『半蔵門に来られたし
            服部半蔵』

 ただそれだけが書かれた書状が、秋深まる肥前の山里に届いた。
 『天草四郎時貞』、『羅将神ミヅキ』、『壊帝ユガ』と、数年にわたって次々と世を襲った魔の驚異がやっと打ち払われて二月後、そして風間蒼月を頭とする風間忍群が、幕府直下の忍群として召し抱えられた半月後のことである。
 幕府に風間忍群が召し抱えられたと言っても、まだその儀が公儀隠密を通して伝えられただけだ。江戸に召されることもなく、何か命を下されたこともない。
 幕府から、または幕府に関わる者からの、初めての書状がそれであった。
「……こう、来ましたか」
 書状に記された、たった十三の文字を見つめ、蒼月は呟いた。

 それから十日後、風間蒼月は半蔵門を訪れていた。といっても文字通り門に向かったのではない。その側に構えられた伊賀組頭である服部半蔵の屋敷を訪れたのだ。
 江戸城の西口を守護するため、また危急の際には将軍をこの門より甲州街道へと逃す先導役を務めるために伊賀組はこの門の近くに居を構えている。もっとも「服部半蔵」がこの屋敷に住まうことは半蔵正就の失態以来百五十年余り、絶えて無い。
 だがこの日、案内された部屋から、蒼月は「服部半蔵」を見た。
 おそらくは伊賀組の者達が欠かすことなく毎日手入れし続けたのであろう、百五十年余り無人の屋敷であったとは思えないほど見事に整えられた庭の池の傍に、服部半蔵は一人佇んでいた。
 異変の渦中で見かけたとき、あるいは剣を交わしたときに常に纏っていた闇色の忍装束姿ではない。髷こそ結わず、髪は襟元で束ねただけであるが、濃い藍色の素襖を身につけている。素襖の胸元には、服部家の家紋「源氏車に矢筈」が白く染め抜かれていた。
 なりは以前と異なっても、蒼月にはその男が服部半蔵だとわかる。侍の姿をしていても身に纏う雰囲気は―おそらくは故意なのであろうが―以前と変わらない。捕らえ所のない、目の前にいるのに妙に希薄で、そのくせ何処か鋭く、油断を許さない、忍の気配。
 そんな雰囲気を纏い、いつか見たときと同じように半蔵は腕を組み、緋鯉の泳ぐ池を見つめている。
――……この屋敷の、主……というわけですか。
 ほんの僅か、目を細くすると蒼月は半蔵のいる庭へと降りた。上がり石のところに、まるで図ったように草履が一組置かれている。
 ぱしゃり、と鯉が一匹、大きく跳ねた。
「風間忍群が頭領、風間蒼月。
 参上いたしました」
 軽く頭を下げるが、膝はつかない。
 半蔵はゆっくりと腕を解くと、蒼月に向き直った。
「伊賀衆、服部半蔵である。
 遠路はるばる、ご苦労であった。
 面を上げられよ」
「は」
 言われるままに、顔を上げる。
「ふむ……」
 上げた蒼月の顔を、半蔵はじっくりと見つめる。
 軽い不快と怪訝を覚えながら、蒼月は半蔵の目を真っ向から受け止めた。
 陽光の下、素顔の「服部半蔵」の顔を見るのは初めてだ。このような機会でもなければ、見ることなど無かっただろう。
 それでも初めて見る顔だという気がしないのは、ひたと蒼月を見据える鳶色の双眸の所為だろうか。
 その目だけは、半蔵の顔を隠す覆面と鉢金の間から何度も見た。常に落ち着いた光を宿し、ほとんど感情をそこに見ることはなかった。
 今、半蔵の鳶色の眼に蒼月と戦う意志は顕れてはいない。少なくとも今のところは、蒼月には読めなかった。
 何を思っているか読ませない眼差しは、ただ蒼月を見つめる。蒼月を観察しているようであり、自らの思索に耽っているようにも思える。
「……何用で呼ばれましたか」
 いっこうに口を開こうとしない半蔵に、蒼月は仕方なく自分から口を開いた。
「どう、察せられた」
 問いに、問いで返される。
「新たに召し抱える忍群の忠誠を確認……といったところでしょうか」
「否」
 それは忍が役目に非ず、と半蔵は答えた。
「では、何故に」
「興味を覚えた」
「興味……?」
「何を思うて、仕官なぞ望むのかと」
――興味。
 口の中で蒼月は繰り返した。
 警戒ではない。「興味」だ。
「幕府よりの扶持など知れておろう。
 殊に」
 半蔵は言葉を切ると、視線を動かした。視線の先には、江戸城があった。半蔵と蒼月が、彼らの下にある伊賀衆、風間衆等が仕える将軍の在る、江戸城。
「……天下太平の世、忍は闇より出る術はない。それを知りつつ仕官を望むとは酔狂なことよと、伊甲の長どもは言っておった」
 半蔵は視線を蒼月に戻し、淡々と言葉を続けた。その口調から半蔵も酔狂と思ったのかは蒼月にはわからない。
 だが、次の言葉と同時に半蔵の目になにがしかの感情をが浮かぶのを見た。 
「弟妹の為か」
「………………」
 表情にも声にも顕れず、ただその鳶色の目にのみ覗かせた感情は、哀れみとも同情とも、それ以外の何か―忍にあるまじき何か―にもとれるものであった。
「風間忍群の先代の頭、病で急死したと聞く」
「流石……ですね」
 蒼月は口元だけで、笑んだ。
「半蔵の名を持ちながら、我が子一人の為に私剣を振るったお方だけのことはある」
 皮肉を響かせる蒼月の言葉にも半蔵の表情は変わらない。先と変わらぬ眼差しを向けたまま、蒼月の言葉の続きを待っている。
「主無しの忍がどれほど惨めか、伊甲の方々にはわからぬでしょう。忍は主あってこそ、その存在の意味を持つ。主無き忍は、夜盗のたぐいと大差ありません。
 そこより抜け出すことは亡き先代をも含めた、我ら風間忍群の総意であり悲願。
 果たすための苦労ならば、何を惜しむことがありましょうや」
 流れる水の如く淀みない口調で蒼月は語った。
 口元に笑みを含んだまま、冷たい眼差しで半蔵の目を見据えて。
「なるほど」
 何かを納得したように一つ、半蔵は頷いた。目に覗かせていた感情が消えうせる。
 一歩、蒼月に向かって歩を踏み出す。
 蒼月は動かない。僅かにその目を細くしただけだ。
 半蔵は歩みを進めると蒼月の真横で足を止めた。
「せっかくの機会だ。茶を一服馳走しよう」
 笑んだ、気配。
「せっかくの機会ですから、ご相伴に預かりましょう」
 同じ気配を返す。
 半蔵が歩み出す。
 かっきり三歩半蔵が進むのを数えてから、蒼月は踵を返してその後に従った。
                                   終

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