青天


 通り雨が過ぎ去った後、雲は駆け足に去り、空は見事に晴れ渡った。
 雨が上がったばかりの山は澄んだ大気に土や木々の匂いが満ちている。雨に洗われた草木の緑は鮮やかで、枝々の間から見える空の青に映える。
 幾重にも重なって雨を含んだ落ち葉は半蔵が踏みしめるたびに水音を上げ、枝葉の露がさやかな風に、あるいは自らの重みに滑り落ちて半蔵に降りかかった。
 その、微かな、枝が跳ねる音に半蔵の視線が上に向けられ、露が半蔵に届くより早く姿が消えた。
 代わりのように少年が一人、ほんの今まで半蔵が立っていた場所に舞い降りた。
 露は、ばらばらと少年の髪に、空の青の忍装束の上に落ちる。
「あ……あれ!?」
 濡れたことを気にもせず、少年はきょろきょろと周囲を見回した。
「おっかしいなぁ……」
 呟く少年の髪は金色で、眼の色は青い。
 日の本の国の者とは明らかに異なる容姿。
 少年はこの国では『異人』と呼ばれる、遙か海の彼方の国の者であった。

『ガルフォード』

 まだ周囲を見回している少年を見下ろし、声無く綾女は少年の名を半蔵に告げた。
『あめりかという国から、来たそうだ』
 少年――ガルフォードのすぐ傍の木の枝に、二人は並んで立っていた。葉が生い茂っているとはいえ、ガルフォードが見上げれば気付いてもおかしくないほどに近い。
 といっても、一人は伊賀最強の忍である半蔵、今一人もまた優れたくノ一である綾女。ガルフォードに気配を掴ませるはずもない。
『……異人ではありますが、人の子ですな』
 綾女と同じく、ガルフォードに目を向けたまま半蔵も声無く応えた。
 二人が使っているのは「矢羽音」と呼ばれる、声無く決められた符丁のみで会話する手段だ。
『人の子とな?』
『綾女殿が拾った異国の犬を見てこいと、里長は』
 今度はガルフォードは、腕を組んで考え込んでいる。誰かがいたはずなのにとでも思っているのだろう。
 そのガルフォードを見つめつつ、半蔵は僅かに眉を、寄せた。
『犬か』
 綾女の肩が、小さく揺れる。
 半蔵の仕草が、己が不機嫌なのだと綾女に示すためのものだということを、理解したのだろう。
 それはそれで、半蔵にとっては愉快でない反応である。もっとも、綾女のこの反応も、それを己がどう感じるかも半蔵の予測の内であったのだが。
『犬ならそこだ』
 綾女がそう言うと同時に、ガルフォードのすぐ傍の茂みが揺れ、小さな影が飛び出した。
 犬だ。
 犬は影はガルフォードの前に軽く着地すると、ぶるぶると身震いする。半蔵の知る犬より大きく、しなやかな体つきだ。白と黒のその体から、雫が飛んだ。
「わ、パピー、こらっ」
 飛ぶ雫から顔をかばいながらも、ガルフォードは笑っている。一点の曇り無く、実に楽しげに、無防備に。
――あのように笑う者は、忍にはない……
 半蔵はガルフォードの笑みと、忍の少年達の笑みを比べている己に気付いた。それは例えば、半蔵の長子真蔵であったり、次子の勘蔵であったり、である。
 忍とて心から笑うことはあるが、ガルフォードの笑顔とは本質的な何かが違う。
――屈託が無い。影が無い。素直さ。無防備さ。明るさ……
 胸の内でガルフォードの笑みの特徴を数え上げたが、否、と半蔵は否定した。
 息子達の笑顔にも、それらはある。
――……本質……か。
 本質的な違いとは、つまるところは言葉で表せる違いでは無いのかもしれない。
――益体もないことを。
 自嘲気味に思考を打ち切ると、半蔵は綾女に問う。
『……あの異人の者、綾女殿は』
『忍とするつもりだ』
『…………』
 今度は故意に作ったものではなしに、半蔵の眉が寄せられていた。
 やはり綾女の答えは、予測の内であったのだが。
 ただの酔狂や好奇心だけで、このくノ一が異人の子を手元に置くはずがない。忍として育てるぐらいの目的はこの女人ならばあって当然。
『どうだ?』
『綾女殿がお決めになったのであれば、何も』
 半蔵がそう答える間に、見つからない人影のことは諦めたのか、犬が来たことで気が逸れたのか、ガルフォードは犬と共に駆けていった。
 金の髪が駆ける風に揺れ、青い目はしっかりと前を見つめていたのを、半蔵は見た。


「どうだ?」
 ガルフォードの足音が消えると、綾女は声を発して問うた。
「……先に、答えた通り」
「ふむ」
 綾女は小さく、笑った。
 ひょいと軽く、木の葉一つ揺らすことなく、木の枝から飛び下りる。
 先まで、ガルフォードがいた場所に。
「相変わらず、勘の鈍いことだ」
「…………」
「今度は、会いに来ると良い」
「…………」
「どこまでも相変わらずよな」
 無言の半蔵に一つ肩をすくめると、綾女もまた、歩み去った。
――異人の忍……
 綾女が去ってから、半蔵もようやく木の枝から下りた。綾女と同じく、木の葉も枝も、揺らさずに。
 地面に積もった落ち葉を見やれば、踏み荒らされた跡が一筋だけ見て取れた。ガルフォードと犬が駆けていった跡だ。
 まだ修練を始めたばかりだろうから当然とは言え、忍としては異人の少年はまだ駆け出しの域にも達していない。
 半蔵は、天を仰いだ。
 澄み切った空の色は、青だ。
 ガルフォードの眼の色はこの青と同じだ。
――これから、どうなるか。
 いろいろと、面倒が起きるのは間違いない。綾女の目的を阻むのは、綾女の出自や現在の立場が絡み、半蔵はじめ出羽の者には困難である。どちらかといえば、余計なことが起きぬよう、事実上綾女に手を貸す側に回ることになるだろう。
 三度、半蔵は眉を寄せた。
 だがそれは、これからの面倒を憂えたからではなかった。
 己を訝しく感じたからである。
 あの少年、天そのものの色の眼のガルフォードがいかなる忍となるのかを見てみたい。
 僅かであったがそう思った、己の心を。
                

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