宿場町は、祭だった。
 家々の軒には色とりどりの提灯がぶら下がり、あちらこちらの店や宿が、旅人や町の者に振舞酒を配っている。もう西の空は赤く染まっているというのに、町には陽気な賑わいに満ち満ちている。
 遠くから、近くから、祭囃子や賑やかな声が響きわたる。
 面をかぶり、あるいは玩具を手にした子供達が駆け回る。大人達は町の者もそうでない者も、共に杯を、言葉を交わす。
 そんな中、半蔵は宿を出ていた。常ならば無用の用を取ることはないというのに、珍しい。

 後から思えばそれは、虫の知らせといったものだったかもしれない。

――……む
 賑わいの中を一人そぞろ歩いていた半蔵の目が、すっと細くなった。
 通りを行く人々の中、真っ直ぐに半蔵にだけ向けられた視線を感じていた。
 半蔵は頭を動かさずに視線を、追う。敵意や殺気の類はないことが、逆に気になっている。
 視線の主はすぐに見つかった。
 むしろ見つけられることを望んでいたのか、半蔵が目を向けると同時に、その者は口を開いた。
「半蔵さん」
 朱にも似た色の髪の下で、大きな黒い目が、笑う。
 不思議と半蔵に驚きはなく、声の主の名を呼んでいた。
「閑丸」
「はい」
 通りに面した店の前に出された長椅子に、杯を手にして腰掛けている若者――緋雨閑丸は、嬉しそうに頷いた。
 白い着物に半袴、黒い脚絆。朱い袖無しの上衣の上から、輪袈裟を掛けている。傍らには青塗りの傘と、紅い宝玉を柄に埋め込んだ剣がある。
 あの時、かつて閑丸が少年だった頃、『鬼』を巡る運命の中で半蔵と出会った頃と格好はほとんど変わらない。
 しかし、あの時から過ぎた年の数だけ、閑丸は大きくなった。
 顔立ちの所為か若く――幼く見えはするが、年は二十にはなったろう。
「お久しぶりです」
 年相応に声変わりを経て、声もあの頃より低くなっていたが、何よりも閑丸の変化を示していたのはその表情だった。
「よかったら座りませんか?
 お酒、ありますよ」
 傍らの徳利を軽く持ち上げ、半蔵に向けた顔には、かつての何かが欠けた寂しげな表情はもう、ない。
 その表情に惹かれたか、懐かしさにも似た感情が背を押したのか。
「……あぁ」
 閑丸に促されるまま、半蔵は長椅子に腰を下ろしていた。
「よく、わかったな」
 差し出された杯を受け取る半蔵の姿は、旅の薬売りのものであり、閑丸の知らない格好のはずだ。それに閑丸が成長した分、半蔵も年を取っている。
 にも関わらず、この人出の中、閑丸は半蔵に気付いた。
「わかりますよ」
 半蔵の杯に、閑丸は酒を注ぐ。ふわりと広がる酒の芳香が、鼻孔をくすぐる。
 黒い目がすいと、半蔵の鳶色の目を見据えた。
「私は、半蔵さんの目を忘れません。姿形が変わっても、半蔵さんの目は、変わらない」
「目か」
 閑丸の口調も大人びた、と思いながら半蔵は杯を口元へと運ぶ。
 軽やかな甘味の中に、控え目な酸味を宿した酒は、するりと喉を流れていく。
「はい。あの時と、同じです。あなたの目は、真っ直ぐに人を視る。
 あ、でも……」
 半蔵の横顔に向けられていた閑丸の目が、揺れる。
「なんだ」
「…………」
 半蔵から目をそらし、閑丸は無言で杯に口を付けた。小さな悔いの色がその顔に浮かんでいる。
――触れてはならぬものを儂に見た、といったところか。
 閑丸の表情に、半蔵はおおよそのことを察する。
 では何を見たのか、ということまではさすがに半蔵にも見当がつかなかったが。
「……なんでも、ありません」
 酒を飲み干してようやく、ぽつんと閑丸は言った。
「そうか」
 徳利を取り、閑丸の杯に半蔵は酒を注いでやった。
 その口元は僅かにほころび、眼差しには半蔵には珍しく優しい光がある。
「あっ、ありがとうございます」
 溢れかけた酒に、閑丸は慌てて杯に口を付けた。
 故に、閑丸は半蔵の表情を目にすることはなかった。
 半蔵の思惑通りに。
「お主も、酒を飲むほどになったのだな」
「はい?」
 唐突な言葉に、きょとん、と閑丸は目を瞬かせた。
「それほど、大きくなった」
――体だけでは、なく。
「そ、そうですか?」
 戸惑いを見せながらも、閑丸は嬉しそうに目を細くする。
「あれから、そんなに経ってないと思ってたんですけどね……」
 だから自分じゃわからないんですけど、と閑丸は自分の手に目を向けた。
 子供の手ではない、もう一人前の大人の手であり、剣士の手だ。
「あれから、五年は過ぎた」
「五年……」
 繰り返し、閑丸は小さく息をついた。
「実感がないか?」
「はい」
 頷くと、くいと、杯を閑丸は傾ける。
「たぶん……ずっと、感じているから」
 頬はほんのりと朱に染まり、その黒い眼には賑やかに行き交う町の人々が映っている。
「僕、の進む道には、今もあの人がいる……」
 酔いが回ったか、昔のように「僕」と閑丸は口にした。
 だが同時に、「人」と閑丸は言った。
 確かな時の流れをそこにも感じながら、半蔵は閑丸の言葉の続きを待った。
「でも、嫌な感じはしないんです。
 むしろ、感じられることが嬉しい」
「……そうか」
「半蔵さんは、そんな風に感じたことはありますか?」
「…………」
「…………」
 無言の半蔵に、徳利を閑丸は向けた。
 応じて半蔵が差し出した杯に、酒を注ぐ。
 何度目か、広がった酒の芳香が、町の賑わいの中に溶けていく。
「お主のように感じたことはないが……」
 言葉を切ると、半蔵は酒に口を付ける。
 酒は、半蔵の喉や鼻に味や香を印しながらも、水のようにするりと胃の腑に流れ落ちる。
「忘れたことは、なかった」
「……そう、ですか」
 こくり、と閑丸は頷き、
「よかった」
そう呟くと、はにかんで笑いながら、頭をかいた。
「ごめんなさい。おかしなことばかり、言ってますね」
「気にするな」
 お互い様だ、と半蔵は口の中だけで呟いてから、言う。
「酒を飲めばそうもなる」
「半蔵さんも、そうなんですか?」
 杯に視線を落として、先と似た問いを閑丸は口にする。その頬の朱は随分と濃く、黒い大きな目も潤んできている。どうやら酒には強くないようだ。
「…………」
 半蔵の口の端に苦笑とも微笑とも見える笑みが、浮かんだ。
 そして、杯を傾けた。

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