「半蔵が名を返すと言っている。 次は、お前だ」 普段と同じように真蔵を呼び出した里長は、普段と変わらぬ口調でそう、告げた。 一方真蔵は、一呼吸、普段とは異なる間を取った。 無理もない。 何気ない口調で里長が言ったのは「服部半蔵の名を引き継げ」ということだ。伊賀衆そのものであるその名を負えと言われ、即答できる者など、いはすまい。 しかし、一呼吸、であった。 わずか一呼吸の後、真蔵は普段と同じように答えた。 「承知いたしました」 と。 任に出ていた半蔵が戻ってきたのは、真蔵が里長の命を受けてから一月経ってのことであった。 半蔵が『服部半蔵』として果たした最後の任である。だからといって、特別な任ではない。常と変わらず命ぜられた任を常と変わらず果たし、半蔵は常と同じく出羽に戻ってきた。 「おかえりなさいませ」 「……うむ」 一つ寄り道をしてから家に戻った半蔵を出迎えたのは、真蔵だった。 常ならば珍しいことであるが、今日ばかりは何ら不思議はない。 一方は『服部半蔵』の名を背から下ろし、もう一方は『服部半蔵』の名を背負う。ましてやその二人には血のつながりがある。 会うことを望むのも、当然のことだ。 また、互いに、思うところがある。その一端でも知りたいと望むことも、然り。 先に口を開いたのは、半蔵だった。 上がり口に腰を下ろし、真蔵が用意した洗い水で足を洗いながら、問う。 「受けたのか」 半蔵の言葉は、故意だ。 忍が命を拒むこと、命に背くことなど、まず無い。それを誰よりもわかっているのは、半蔵だ。 だが半蔵は、問うた。 「命なれば」 半蔵の隣に腰を下ろした真蔵は、短くそう答えた。 「…………」 ふ、と、半蔵の口元が緩む。幽かなそれは、苦笑のようであり、微笑みのようでもある。 「……なにか?」 「いや」 首を振った半蔵は、我が子がまだそのことに気付いていないことを知った。 答えた真蔵の口調は、半蔵のそれと本当によく、似ていた。 「理由はまだ、他にも」 父の笑みのわけを見抜けぬまま、真蔵は足を洗い終えた半蔵に乾いた手拭いを渡した。 「ほう」 興味を示した父を、真蔵は真っ直ぐに見据える。 「『服部半蔵』の名は、父上が背負い続けることを選んだ名。 故に、こうして機会が与えられたのならば私もそうすべきだと」 「…………」 わずか一呼吸の間ではあったが、半蔵の手が止まった。 二十年近く前、半蔵は一つの罪を犯した。一度は自ら命を絶つことで償おうとしたが、最終的には半蔵は生きることを選んだ。 生きて、贖うために『服部半蔵』の名を背負い続ける。 あの時より半蔵が歩む道に新たに意味づけられたことと同じものを、真蔵も己が道に刻むという。 「そうか」 濡れた足を拭きながら、半蔵は、頷いた。頷くことしか、出来なかった。 悲しみか、怒りか。嬉しいのか。それとも、罪悪感か。渦巻いた感情に、半蔵は言葉という形を与えることが出来なかった。 己が道を選んだ者に、老い、去りゆくだけの者がもはや、何を言えようか。逃げ道のようにそう思い、そう思ったことに半蔵は己の老いを実感した。 「父上」 視線を半蔵に留めたまま、再び、真蔵が口を開いた。 「理由は、今一つ」 「…………」 足を拭き終わった手拭いを、脇に置く。 「父上は、私が『服部半蔵』の名を継ぐこと、喜びはすまいと」 半蔵は、真蔵の眼を見据えた。母と同じ真蔵の黒く深い色の眼は、何処までも真っ直ぐだ。その真っ直ぐで黒い眼の奥に、ほの暗く揺れるものが見える。 ――否。 真蔵は半蔵にそれを見せている、半蔵は思った。 ただ一度きり、天運がもたらしたこの機会に、見せたのだ。己の全ての真を。 故に、半蔵は、 「そう、思うか」 言った。 「はい」 「故にか」 「故に」 繰り返し頷く真蔵の口元には、笑みがあった。様々な感情が入り混じった結果が笑みと見えた、その様な笑みであった。 そんな表情は、きっと己とよく似ているのだろうと、半蔵は、思った。 |