背中


 不覚、としか言いようがなかった。
 服部半蔵ともあろう者が、いくら配下の忍を庇ってのこととはいえ、足に傷を負ってしまうとは。
「追手は」
 自ら傷の手当てをしながら、半蔵は問う。傷は手裏剣が掠めただけのものに過ぎないが、刃に毒が塗ってあったらしく酷く腫れ上がり、もう動けそうにない。薬を含んだので時間が経てばどうにかなるだろうが、まだ敵の勢力内にいる以上、長居は危険だ。
「今のところ気配はありません」
 姿を潜めた茂みの影から外をうかがい、真蔵が答える。複数に分かれて散った為、ここにいるのは半蔵と真蔵の二人きりだ。
「そうか。
 真蔵、先に戻れ。儂は、後から、行く」
 毒の所為で荒くなる呼吸を抑えつつ、半蔵は命じた。
 任を果たすことが忍の第一で、第二が生きて戻ることだ。第一である任は既に果たした。ならば次は生きて戻らねばならぬ。生きて戻ることに、服部半蔵もそうでない忍も関係ない。
 今の半蔵は満足に動けない。真蔵の足手まといになってしまう。ならば、選ぶ道は一つだ。
 しかし真蔵は驚いたように振り返り、半蔵と同じ色の目で半蔵を凝視した。
 無理もない、と半蔵は真蔵の目を見つめ返しながら思った。
 いくら生きて戻ることに半蔵と他の忍に差がないとはいえ、「服部半蔵」の名を持つものを見捨てるのは若い者には抵抗があろう。それに加えて、
――親子……か。
 自分を見つめる真蔵の目が家でのそれに近いものに見え、半蔵は覆面の下で唇を歪めた。
「行け」
 やや語調を強くし、半蔵は再び命じる。
 真蔵は唇を引き結ぶと、くるりと半蔵に背を向けた。
「……どうぞ」
 しゃがみこみ、感情を押し殺した声で言う。
 その意味を量りかね、半蔵は鳶色の目に知らず、怪訝の色を浮かべる。
「どうぞ、負ぶさってください」
 背を向けたまま強い口調で真蔵は繰り返し、そこでようやく半蔵は真蔵の意図を理解した。
「構うな、先に、行け」
「なりません。
 服部半蔵に何かあれば、伊賀衆全ての恥となります」
「忍に、恥……など、ない……行け……!」
 薬は効いているのだろうが毒は思ったよりも強かったらしく、半蔵の呼吸は乱れ始めていた。気配を殺すこともかなり辛くなってきている。それでも四度、厳しい口調で半蔵は我が子を促した。
「聞けませんっ!」
 半蔵に負けぬほど厳しく鋭い声で、真蔵は半蔵の命を拒絶した。同時に素早く半蔵に近寄ると、口を開かせる間も抵抗する間も与えず、背に負ぶった。
「急ぎます。傷に響くやもしれませんが、お許しを」
 そう言うや否や、やはり半蔵に時を与えずに走り出す。
 もはや何も言えぬ状態に、半蔵は諦め、真蔵に全てをゆだねざるを得なかった。できるのはただ、己が真蔵の背から落ちぬように、それでいて真蔵が走る邪魔にならぬように、その首にしがみつくことだけだ。
 真蔵は狭い山道を、半蔵を負ぶっているとは思えない足取りで駆けていく。半蔵より小柄な体なのに、苦にした様子はまるでない。
――真蔵……
 この程度のこと、忍としては当然のことであるというのに、半蔵は軽い驚きを覚えていた。優しげで荒仕事には向かぬ風な真蔵がこうも走れることが不思議でならない。自分を負ぶう背中がこれほど広く、逞しく感じられることが不思議でならない。
 背から僅かに伺える真蔵の顔は、真っ直ぐに前を見据えている。あの時とは違い、もうすっかり大人の顔立ちをしている。
――……当然の、ことか……
 覆面の下で半蔵はまた微かに唇を歪めると、奇妙な安心感と一抹の寂寥を感じながら真蔵の背で気を失った。
                                 終

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