ちいさきもの


 春の風が吹く。
 ぬるくも心地よい風が吹く。
 風をぬい、日が下りる。
 ぐんと力強さを増した日が風を貫き、地に下りる。
 縁に置かれた寝篭の中の赤児の上に、優しく下りる。
 赤児はその光を掴もうとするように握ったままの手を伸ばし、ゆぅっくりと、振る。
 鳶色の目は宙を見つめ、何が楽しいのかにこにこと笑んでいる、ように見える。
 その様を、半蔵はじぃっと見つめていた。
 手入れの最中とおぼしき忍具を持ったままである。
「あー」
 赤児はいとけない声を上げ、こ、と手を合わせる。
 無意識にほんの僅か、半蔵は身を引いた。
 しかし赤児は半蔵のそのようなそぶりに気づいた風なく、こ、こ、と繰り返し繰り返し握りしめたままの手を合わせる。よく見れば、足ももぞもぞと動かしている。
 それを半蔵はやはりじっと見つめている。忍具はいつの間にか脇に置かれていた。
 この赤児は半蔵の子である。男の子だ。
 名はまだない。
 伊賀忍は七つまで子に名をつけぬこともままあるが、半蔵にそのつもりはない。まだ決めていないだけのことである。
 任を受け、里を出ている間に生まれた子に半蔵が初めて会ったのは、つい先刻のこと。
 随分と奇妙な感じを、半蔵はその時受けた。
 良しと悪しが入り交じった胸騒ぎ、とでもいうしかない感覚だった。
 それはまだ続いている。不快なものではない。だが、何か落ち着かない。
「あー、あー」
 ふぃ、と赤児は両手を大きく振った。
 その右の手を一見無造作に半蔵は掴んだ。実際は軽く手を押さえたといった形であるのだが。
 くる、と赤児の鳶色の目が動く。
 視線が合った、と半蔵は思った。
 だが、赤児は半蔵を見てはいまい。あくまでも半蔵の方に目が向いただけのような気がする。
 ごそごそと赤児の小さな手が、半蔵の大きな手の中で動く。振り払おうといった感じではないが、動かそうとしている。
 掴まれていない左手は、先ほどと変わらぬような違うような動きを繰り返している。右手を掴まれていることに頓着した風はない。
「どうなさいました?」
 かけられた声に、ぱ、と半蔵は赤児の手を離した。
 声にちらと目を向ければ、湯呑を乗せた盆を持った妻、楓がこちらを見ている。
「いや…」
 口ごもる夫の前に湯呑を楓は置いた。小さく、気づかれないように笑みを添えて。
 赤児はただ、無心に手を振っている。
 半蔵の目は既に赤児の上に戻っていた。楓が湯呑を置いたことすら知らぬように、じっと見入っている。
「あーうー」
 時折声を上げ、ゆっくりと動く。ただただ、動いている。
 そこには意味などない。動くこと、しかない。
 しかし意味がないが、動く。そういうものなのかもしれない。
 これは、それができるものなのかもしれない。
「不思議なものだ」
 赤児に視線を置いたまま、言葉を洩らす。
「不思議、ですか?」
 盆を脇に置きつつ、楓はすいと座った。
「小さい」
「赤さんですもの」
 にこにこと楓は楽しそうに笑んでいる。
「産まれたときは、もっともっと、小さかったのですよ」
「これよりもか?」
「はい。一回りは小さかったです。
 だから、ここから出てこられました」
 言って楓は、すっかり元に戻った自分の腹を撫でた。
 半蔵は何とも言えない表情でその様を見、赤児をまた見た。
 胸騒ぎが収まりかけ、また、膨らむ。
 そしてなぜか、耳が熱い。
「一日一日、大きくなっていきます」
「そうか」
「たぁー」
 赤児は小さな手を、見れば見るほどぎこちなく動かした。そこに何かがあるかのように、その何かと戯れるように、捕らえるかのように、手を、足を、体を動かす。
「よく動くものだ」
「赤さんですもの」
 楓は同じ答えを返し、ふっといたずらな、それでいてやさしい表情を浮かべた。
「抱いてみますか」
「ん?」
 半蔵の答えを待たずに、赤児を抱き上げる。
「首を支えてください」
「う、うむ」
 何を言う間もなく渡された赤児を、狼狽の色を見せながらも受け取る。
 ぎこちない抱き方であったが、赤児はむずかる様子も見せず、こ、こ、と手を打った。
 赤児は思ったよりもずしりと重い。首こそまだすわっていないものの、体には力があり、しっかりとしている。
 それが、腕の中にすっぽりと、いる。
 意外なほどしっくりと腕の中にいる赤児に戸惑いを隠せずにいながら、しかし赤児を見つめ、半蔵は言った。
「熱いな」
 熱いとも思うが、不快ではない温もりだ。それは腕を伝い、じんわりと胸にまで届くようだった。
「赤さんですから」
 楓はまた、ほぼ同じを答えを返した。
「そうだな」
 妻に頷き、赤児を抱き直す。恐る恐る、といったけぶりは見えたが、先ほどよりは落ち着いた手つきだ。
――赤さん、か。
 くる、と赤児の目が、己と同じ鳶色の目を見た。
「あ」
 声を上げる。
 小さな声は、確かに半蔵に向けられている。
「そうか」
 心の騒ぎが一つに収束し、確信と、もう一つのものに変わる。
「どうなさいました」
 微かな半蔵の表情の変化に気づき、楓が小首をかしげる。
 光を抱いた風が、その茶色がかった髪を揺らした。
「いや」
 小さく半蔵は首を振った。
 我が子の頬に、そっと触れる。
「名をつけねばならんと、思っただけだ」

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