己も老いたと半蔵は思った。
 『服部半蔵』の名を受け継いで三十年余り、五十の声も近い。
 顔や手には深く皺が刻まれた。遠い昔に受けた刀傷が老いたことで悪化したか、時折左の眼が霞むようになった。齢を重ねただけ、体力も落ちた。技や術に衰えはないが、『服部半蔵』の名を次の者に譲る時が来たことを半蔵は悟った。
 半蔵は直ちに里長にこのことを告げた。長もまた半蔵の老いを認め、名を譲ることを認めた。里長はこの日が近いことに気づいていたのだろう、次の『服部半蔵』はもう決めてあるとまで言った。
 誰か、と問うた半蔵に、里長は半蔵が長子、真蔵の名を告げた。この出羽の里でも、伊賀の里にも、真蔵以上に『服部半蔵』に相応しい者はいないと。
 半蔵は里長の決定には何も言わなかった。かつて私事で動き、以降、半ばはその贖い(あがない)の為に『服部半蔵』として在った己に『次』を決める資格はないと思っている。また里長の決めた者が己が血を引く者であり、そしてかつての己の罪の理由であるのならば、尚のこと口を挟むことはできない。
 里長は無言で己の決定を聞いた半蔵に、『服部半蔵』としての最後の任を下した。名を譲るにしてもその準備がある。代替わりは幕府にさえ知らせることのない、伊賀忍の秘事ではあるが、それでも相応の準備がある。準備が終わるまでは、『服部半蔵』としてお前に働いてもらうと、里長は笑って言った。
 最後といっても何も特別なものはない。いつもと変わらない、ただの影働きである。

 任に赴く前に、半蔵は先日の任で折れた忍刀の代わりを受け取るために鍛冶小屋へ向かった。
 いつものように鍛冶頭が半蔵に一振りの刀を渡す。その顔が上気し、興奮しているのに半蔵は気づいた。しきりに目を細くし、しぱしぱとせわしなく瞬きをする。
 怪訝に思いながらも半蔵が刀を背負おうとしたとき、鍛冶頭は口を開いた。
「半蔵殿、その刀、見てくださらんか」
「……?」
「お頼み申す」
 深々と頭を下げる鍛冶頭に、半蔵は一寸ほど刀を抜いた。
――これは……
 僅かに、半蔵は目を見開いた。刀の良し悪しには興味のない半蔵でもわかる。業物(わざもの)だ。
 だがそれは、数打ちを常とする忍刀にはあるはずのないことである。
「半蔵殿も次に名を譲られると聞き申したが、儂も隠居を決めましてな」
 半蔵の問いかけの視線に、あばただらけの顔で鍛冶頭は笑った。
「目が無理と申しておりますのじゃ」
 半蔵はその時初めて、鍛冶頭がしきりに瞬きしているのが、興奮しているからではなく、視力が弱っているからだということに気づいた。同時に、己が『服部半蔵』となる以前から世話になってきたこの鍛冶頭もまた老いた事を実感する。
 里で使う農具も、任で使う刀も忍具も全てこの鍛冶頭とその一族が打ってきた。火を見つめ、火の粉を、焼けた鉄の粉を浴びて生きた数十年。目が弱るのは鍛冶匠の宿命のようなものだ。
 目の見えぬ忍と同じように、目の見えぬ鍛冶打ちは使えない。
 己の役を果たせなくなった者はあとを続く者に任せて、退く。それは、「服部半蔵」であろうと鍛冶頭であろうと変わらない。
 違いがあるとすれば、鍛冶頭には最後に為すことを選ぶことができた、ということだろうか。
「隠居じゃと思いましたらな、どうしても打ってみたくなりましてな」
 一つ事を為し遂げた満足感に満ちた鍛冶頭の声を聞きながら、半蔵は無言で稀代の業物であろう忍刀を見つめた。
 忍にとっては任を果たすことが第一義。生きて戻ってくることがその次に来る。そのために必要なのは業物ではない。傷むことも折れることも気にせず、手放すことも捨てることも躊躇わずにすみ、それなりに使いやすく、それなりに丈夫な数打ちで事は足りるのだ。また、鉄や炭、時を無駄にしないためにも忍具は数打ちとすることが常であった。
 それを誰よりもわかっているはずの鍛冶頭が打った、最初で最後の業物。
――……最後、か。
 己は最後に何ができるだろうかとふと思い、愚にもつかぬことをとそれを一蹴する。
 忍ができることは決まっている。
 任を果たし、必ず生きて戻る。
――生きて、戻る。
 抜いた刀を鞘に収め、いつものように背負う。これまで背負ってきたどの刀よりも、その忍刀はしっくりと収まった。
「良い刀だ」
 低く呟く。
 くしゃりと顔を歪めて、鍛冶頭は破願した。


 半蔵がいつもと変わらぬ任をいつも通りに果たし、里に戻ったのは一月の後であった。
 里長に報告を終えた半蔵は、真蔵に既に事を告げたと聞いた。あとは半蔵から『服部半蔵』の名を譲る儀を行えば、代替わりは終わりだ。
 いつがよいかと問う里長に、半蔵はいつでもよいと答えた。ならば明晩としようと里長は定め、半蔵は頷いた。
 その後里長の家を辞した半蔵は、家に戻るより先に鍛冶頭の元へ向かった。既に隠居した老人はいつもの鍛冶小屋ではなく自宅の縁で、所在なげに忍具を磨いていた。
 僅か一月で目は随分悪くなったらしい。半蔵が間近まで歩み寄り、声を掛けてようやく老人は半蔵を見上げた。
「これは……失礼し申した。無事戻られたか」
「うむ」
「お疲れ様でござった」
 忍具を脇に置き、老人は半蔵を労う言葉を掛けた。
「お主も」
 答え、半蔵は背負っていた忍刀を下ろした。
 老人の手を取ると、その掌の上にそっと、置く。
「これ……は……」
 触れた刀に気づいた老人は、視力の衰えた目を大きく見開いた。歓喜か驚きにか、忍刀を握る手が小刻みに震えだす。それでもその震える手で懸命に老人は刀を抜いた。
「おぉ……」
 抜いた刃を老人は目の間近まで寄せて見る。指でそっと刃をなぞり、ちぃんと弾く。
 半蔵は老人の隣に腰を下ろした。確かに良い刀だった。切れ味良く、切れ味が鈍ることもなく、直刀でありながら彎刀(わんとう)と変わらぬほど振るいやすい刀であった。
 やがて老人は満足して頷き、刀を鞘に収めた。収めた刀を膝の上に置き、愛し子のように撫でる。それは過酷な半蔵の任に耐え、その力を存分に振るって戻った忍刀を褒めているようであった。
「感謝いたします。これで思い残すことは何もござらん」
「うむ……」
 頷き、半蔵は何の気なしに問うた。
「その刀、次の任にも使えるであろうか」
「少し研いでやれば問題なく使えましょう。此度の様子なれば、例え『服部半蔵』の任を続けても滅多なことでは傷みますまい」
 己の腕と最後の作への自信と誇りを持って老人は答えた。しかしすぐに怪訝な表情を浮かべる。
「半蔵殿は、此度が最後の任ではござらんか?」
「……確かに」
 言われて、半蔵は微かな苦笑を口の端に浮かべた。『服部半蔵』を退くというのに、次の任のことを考えている。
 だが、と思う。
「もっとも、『服部半蔵』殿には終わりはござらんな」
 まるで半蔵の心中を読みとったように、老人は言った。


 後にその忍刀は『影若』と銘打たれ、『服部半蔵』と共に幾多の任を果たすことになる。

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