|
爆炎龍という技がある。 伊賀忍が操る火術の一つだ。 地に打ちつけた拳から吹き上がる一条の焔が、雲海を渡る龍の如く跳ねて敵を喰らう。 伊賀衆最強の忍、服部半蔵はこの技を得意としていた。 会得するのが極めて困難な「龍の返し」をも操る半蔵は、その息子勘蔵の憧れであり目標であった。 だが未だ、勘蔵は一度として爆炎龍を放ったことはない。必要な修練は積んでいる。「龍の返し」にはまだ遠いが、爆炎龍を放つだけの技量は備わっているはずだ。 それでも、試しにさえも、勘蔵は龍を放とうとしなかった。 東の山の端がうっすらと白く浮かび上がり始めた。夜が明け始めている。 今日は勘蔵には、里での仕事がある。そろそろ戻らねばならない。 だというのに勘蔵は、気に入り大樹の上でぼんやりと自分の右の手のひらを見つめていた。 開いた右の手のひらに、意識を凝らす。 ぼっ、と音を立て、小さな焔がそこに踊った。 朝日が訪い始めたとはいえ、地には闇が最後としがみつき、小さな焔の光もまだ眩しく感じられる。 本物の炎と変わらないその色は、朱だ。しかし揺らめく朱に時折、紅や赤が混じって濁りを見せる。 「…………」 勘蔵は無言で焔を握りつぶした。 「精神に生じる炎魂を放ち、飛翔させよ、か」 勘蔵達伊賀忍が操る火や水、風等を操る術は肉体に宿す気、つまりは命と魂の持つ力を具現化したものである。それは、彼らが操る術に、彼らそのものが映し出されることを意味している。 つまり焔の色が濁るというのは、術者の精神、または肉体に乱れや歪みがあることを示す。 精神ならば迷い、葛藤を抱えているのか。肉体ならば傷が受けたか、何処か病んでいるのか。 今の勘蔵の場合は、精神に理由があった。勘蔵自身も何が理由かよくわかっている。 ――……兄上…… 魔界の力で甦った天草四郎時貞が討たれてから、数ヶ月が過ぎ去った。 天草の魂の器にされていた勘蔵の兄、真蔵の肉体は解放された。私剣を振るい、一度は死を選ぼうとした半蔵も、里に戻れとの命を受け入れた。 しかし、未だ魂を魔界に囚われたままの真蔵が目を覚ますことはない。半蔵は任の合間合間に、真蔵の魂を取り戻す術を探し続けている。 勘蔵もまた、時間があれば兄を救う手だてを探している。 兄を案じてのことであり、父の助けとなりたいからでもある。同時にそれは、罪悪感に背を押されてのことでもあった。 ――兄上が天草に選ばれたのは……俺の所為かもしれない。 それは天草が討たれ、半蔵と真蔵が出羽に戻った頃から、勘蔵の心に刺さった小さな棘であった。 なぜ兄、真蔵が、天草の器とされたのか、器となったのか。真蔵が目を醒まさず、半蔵も、おそらくは半蔵から全てを聞いたはずの里長も何も言わぬ以上、他の誰にも真は分からない。 故に、というべきか。出羽の里人たちの間で秘やかにいくつもの推測が囁かれた。その幾つかを勘蔵も耳にしている。 曰く。 真蔵が島原の乱の折の天草と年が近く、また優れた力量を備えていたからだとか。 曰く。 服部半蔵の息子の肉体を奪うことで、幕府の秘部を探ろうとしたのだとか。 曰く。 真蔵自身が力を求め、天草に自らを差し出したのだとか。 いずれも、あくまでも里人達の推測である。それなりの根拠がそれぞれにあるだろうが、推測の域を出ない。 しかしそれでも、一つが、勘蔵の心に棘となって刺さった。 「……」 勘蔵は、ゆっくりと右手を開いた。意識を凝らせば、再び小さな火が踊る。闇は先程よりも薄れ、焔の光も先よりは弱くなって見える。だが色は、変わらない。 勘蔵が半蔵と同じ、火術の才があると知った時の真蔵を勘蔵は覚えている。 父と同じ鳶色をした兄の眼に、昏い色が焔の如く揺れていた。 羨望だったのか、嫉妬だったのか。生真面目な兄であったから、己自身への苛立ちや不満だったやもしれない。 だが勘蔵がその真を見とるより早く揺らめきは消えた。消えた後には、いつもの穏やかで優しい色だけが兄の眼にあった。その眼を向けて兄は、勘蔵に「良かったな」と言ってくれた。 真蔵は勘蔵が半蔵の焔に憧れていたことを、知っていたのだ。 勘蔵も知っていた。同じ憧れを兄も抱いていたことも、兄には火術の才はなかったことも。 故に、勘蔵は兄に何も答えられなかった。 故に、この時のことが里人の言葉を勘蔵の心に刺さる棘と、した。 「勘蔵」 「……!?」 不意に掛けられた声に、迷いの淵に足を踏み入れていた勘蔵は危うく枝から落ちそうになった。上がりかけた声を抑え込み、咄嗟に枝を掴んで体を支えるが、焔は消え失せてしまった。 ――今の声、父上……? どうにか体勢を立て直し、慌てて見回す。いつの間にか、周囲は随分明るくなってきていた。 だが見回しても――といっても木の上だが――半蔵の姿はない。声は近かったような気がするが、良く覚えていない。半蔵の気配を辿るのは、そもそも難しい…… 「……下だ」 「……あっ」 もう一度かけられた声には僅かに呆れた響きがあったのだが、慌てて枝から下りる勘蔵にはそこまで気付く余裕はなかった。 木の下にいた半蔵は忍装束を纏っていた。半月ほど前に任を受けて里を出ていたから、その帰りだろう。 「どうされたのですか?」 「山を下っていたら、お前の焔が見えた」 「俺の?」 声をかけられたときよりも、勘蔵は驚いていた。木の上で、しかも焔は手のひらに出しただけだ。そんな小さな焔に気付いただけではなく、勘蔵だと見抜く父の鋭さには驚くしかない。 「気術には、術者の魂が映る。それでいくらかは見分けがつく」 勘蔵の心意を見透かしたかの如く言った父の覆面の下の眼が、己の右手に向けられたのを勘蔵は感じた。 父の言ったことは、勘蔵も教わった記憶はある。だがそれはそれほど容易い物では無いとも聞いた。 ――やはり、父上はすごい…… 自分の右手に目を向け、勘蔵は感嘆したが、次の父の言葉に思考が止まった。 「勘蔵、爆炎龍を使わぬのか」 「……っ」 「任に出る前、里長から聞いた」 淡々と半蔵は言葉を続ける。 「不得手か」 「いえ」 「……好かぬか?」 「いえ」 勘蔵は、首を振るしかできない。火術はむしろ得意であるし、爆炎龍を好まないはずがない。 爆炎龍を使わない真の訳は、父には言えない。 「ならば、来い」 「え?」 怪訝に声を上げた勘蔵に構わず、半蔵は早足に歩き出す。 訳が分からないながらも、勘蔵は慌てて父を追った。 修練場の、的が並んだ一角まで歩むと半蔵は足を止め、肩越しに勘蔵を振り返る。 「父上?」 ――見ていろ。 半蔵は鳶色の眼で勘蔵に命じ、腕を振り上げた。真紅の巻布が、薄闇の中でさえ鮮やかに翻る。 「爆炎龍!」 低く鋭い声と共に打ち付けられた拳から、焔が噴き上がる。 跳ね、飛ぶ。 それは雲海を渡る龍の如く。 鮮烈な、濁りのない朱き焔。 勘蔵が、真蔵が憧れた焔の龍。 跳ねる焔は的に食らいつき、一瞬大きく燃え上がった。 混じりけのない朱が、焔が消え失せても残像となって目に焼き付く。 「…………」 勘蔵はただ、見惚れていた。父と共に任に出たことがない勘蔵は、こんなにも間近で父の爆炎龍を見るのは初めてだった。 焔は術者の魂そのものを映し出す。 半蔵の、父の繰る朱い焔は猛々しくも美しい。 父の焔は、恐ろしい。 ――……俺も、あんな風に…… 自然に勘蔵は拳を握っていた。朱い焔が一筋、勘蔵の右手に絡むように、走る。 ――だけど…… 「お前の番だ」 勘蔵に背を向けたまま、半蔵は言った。 「…………」 「精神に生じる己が炎魂を、解き放て」 父の低い声は、普段と何も変わらない。静かに、しかしはっきりと朝の薄闇に響く。 「父上、俺は……」 勘蔵の拳を握る力が、少し強くなる。 爆炎龍を放ちたいと思う。己の焔の龍を、父に見て欲しいと思う ――だけど……っ! また一筋、勘蔵の腕を焔が走る。脳裏には、目醒めぬ眠りにある兄の姿が浮かんでいた。 勘蔵が爆炎龍を打たずにいたとしても、兄が目醒めるはずもない。過去の災厄がなかったことになるはずもない。 それぐらい、勘蔵にも分かってはいる。 だがそれでも、自分と同じ憧れを抱き、憧れに決して手が届かなかった兄を思うと、勘蔵は爆炎龍を打てなくなる―― 「勘蔵」 父の声が、近付いていた。 「父上……」 「己の真を、見失うな。 己を偽りしことを、是とするな。 さもなくば、迷いと歪みを生む」 半蔵が右の手を胸の高さまで上げた。そこで開かれた手のひらに、焔が踊った。 濁りのない、澄んだ焔 「己すらも偽るが忍のならい。 なれど、真から目を逸らすな。偽りしことが正しきと思うな。 偽りしことを、蔑むな」 己の焔を見つめながら半蔵は、言う。 勘蔵もまた、父の焔を見つめ、思う。 ――だから、なのか? 己を偽ったとしても、それを是とせず、かといって蔑まず。己の真を見据える。 その覚悟があるからこそ、父の焔はあんなにも澄んでいるのか。父の龍は力強いのか。 天草の起こした災厄を目にして、対峙して、なお。 あの日、父は自らの命を絶とうとした。あの時の父の眼には、今まで勘蔵が見たこともなかった苦しみや悲しみがあった。 それらを父は乗り越えたのか、組み伏せたのか。それとも、未だ魂に抱えたままなのか。 勘蔵にはわからない。わかるのは、父の焔の在りようだけだ。 「勘蔵」 父が、己が焔を握りつぶす。 「己が迷いの由縁を、人に求めるな」 そう言った父の声が、微かに震えたように勘蔵は思った。 その様なこと、あり得るはずもなかったのだが。 「己が炎魂を解き放ち、龍としてみせよ」 父は再び、言った。 静かな声は、鋭く、有無を言わせぬ力強さがある。震えなど、無い。 任において命を下す時も、きっとそうなのだろうと勘蔵は思った。 一歩、二歩、前に出る。 「爆炎龍!」 何度も、頭の中では練習してきた。何度も、思いの中では放ってきた。 焔の龍が、飛ぶ。山の端から射し込んだ朝の白い光の中を、若駒の如くかける。 鮮やかな朱い焔には未だ、濁りはあった。 それでも焔の龍は力強く跳ねていた。父、半蔵と比べればまだまだ未熟だったが、勘蔵が思っている以上に、己の焔には力があった。 焔の龍は、藁束の的に喰らいつき、大きく燃え上がる。 「…………」 拳を地に打ち付けたまま、勘蔵は動かなかった。動けなかったのかもしれない。 胸が高鳴っていた。鼓動が早くなっていた。 これまでにないほど、気分が高揚している。 隠しようがない、抑えようがない。それは確かな感覚だった。 「…………」 一つ、二つ、半蔵が頷く。言葉はなかったが、勘蔵にはそれで十分だった。父の頷きが、勘蔵を解き放った。 昂ぶる気持ちのままに、勘蔵は地についていた腕を高く、掲げた。勘蔵の感情が迸るように、掲げた拳は焔を宿していた。 高揚の中でも勘蔵の心に刺さった棘は未だに存在している。きっとこの棘は、兄が目醒めなければ消えはすまい。 兄が目醒めたなら―― ――兄上、俺は、兄上と話がしたい。 どんなに話になるかはわからない。ひょっとしたら棘が刃になるかもしれない。それでも良かった。 爆炎龍を放ったように、己が魂をそのまま、兄にぶつけよう。 己の焔を見上げ、勘蔵はそう、思った。 |