かぶ。覆面の、鉢金の下の鳶色の目は、真蔵を見るときですら感情を表すことは少ない――
『彼の者ほど優れたる者ならば、お前の苦しみを知らぬはずはあるまい……
 気づかぬはずがあるまい……
 だが何故彼の者は知らぬ振りをする……?』
「違う!」
 父上は「服部半蔵」だ! 我が子だからとて特別扱いされるはずもない!」
 やっと真蔵は理由を見つけ出した。
 そう、「服部半蔵」は我が子であっても特別扱いするわけにはいかない。「服部半蔵」の前では、真蔵は一人の伊賀忍に過ぎない。
 だが。
『本当に、お前は、そう思っているのか……?』
 続いた声は、あっけなく真蔵を打ち崩した。
「本当、に……」
『それでも彼の者はお前の父ではないか……
 父が子を想い、救いの手を差し伸べるは自然なこと……
 子の苦しみを知っていながら、手を差し伸べぬ父など……』
 声はもはや甘い毒となり、確実に真蔵を蝕んでいく。魂が抱える傷をえぐり、潜む歪みを引きずり出していく。
 脳裏に浮かぶ「服部半蔵」は何も、言わない。いつもと同じように。
――私は、私は、思っていない! 私は父上を……、半蔵様を…………!
 真蔵は声を聞くまいと必死に耳を塞いだ。目を閉じた。しかし目を閉ざして生まれた闇が、耳を塞いで生まれた沈黙が、一層真蔵の歪みを真蔵自身に認識させる。
『絶対ではない……』
 囁く声はどこまでも甘く、優しく、そして哀しげな響きを宿している。
――ゼッタイ、デハナイ……
 真蔵の手から、忍刀が滑り落ち――

「真蔵!」

 低く鋭い声が、暗黒に飲まれかけた真蔵の魂を射抜いた。叫びにも似た声の響きが、真蔵の魂に己を取り戻させる。
 聞き間違えるはずもない、父の、服部半蔵の声だ。
――父、上……
「真蔵!」
 再びの叫び、それは真蔵だけに向けられた、真蔵だけを呼ぶ声だ。
「父……う、え……」
 よろめく足を踏みしめて振り返り、声に向かって手を差し伸べる。
 霞む視界に父の姿が見える。
 いつもと変わらない、冷たいほどに感情の抑制された鳶色の目がひたと真蔵を見つめていた。
 だが今――青年の存在があるからだろうか、鳶色の向こうの父の全てが真蔵には視えた。
 視えたそれに、真蔵の魂が大きく震える。
 「服部半蔵」は真蔵を、我が子を案じ、気遣い、想い――――
 恐れていた。
 誰でもない、眼前に在る服部真蔵を、恐れていた。
 絶対の、人が。
――嗚呼――
 真蔵は悟った。
 己の魂を震わせるのは、歓喜。生まれてこの方初めて味わう強烈な、歓喜。
 真蔵の何が半蔵を恐れさせたのかはわからない。しかし、理由などどうでもよかった。絶対の、揺るぎない存在である人が、己を恐れている。それだけで十分だった。
 真蔵は、心の底から、笑った。
 魂の奥底から湧き上がる歓喜が、哄笑となって真蔵から溢れていく。
 笑う声に、いつしか己のものではない声が重なっても、真蔵が気に留めることはなかった。
 全てが闇に消えるまで、真蔵の笑う声は止むことはなかった。



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