江戸は四谷に、西念寺という寺がある。 文禄二年、徳川十六将の一人にして伊賀忍群が頭領であった服部半蔵正成の手により、開基された寺だ。 その本堂右側の角には、他の墓とは明らかに異なる墓が一つ。 その墓は、宝塔の形をした立派なものだった。 高さは、七尺はあるか。 墓の台座の正面には「安誉西念大禅定門」、側面には「三州住人服部石州五十五才」と刻まれている。 三州は三河、石州は石見のこと。「三州住人服部石州」とは「三河の服部石見守」、つまりこの墓は、西念寺を開基した服部半蔵正成本人のものであることを示している。 その、半蔵正成の墓に線香が二本、手向けられていた。 手向けたのは墓の前に佇む浪人姿の男――当代の服部半蔵であった。 半蔵は編笠を手に、瞑目している。 ――何故。 寺は、静かだ。 時折鳥の声が遠く聞こえるぐらいで、あとは風の音すらない。寺の者も半蔵に遠慮しているのか、人の気配も絶えてない。 線香は、既に半分ほど灰になっていた。 服部半蔵正成の墓――百と十年余りの時を経た墓は、徳川幕府初代将軍家康の股肱の臣にはふさわしく、忍には不釣り合いな立派な墓だ。これほどの墓を得た忍は、正成以外にはいないだろう。 それだけの功を成した忍であり、武将であった。 その、墓の主たる、そして己と同じ名の忍に、半蔵は一つの問いを繰り返していた。 ――何故に正成殿は、斬れなかった。 と。 天正七年、長月。 半蔵正成は傳役として仕えていた家康が長子、信康の切腹の場に立ち会った。信康の介錯を務めるためであった。 しかし鬼半蔵とまで謳われた半蔵正成が、信康に刃を振り下ろすことは出来なかったという。どころか、涙まで流したという。 二百年の時の向こうの話である。真偽は分からない。 ただ一つ確かなのは、正成が信康の菩提を弔うために寺を開基したことである。 その寺の後身こそ、今半蔵がいるこの西念寺であった。 ――何故。 半蔵は繰り返し、問い続ける。 なれど答えは戻るはずもない。死者は何も語らない。 それでも半蔵は問いを繰り返す。 答えが墓からは得られぬことも、どころか既に答えそのものも、知っていながら。 線香の灰が、己の重みで音もなく、崩れる。 半蔵の目がゆっくりと開いた。鳶色の眼に幽か、紅い色が揺らめく。 怒り。 憎悪。 重苦しいまでの自責の、念。 あの日より半蔵の内に在り続ける焔の紅。 「江戸にまで入り込むか」 左手を腰の刀にかけ、半蔵は言った。低い感情の無い声は、乾いて響いた。 その言葉が合図となったかのように、周囲の景色がぼうと、歪む。 半蔵の影が、長く伸びる。 伸びたそれがゆらりと立ち上がり膨れ上がり、半蔵とは異なる者の形を取った。 影に現れしは異相の衣を纏いし、妖しの若者。美しくも禍々しい、暗黒神の使徒。 幻影か、幽体か、今は陽炎のように朧な姿なれど、それは間違いなく甦りし怨霊、天草四郎時貞であった。 「クク……、クククク……」 天草は半蔵を見下ろし忍びやかに、しかし嘲りに満ちた声で嗤った。 「江戸こそは我が怨敵の本拠。我が訪うてなんの不思議があろう。 この地の見知った顔に、語りかけるになんの不思議があろう?」 覆い被さらんとするかの如く、天草は半蔵に顔を寄せる。 そして、囁く。 ゆらりと、線香の煙が大きく揺らめく。 鯉口が、鳴った。 「斬るか」 天草の眼が、ちらりと半蔵の左手に向いた。 「斬るであろうな。 我は幕府に災厄をもたらす者。『服部半蔵』たる汝が見逃すことはできぬよのう?」 半蔵の右手は、未だ剣に掛けられていない。 それを知りつつ、天草は執拗に半蔵を嘲弄する。 「汝は『服部半蔵』。 クク……たとえ我のこの身が」 半蔵の手から笠が落ちた。 「黙れ」 ひう、と。 乾きを増した声と、一際大きく揺れた眼の紅と共に、空が哭いた。 抜く手も見せずに、半蔵の白刃が天草を両断していた。 「斬ったな」 「されど」、と天草は嗤う。 「浅い……浅いぞ、半蔵……」 断たれた天草の身は燃える紙のように踊る。踊りながら薄れ、消えゆく。 だが天草の声だけは、鮮やかに響いた。 「これでは我を滅することはできぬ。 妖しの我が身に、間を見誤ったか? ……クク……それとも」 つっと、消えゆく天草の手が半蔵の頬を撫でた。 「汝が子の肉を器とせし我は、やはり斬れぬか?」 囁く声も眼差しも、奇妙に静かだった。嘲弄の欠片すら、そこには無かった。 天草の表情は、正成の墓前で問いを繰り返していた半蔵自身のものに、どこか似ていた。 半蔵も、天草も、気づくことはない。 ただ、無言の半蔵の肩が微かに、震える。 天草の唇が、笑みを含んだ。嘲弄とも、憐憫とも、歓喜とも見える笑みであった。 対称的なまでに、半蔵の表情は変わらない。 「クク……ククク……」 半蔵を残し、低く笑いながら天草の姿は、消えた。 半蔵は刃を収めると一つ、墓に頭を下げた。落ちた笠を拾い上げ、被る。 眼に現れていた紅は、今は失せていた。だが、半蔵の内からまでも消え失せたわけではない。埋み火の如く紅は半蔵の胸の奥に在り続ける。 笠の端を上げ、墓に今一度、目を向ける。 ――何故…… 返らぬ答え、既に知っている答えを求め、半蔵は問いかける。 ――斬れなかった。 墓から答えは戻らない。戻るはずもない。 死者が生者に語ることはない。 「…………」 やがて半蔵はきびすを返し、歩み去った。 紅と、問いと、胸に抱いたまま。 人気の失せた墓前で、燃え尽きた線香の最後の煙が流れていった。 |