海が広がっている。 晴れ渡った青い空の下に、陽光を受けてきらきらと光が踊る、海が広がっている。 山がある。 富士の山の黒い影が、海の上に浮かんでいる。 若者が一人、砂浜でそれらを見ていた。 少年というほど幼くなく、青年というにはまだ若い、そんな年である。肌は日に焼けて黒く、澄んだ黒い目は快活な意志を宿していると見えた。若者は藍の筒袖に伊賀袴、萌葱の羽織と頭巾、そして左の二の腕に紅の布を縛り付けた、かなり派手な姿をしていた。その傍らには幟を差したつづらがおいてある。塩を含んだ風にはためく幟には「妙技手妻玉ノ舞」と書いてある。 一見して旅の芸人とわかる若者は一人、砂浜に腰を下ろしてぼうっと海と山を眺めていた。 浜風が若者の頬を撫で、背後の松林がさわさわと枝葉を揺らす。 と。 その右腕が真横にすいと伸ばされた。 ぱ、と開かれた手が握られ、次に開いたときには指の間に一つずつ、四つの赤い玉が挟まっている。 「とりあえずこれで終わり。それとも、何か用かな」 海と山を見つめたまま若者は言い、手を戻した。赤い玉が一つずつ宙を舞い、若者の左手の内に吸い込まれる。 「旅芸人が、こんなところで何をしているかと、思った」 ぼそりと低く、若者の背後に立った男が答える。 年の頃は三十過ぎか。墨染めの上衣に、木賊色の裁っ着け袴姿である。上衣にも袴にも、篆書の文字がいくつか書かれている。頭はやはり墨染めの布で包み、丸い眼鏡をかけ、手には槍を携えている。 修羅場をくぐり抜けてきた男だと、その身に纏う雰囲気から感じられる。だがその眼鏡の奥の目には、癒しがたい疲労だけが、あった。 「見ての通りだ。海と、山を見ていた」 「朝から今までか」 男は若者の隣に、腰を下ろした。太陽はもう、天の頂に近い位置にある。 「そうだよ。俺は山育ちだからね。海は見慣れてないし、霊山を海から拝むのも初めてなんだ」 右手を胸の前で、ひらひらと動かしながら、若者は答えた。若者の手が動くたびに、魔法のように赤い玉が消えては現れ、現れては消えている。 「それを知ってるってことは、あんたも朝から俺を見てたってことか……そういや、そこの松林のところにいたっけ」 ぽん、と一つ赤玉が宙に跳ねた。 「ああ……」 「それは、暇だなぁ」 くすりと、若者は笑った。生気に満ちた明るく、強い笑顔だ。 男は眩しい物でも見るように、目を細くした。 「ま、旅芸人がこんなところでのんきに海を眺めていたら、ちょっとはおかしく思うよな」 近くに村もあるのにね、と付け加えながら右手の上の赤玉を袖の中に転がす。袖に消えた赤玉は、ひょこりと左手の中に姿を見せた。 「でもさ、旅から旅だと、なかなか海をゆっくり見ることもできないんだ。だから、今日は思い切ってのんびりしようって」 左手だけで五つの赤玉をお手玉する。鮮やかな赤が、海と空の青に映える。 「……お前は、何をしている」 若者の操る玉をじっと見ていた男が、またぼそりと言った。 「…………? 海と山を見てる。後、芸の練習」 怪訝そうな目を男に向けながらも、宙に舞う赤玉を、次々に左の指の間で受け止める。最後の一つは、手の甲の上でぴたりと受けた。 「そうでは、なく」 「…………………」 若者は左手の甲の上の玉を、ぽんと跳ね上げた。そしてくるりと左手を返す。ただそれだけの動きで、指の間にあった四つの赤玉はいずこかへ消えていた。丁度そこへ、投げ上げた赤玉が落ちてくる。 「旅から旅だよ。旅して、仕事して。そうしないと、生きていけないからね」 赤玉を受け止めると同時に、左手を握る。 「それだけか、それだけ、なのか?」 奇妙に強い口調で、男は言った。 「大体のところは」 「……そう、か……」 がっかりした響きを、若者は聞いたような気がした。 握っていた左手を開く。先ほど握ったはずの赤玉の姿はない。 空の手を、握り、開き、また握り、開く。 「……追いかけてる人がいる」 左手をすとんと膝の上に落とすと、海と空の丁度境目を、真っ直ぐに若者は見た。二つの青の境界線が、真っ直ぐに引かれた、そこを。 「ずうっと、俺達の前を走り続けてる人がいるんだ。俺の、ずっと前を、ただひたすら走る人。俺はその人に追いつきたいって、ずっとずっと思って、願って、そして、走ってる」 若者の右手が、その左腕に巻かれた紅の布の上に置かれたのを、男は見た。 「追いつきたいっていうのは、ちょっと違うかな。俺はその人の顔が見たいんだ。その人はただ走って、走って、後ろにいる俺たちの方に振り返ってなんかくれないから。だから、さ、その人のところまで行って、顔を見たいんだ」 「顔を?」 「知りたい。前を走るということがどんなものなのか。どんな気持ちで走っているのか。 それを、俺は知りたい」 「……………………」 「ずっと前を走ってるし、走るのが速い人だから、そう簡単には追いつけないだろうけど。でも、いつか必ず、顔を見てやるんだ…」 熱っぽい口調で語っていた若者は、ほんの少しだけ照れくさそうに、しかしとても真剣な眼差しを男に向け……首を傾げた。 男の顔に浮かんだ『歪み』に。 その『歪み』が男のどういった感情から表れたのものなのか、若者にはわからなかった。それを知るには若者は若く、ある意味、強く、ある意味、無知であったから。 ただ感じたのは、『苦痛』だった。自分の言葉が、あるいは自分の何かが、この男を苦しめたと直感的に感じ取るのが、精一杯だった。 「おい……大丈夫、か?」 「ん……? ああ……なんでも、ない」 男は力無く首を振った。 それらが全て偽りだということは若者もわかったが、だからといって何かが言えるわけでもなく、また、それ以上の言葉をかけるのははばかられ、黙っているしかなかった。 波音が不意に、意識される。繰り返し繰り返し、飽きもせず寄せては返す波の音…… 「もし」 「……ん?」 この状態をどうするか考え込んでいた若者は、耳に入った低い声に顔を上げた。 「もし、そこに着いたとき、追うものを捕らえたとき、それが幻だったら、どうする。追うものの顔など、なかったらどうする」 「んー…………」 左腕の紅い布をちら、と見、若者は困った表情を浮かべた。 「それは……考えたことがなかったなぁ………」 でも。 「でもさ」 と、明るく強い輝きをその黒い目に宿し、若者は言った。 「でもそれは、追いついてみないと、わからないよな」 「……………!」 「追いついて、前に回って、そこでやっとわかる。 それで俺が追うものが幻とわかったら、俺はそれでいい。追うものが何かって、わかることができるわけだし、別にそれで終わりってわけでもないし」 「……そう、か」 「ああ。それに、そこまで走ったということは、俺が知っている。俺はそこまで行った、それだけのことをしたってことを。 ……まだ辿り着いてもいないのに、こんなこと言うのは変だけどな……」 自分の言葉への照れが混じった苦笑を、若者は口元に乗せた。 「だから、たぶん、俺は気にしないと思う」 「そうか」 「ああ」 男はもう一度、そうか、と口の中で呟き、若者を見た。変わらぬ、濃い疲労を宿した目で。 だが若者はそこに、何かあたたかいものがあったような気がした。見たわけではなく、感じた、と言い切れるほどでもなかったのだが、そうだったように、思った。 ぽん、と軽く、若者は赤玉を飛ばした。 それは高い弧を描いて男の方へ飛び、見事にその膝の上に落ちた。 落ちた音と同時に、若者は立ち上がる。 「じゃあ、そろそろ俺は行くよ。あまりさぼってるわけにもいかないから」 「………そうか」 男は膝の上の赤玉を取る。 「それは、やるよ」 「もらっておこう」 「それじゃ」 「待て」 ひょいとつづらを担いだ若者を、男は見上げた。 「ん?」 「お前の……いや……いい。気をつけてな」 首を振り、視線を男は若者から逸らす。 「勘蔵っていうんだ。赤玉使いの勘蔵ってね」 それを追うような言葉に、男ははっと視線を戻した。 若いが強く迷いない意志を宿した黒い目が、笑っていた。 「あんたは?」 「……八角、泰山」 「八角……さんか。へぇ。 八角さん、ありがとう。あんたも気をつけて」 軽く手を上げると、勘蔵は早足に歩んでいく。 その姿が、松林の向こうに消えるまで八角は見つめていた。 目を、赤玉を持った左の手に向ける。 手を握り、開く。 赤玉は、そこにある。 八角の口の端が、かすかに、歪んだ。 |