雲一つない夜明けだった。 しらじらと東から、空が明るくなっていく。 今日はおそらく、上天気になるだろう。 その、しかしまだほの暗い空の下、峠の道を駆けゆく男が、一人。 忍である。小柄だが、しなやかな獣のような体つきの身に墨染めの筒袖と伊賀袴を着、後ろ腰に忍刀を下げた姿で、走りゆく。 かなりの速さで走っているにも関わらず、足音はない。息の音もない。朝の静けさを破らず、ひた走る。 峠を、登りきる。 そこには、茶店が一軒、あった。 風に、赤い幟旗が揺れている。 童が一人、自分の身の丈ほどの竹箒で、店の前を掃いていた。 男はそれを認めると、走るのを止め、それでも早足に、静かに、童に歩み寄った。 童が、顔をあげ、手を止めた。 男は気配を完全に断ち、足音もさせていなかったのに、童は男を、見た。 幼い童に似合わぬ、厳しい目だと男は思う。まるで人に慣れぬ鷲か鷹の仔の様だと。 「はっとり、はんぞう、さま、か?」 妙に感情が乏しく硬い顔と声で、問う。 しかしはっきりした声だった。特に大きいと言うわけではないが、よく通る、力のある声だ。 「ここの子さね」 男は答えではなく問いを返し、歩み寄る。 「はんぞうさまか?」 男の近寄った分だけ後退り、答えは返さずに、童は問いを繰り返す。 ひた、とその目は男を見据えたままだ。 「……いかにも、そうさね」 「おれは、ここのこだ」 男―服部半蔵が頷くと、童も答えを返した。ほんの少し、表情が緩んだかのようだ。 「これ」 懐から書状を取り出し、半蔵に向かって突き出す。 その書状は、赤茶けたものに、汚れていた。 「おとうが」 半蔵が近寄って受け取ると、また、離れる。 ちらと中身を確認すると、半蔵はそれを懐にしまった。 「おとうは」 そう問いかけた途端、童の表情がまた硬くなる。 「日がでるまえに、しんだ」 それでも、それ以上の変化はなく、変わらぬ口調で答えた。 「そう、さね」 無念に、半蔵の表情が陰った。 「こっち」 くる、と背を向け、箒を引きずりながら、店の中へ入る。 半蔵は無言で、その後を追いかけ、ふと、気づいた。 童がまだ掃いていない部分に、点々と小さな足跡がある。 何度も何度も同じ動きを繰り返したらしい足跡。 薄暗い店の中には血臭が微かに漂っていた。朝の大気がいくらかは払ったようだが、まだかなり濃く残っている。 床や天井、壁のあちらこちらに、血が飛んだ痕があり、家の中はかなり荒されている。 そんな中、童の「おとう」は囲炉裏の脇に、横たえられていた。 衣も、その寝姿も、きちんと整えられている。 荒れた家とは違い整然としたその姿には、どことなく不思議な雰囲気があった。 「お主、さね」 店の中に入ったきり足を止め、身じろぎもしない童子に、問う。 「おかあと、おなじ」 前を見たまま、動かず、童は答えた。 その声にはやはり感情がない。 「ん?」 「おかあがしんだとき、おとうがした。だから、おなじにするのが、いいと、おもった」 「そうさね」 半蔵は板の間に上がると、横たわった男の死体の側に片膝をつき、手を合わせた。 男は伊賀衆の「草」だった。表の生活に溶け込み、ただ人の如く暮らしながら、忍の役割を果たす者であった。普段は世間の情報を集めることや、半蔵達影働きの者の手助けをしている。 仰向けに寝かされた男の死顔は、ほんの少し歪んでいるようだった。役目を果たしきれなかったことへの悔いか、それとも、一人残った我が子を案じたせいだろうか。 見た目、男の体に致命傷はなかった。 「せなか」 声に振り返れば、童は先と変わらぬ場所に、先と変わらぬ様子で、立っていた。 「せなか、きられた。だから」 確かに、男が横たえられた床には、どす黒いしみが広がっていた。 「おれのせいだ。おれの、せいだ」 かばったのだと、半蔵は思った。 あの書状を狙う者に襲われ、父親は戦い、この幼い我が子をかばい傷を受け、そして、死んだのだ。 この童はそれを、知っている。 「おとうが子を守るのは、当り前さね。 それに、遅れた儂が、何より悪い」 本来なら、半蔵は昨日の夕方にはここにいたはずだった。それが、手違いで遅れてしまった。 童は、首を振った。 口を真一文字に引き結んで、何度も、何度も。 初めて見せた、表情らしい表情だった。 「ここに来た奴はどうしたさね」 それが痛ましく、半蔵は土間に下り、また、問うた。 童の気を逸してやりたいと思う一方、この童が生きている理由が気になったのだ。忍は見たものを逃さない。たとえ童であっても。それにこの童は草の子だ。幼いとは言え、何を知っているのかわからないのだ。 「ころした」 やはり変わらぬ位置で立ったまま、童は変わらぬ感情のない声で、答えた。 「な、に?」 「おれが、ころした」 理解できず眉を寄せた半蔵に、童は繰り返して言う。 「こっち」 父親の元へ案内したときと全く同じ様子で、ようやく童は動いた。裏口の方へ、歩き出す。 半蔵はその後を、先と変わらぬ様子で、追う。ただ、顔には、先とは違う怪訝な表情があった。 裏口を出たところに、それは転がっていた。 すっかり明けた青い空の下、むしろをとりあえずかぶせられてはいるが、本当に無造作に、それらは転がされていた。 二つの死体。 「お主が、さね?」 まだ半信半疑の様子で、問う。 「よくおぼえていない。 でも、おれがころしたのは、ほんとうだ。ころした。こいつら、こいつらおとうをきったから、ころした」 答えた童の声と目には、幼子とは思えぬほど強烈な怒りと憎しみがあるのを、半蔵は感じ取った。 童が宿すには激しすぎる、感情。 その腕で、朱い何かが揺らめいた。 ――この童、火か。それもかなり強い。 「ころした」 半蔵を見上げる。 激しい感情を抱きつつも、いとけないこの童が、叱られるのを待っているように、半蔵には思えた。 「ころした。おれ、ころした」 睨むように見つめる童子の目は、確かに半蔵の言葉を待っている。 そしてその目の、怒りと憎しみの奥に、確かに悲しみがあるのが、見える。 「わかったさね。もう、いいさね」 近づく。 童は動かなかった。 その頭に、手をおく。 童の肩が、震えた。 ぷい、と顔を背ける。揺らめくものはそれにあわせたかのように、消える。 それを見取ると、半蔵はむしろを取り、死体を見た。 目は見開いたままだった。驚きとも困惑ともつかぬ表情を、二つの死体とも、浮かべていた。 「お主、やり方……戦い方は、知っていたさね」 それはもはや問いではなく、確認だった。 「おとうにならった」 店の前に残っていた足跡が脳裏に浮かんだ。 「店の前で、稽古したさね」 「つづけろと、しまいに、おとうはいった。ずっとずっとつづけろって。つよくなれって、いった。 だから」 「後を掃いたのはなぜさね」 問いながら、なおも半蔵は死体を見る。 どちらも、ほぼ一撃。人体急所の肝臓の辺りを突かれている。苦無が突き立ったままなのは、童の力では引き抜けなかったからか。 「みせだから。みせのまえは、きれいにする」 童はそう父親に教えられたのだろう。だがおそらくは稽古の跡を隠すため。 「そうさね」 むしろをかけると、立ち上がり、店へと足を向ける。 「どうするんだ」 どこかおびえたような響きに、立ち止まる。 「おとうを弔ってやるさね。あのままではならんさね」 振り返らずに、答えた。 童が無言で動くのが、わかった。 山の木々の向こうから、小鳥がさえずりあう声が聞こえて来る。 しかしそれ以外の音は殆どない。静かな朝だ。旅人達が行き交うにも、時間はまだ早い。この静けさはいましばらく続くだろう。 半蔵は童の父親の体を、店の裏の塚まで運んだ。そこは、童が言うには、去年病で死んだ母親の墓だという。 「となりが、いいさね」 半蔵の言葉に、童は感情を見せない顔で、頷いた。 だがその目は落ち着きなく、何度も物言わぬ父親を見、半蔵を見ていた。 半蔵は苦無で穴を掘り始めた。 しばらく見ていたが、黙って童はそれを手伝い始めた。もっとも、道具無しに小さな手で掘るのが、どれほどの助けになっているのかはわからないが。 黙々と二人は、穴を掘った。 やがて、十分な広さと深さの穴ができると、半蔵は穴の底に童の父親の体を横たえた。 そして、 「やだ」 穴を埋めようとしたその時、震える声が、出た。 「やだ」 小さな、土に汚れた手が、半蔵の腕を掴んでいる。 「やだ、やだ、やだ、やだ」 掴む手に力がこもり、次第に声が大きく、悲痛なものに変わっていく。 「やだ」 目にいっぱい、涙が浮かんでいた。 「やだ」 こぼれ落ちる。 「やだ、やだ、やだやだやだやだ………」 しゃくりあげ、何度も何度も頭を振りながら、掴んだ腕を揺さぶる。 ずっとかなしみを、泣くことを堪えていたのだろう。今も泣くまいと、涙を流しながらも泣くまいと、必死になっているのが伝わってくる。 半蔵は、そっと童を胸に抱いた。 父親が死んだのは自分のせいだと、この童は思っている。だから泣いてはいけないのだと、かなしんではいけないのだと、幼い心で思い定め、このようないとけない身で、自分の心を抑えつけている。それがひしひしと半蔵には感じられた。 「もういいさね、もう、いいさね」 軽くやさしく童の背をなでてやりながら、繰り返し囁く。 童は、大きく泣いた。 いままで抑えていたものを吐き出すように、声をあげ、泣きじゃくった。 半蔵は、ただ無言で童の背を撫で続けた。 童は存分に泣いた。 半蔵は存分に泣かせた。 鳥の声と、さやかにかける風が立てる音の中、童は、泣き続けた。 その声が少し、小さくなると、ぽん、ぽん、と軽く背をたたいてやってから、半蔵は身を離した。 「埋めるさね」 顔を拭いてやりながら、言う。 「やだ、けど……いい」 まだしゃくりあげながらも、童は答えた。 「そうさね」 頷くと、また、半蔵は童子の途切れぬ涙を拭った。 二人は、童の父親を葬った穴を、埋めた。埋めた後に、半蔵が見つけてきた石を置いた。 半蔵はまた膝をつき、手を合わせた。 童もまた、そのとなりで、小さな手を合わせた。 日差しは徐々にではあるが強さを増し、昼の世界を形作っていく。 その光が、半蔵と童の顔に、ふわりと落ちた。 それを合図に顔をあげると、半蔵は童に、言った。 「お主、儂と来るさね」 問いではない。命じるが如く強い口調である。 「え?」 まだ涙乾かぬ目に、驚きの色が浮かぶ。 「儂と来るさね」 この童はその小さな体に、大きな力と育つものを秘めている。だがそれを育ててやらねば、己の力によって壊れてしまう危険性をも持っている。 そうならぬように守ってやることが、間に合わなかった自分にできるせめてものことだと、半蔵は思ったのだ。 童は、半蔵を見た。 父親の墓を、見る。 もう一度、半蔵を。 「……いく」 頷いた。 その顔には、出会ったときの硬い、厳しいものはない。不安と哀しみに揺れながら、それから救ってくれる手を、ただ求めている目だった。 「稽古するさね。お主のおとうが言ったように、強くなるさね」 「うん」 こっくりと、頷く。ほっと、安心したように。 「ところで、お主の名は」 立ち上がり、童の頭に、手を置く。 「まだ、ない。 ななつになったら、おとうはくれるといった」 伊賀忍の子は通常、七歳になったら忍としての本格的な修行に入る。いうなれば七歳から伊賀忍としての生を歩み始める。それ故か伊賀者の中には、それまでは自分の子供に名をつけぬ者も多い。 「そうさね。 なら、儂が名をやるさね」 「まだおれ、ななつじゃない。いいのか」 「いいさね。名がないと困るさね」 にっこりと笑みを浮かべる。 「どんな名だ?」 期待に目が、輝く。力なかった目に、生気が戻ってきている。 「そう、さね……」 考えながら半蔵は立ち上がり、ぽん、と手を打つ。 「あれにするさ」 「あれ?」 「あれさね」 言って、半蔵が示したのは、上。 二人の頭上に広がる、澄んだ青い―― |