伊賀の夏は、暑い。 盆地であるこの地は、夏の暑さを抱え込んでしまう。まだ日が昇って一刻と経っていないのに、むっとした暑さが大気に満ち満ちていた。 その暑い中を、黙々と里人達が田の草取りに励んでいる。老いも若きも男も女も、立場の違いもなく、並んで草取りに励んでいる。 その田の間の小道を、旅人と見える男が歩いていた。 里人の何人かは、顔を上げて男を見たが、すぐに皆、視線をはずす。 男の方も村人の視線に気を払うことなく、小道を進んでいく。 と。 男は足を止め、田の方に顔を向ける。 「伊織」 すいと顔を上げた一人が、声をかける。笠をかぶっていてもわかる、色白く美しい青年だ。 この人物が伊賀忍全てを統べるお屋形、伊賀の『御旗』、百地覚斗である。 「家で待っていろ。先代はすでにおこしだ」 「は」 男―伊織―伊賀の『鎧』、藤林伊織―が答えると、覚斗はまたすいと作業に戻る。 伊織もまた、顔を前に向けると歩みを再開した。 「ひとぉつ にいさま てんてんてん かぜをわたって てんてんてん ふたぁつ とうさま てんてんてん ひがまいおどって てんてんてん……」 伊織が百地の館に近づくにつれ、老人と子供達の声が、夏の風に乗って聞こえてくる。 館の庭で、隻腕の老人が幼い子供達の相手をして遊んでいる。片手で器用に、また華麗に手鞠を操り、子供達の感嘆の視線を受け、楽しげに笑っている。 子供達は知るまい。この老人が先代の服部半蔵であることなど。体は老いてもその技の冴えはいささかも鈍っておらぬことを。 「くわ」 館の屋根に止まっている、一羽の大鴉が一声、鳴いた。 「弥六殿」 ぽん。 庭の端からかけられた伊織の声に、老人は一際強く毬を突く。 応じて高く舞い上がった毬は宙でくるくると回る。 すとん。 そこが還る場所とはじめから知っていたように。 赤い毬は老人の手の中に、落ちた。 「さて」 くるりと子供達を見回し、老人は言った。 「子供達、儂はあの男と話があるさ。皆で遊びに行ってくるさ」 「…………」 不満そうに子供達は老人を見上げる。何人かはじっ、と伊織を睨んでいる。 「さ、行って来るさ」 「……はい」 それでも老人が微笑んで言うと、子供達は渋々その場を離れていった。しかし庭から出るときにはもう新しい遊びに気が行ってしまったのだろう、先を争って駆けていった。 「今だけの夢さね……」 毬を手に、弥六は呟いた。 伊賀忍の子らの多くは七つの年を迎えると同時に、忍としての修練に入る。その年になれば、それまではふつうの「子」として見られていた者達は「忍の子」となり、そのように扱われる。修練中の身であっても、必要とあれば任に赴くことになり、場合によってはそこで命を落とすこともあり得る。 しかし弥六の言葉は子供達を哀れむものでは、なかった。ただ当たり前の事実を確かめるように言葉にした、そのような風であった。 子供達の背が遠くなり、家の陰に消えると、ようやく弥六は伊織の方に顔を向ける。 「よう、来られたさ」 「先代殿のお召しとあれば」 「お召しとは大げささね。老人の我が儘に答えてくだされたこと、感謝いたしておりますさ」 神妙な様子で、深く頭を下げる。 「こたびの一件に関わることであります故」 その側へ歩み寄り、縁に腰をかける。 「さようさね」 「は」 伊織が頷くと、弥六はその隣に腰を下ろした。 「あれはそろそろ、近江に入ったころさね?」 「昨日関所を越えたと。今頃は長浜に」 伊織は笠を取り、脇に置く。 「そうさね」 「行かれなくて、よろしいのですか?」 「何故に、さ」 弥六は首を傾げた。自然に、心底不思議そうに。 「………」 そう言われては、伊織には問いを重ねることは出来ない。 「もう儂はいらぬさ」 先と同じように、ただ当たり前の事実を確かめるように、弥六は呟いた。だがそれでも、そのことを満足したような響きがあったのを伊織は確かに聞いた。 ――……弥六殿…もしや。 先代半蔵の鳶色の目を、じっと見つめる。深く底の見えないその色は、昔とまるで変わらない。 「必要な言伝は人に頼んであるさね」 伊織の視線をふわと受け止め、弥六は言葉を続ける。 「人、と申しますと」 「『鬼』を見た者さ。そうしてあれに近い者さね」 「近い……?」 「同じなれど違い、違えども同じ」 軽く節を回し、歌うように弥六は言った。 「そういう者さ……もっとも、あれよりは遠い位置ではあるさね」 「ほう」 伊織は頷き、それ以上問わなかった。 「遅くなった」 ちょうどその時、草取りから覚斗が戻ってきた。野良仕事用のなりのままであるが、手足はきれいに洗ってある。 するりと弥六は、毬を右の袂に落とした。 「伊織、まだ足を洗っていなかったのか」 「老人の相手をしておったさね。 どれ、儂が水を汲んで来るさ」 「いえ、後で構いませぬ」 首を振ったのは、伊織だ。 「ああ……だが、ここで話というわけにも」 覚斗は弥六に水を汲ませるわけにもいかず、かといってここで弥六と話をするには戸惑いがある。 「いえ、ここでよろしゅうございますよ」 困った様子で二人を見比べている覚斗に助け船を出したのは、弥六だ。改まった、だが穏やかさはそのままの口調で、そう言った。 「ならば、よいが」 「それでは、申し上げます」 弥六は覚斗の前で片膝をつき、頭を垂れる。静かに伊織は、覚斗の脇に控える。 「儂の知ることは半蔵様にお伝えいたしました。後は、報を待つのみと思いまする」 「さようか」 頷くお屋形、覚斗の口調はやや固い。先代半蔵を前に、緊張しているのである。 「はい」 弥六の語調はいつもと変わらない。 だが。 「お屋形様、並びに『鎧』殿」 言葉に続いた上げた顔は、普段は見せぬ真なるものを表に出していた。 「儂はこれで、ゆきまする」 「な……っ!?」 覚斗は息を呑む。 しかし伊織は、やはり、と胸の内で呟いたのみだった。 「しかし、今は……」 「過ぎた者の為すことは終わったさね。後は、今の者が為すことさ」 「……………」 「過ぎし刻に囚われし者は、過ぎた者にはどうにもならぬさね。 今の者が片を付け、皆、ゆくべきところにゆくのみさね」 ――それが何処か、知る者は無し…… ゆっくりと立ち上がり、二人に一つずつ、頭を下げる。 「これを」 赤い毬を、覚斗の手の上に、置く。 「『刀』には?」 当惑の表情で毬を見ながら、覚斗は言葉を口にする。 「あれは、知るさね」 「……知る」 「はい。あれも所詮、忍さね。故に言わずとも知るさね。 お屋形様、並びに『鎧』殿にご足労願ったは、けじめにございますさね。 ただの忍ならば、ただゆくも出来ようが、この身は……さね」 苦笑を一つ、浮かべる。 「………」 何も言えず、ただじっと覚斗は年老いた忍の目を見つめている。 弥六は優しく若い忍の目を見つめ返し、一つ、微笑んだ。 そしてもう一つ頭を下げ、くる、と踵を返す。 その背をじっと、覚斗は見つめいている。 「お屋形様、儂からも話がありまする」 その隣に並ぶように一歩前に出、伊織は言った。 「……ん、ああ」 「ここでは出来るものではありませぬので、上へ」 「……だが」 「ゆく者を見ていてはならぬ。ゆく者は、もはや無い者」 「……わかった」 頷き、ゆく者に背を向け、家へと入る。伊織は静かにその後に続いた。 ゆっくりと、老人は歩み去っていく。ひらひらと空の片袖を揺らして。 くわ、と一声鳴いて、鴉がその後を追った。 |