島の片隅に、その小さな森はあった。 人の世において、「力」がもたらす負の部分だけを集めたようなこの島において、そこだけが常に静けさを宿していた。 誰が決めたというわけではない。誰が命じたというわけでもない。 それでも島の者達はその森に近づかず、その森の静けさを破壊しようとはしなかった。 島に生きる人間全ての、『たいせつなもの』がそこにあるかのように。 だから、森に小さな泉があることを知る者は、ほとんどいなかった。 ぱしゃり 泉の水が、小さな波音をあげた。 天の頂きに、半分の月が輝く夜のことだ。 泉の静けさを破ったのは、一人の女だった。 月明かりでも、いや月明かりだからこそしかとわかる、抜けるような白い肌の、裸身の女。 だがそのさらりとした髪は銀色で、悲しみを宿した大きな瞳は赤く、この世の者とは思えぬ容姿の女であった。 女は泉に足を踏み入れると、そのままするすると泉の中央まで進んだ。女が一歩足を進めるたびに、小さな波が走り、岸に寄せてはぱしゃりぱしゃりと静けさを震わせていた。その様が、この女が現世にある者だと秘やかに示している。 泉の中央まで来ると、女は沐浴を始めた。 水が、玉となり、流れとなって女の体を滑り落ち、月の光にきらめきながら泉に還る。 女の名は「命」という。この島を支配する覇業三刃衆の一人だ。 どれぐらいの間、そうしていたか……命はふと、顔を岸辺に向けた。 そこには脱ぎ捨てられた命の衣があり、命の細い腕には不似合いな巨大な剣が地に突き立っている。その向こうには、木々が作り出した、月の光の届かぬ闇がひっそりと、在るのみだ。 「誰……?」 その闇に悲しげな眼差しを向け、命は呟いた。森を包む静けさを破ることのない、吐息のような、囁きのような声だ。 ………………………… 答えは、ない。 だが微かに何かが変わったのを、命は知った。 白い裸身が、小さく震える。己の内で、「己」が蠢く。 ――……ああ…… 「私」は感じ取っている。争いを、血の匂いの予兆を……でも…… 「……誰かえ?」 再びの問いを口にした命の赤い瞳には、妖しい輝きが宿っていた。声にも艶と禍々しさが宿り、静かな森に容赦なく響いた。 「……いやっ……」 首を振る。悲しみの色が赤を震わす。 心が変わる。己の闇が己を奪う。 ――いや……やめて……私を私から奪わないで……… ――うるさいっ! 「貴様は引っ込んでおれっ!」 その一喝に、命はがくりと首をうなだれた。 「………ほう………」 男の声が、風のごとく月の光の下に流れる。 「覇業三刃衆が一人、か……」 ――しかし、これは。 『命』はゆっくりと、蛇のように頭をもたげた。赤い目は大きく開かれ、口元にはとろけるような笑みがあり、その身からは妖気が放たれている。 「……幕府の犬か。この森に入ってくるとは恐れを知らぬことよ」 「島の者が近づかぬ故、潜んでおるのに丁度よいと思ったが……よもや、巫女が通う場所とはな。迂闊であった」 その言葉と共に、男は白い光の下に姿を現した。 いや、現したと言ってよいのか。男は濃い藍の忍装束を纏い、顔も頭巾と覆面の下に隠されている。その身は皓々とした月光の下にあってさえ、背後に広がる森の闇に溶け込むようで、男の「かたち」を見取ることは難しい。 「それで、いつから見ておった? 幕府の犬は、女の裸を覗き見るのが仕事かや?」 楽しそうに、嫐る目つきを『命』は忍に向ける。 「……いいや」 眩しいまでの命の裸身を前にしながらも、忍の声には何の感情も感じられない。 「ククククク……闇にある者でありながら、ずいぶんと初心なことよ。 構わぬぞえ、存分に妾のこの美しい身を眺めても。貴様が最後に見る、女になるのだからのう……」 言いながら『命』は手を岸へと伸ばす。その手は次の瞬間には、岸辺にあったはずの巨大な剣を握っていた。 「……………………」 『命』の手にある剣など、まるで知らぬ風に、忍はその目を見据えた。 白い月光の中で、妖しく輝く赤い目。邪気を孕んだ、魔性の目。しかし、同じそこにあった悲しみを、忍は見ていた。 ――……ただ、一度、ならば。 大海に小石を投げるにすぎないかもしれない。だが、何もしないままでいることは、できなかった。 闇を抱く者の苦しみを、忍は知り抜いていたから。 女の頭上に、半分だけ光り輝く月が見える。闇に半身を沈めながらも、清浄な光を放つ円が見える。 ――あの月のため……ということにでも、するか…… 「武器を取らぬかや? この哭麟、玩具ではないぞえ」 ただじっと自分を見つめるだけの忍に、『命』はわずかな不審を感じながらも、嘲りの言葉を投げる。 「下がれ」 「何?」 「下がれ、と言った」 忍の声に、意志が宿った。 それは、戦意ではなく、殺意でもない。害意でも、敵意でもない。 祈りを捧げる神官のような荘重な、強い意志であった。 「闇の者よ。主に用はない。下がれっ!」 ……どんっ 目に見えぬ何かが、『命』を打った。 「……な、なに……? 妾が…抑え………」 ――強い……力……知って、いる……? 驚愕に顔を歪めながら、『命』は水に倒れた。 半分の月が、天に見えた。 白く光り輝く半分。 光放たぬ闇の半分。 ――……まあるい、お月様…… 半分の月、ではない。いつだって月は丸いのだ。どうしてかはわからないけれど、日によって輝く部分が変わるだけ…… 育ての親の一人である、酒好きの剣士が教えてくれた。 『よぉく見てみろ、見えるだろう、こう、まるぅく、黒い部分がな。月はいつだって丸いんだ。見え方は変わっても、いつだってまぁるい。どんな風に見えたとしても、月は月だ。人が言うほど、変わりゃしないもんだ。丸く光ろうが、欠けて光ろうが、月は丸い。肝心要なところは、そうそうかわらねぇ。そういうもんだ』 ――おじさま…… 懐かしい人の顔が心に浮かぶ。だがそれは、もう取り戻せないあの日のこと…… ――私は…… 「昔から、月は人の心に喩えられると言うが……」 聞こえた男の声に、命は首を動かした。 ――…………! 先ほどの忍がいた。草の上に腰を下ろし、天を見上げている。 自分はその隣で寝かされていたことを命は知った。とりあえず衣は着せられている。 「こうして見ていると、全くその通りだという気がする」 思いもしない状況に、命は呆然と忍を見つめた。先のもう一人の自分と対峙していた時の―体は奪われていても、もう一人の自分が何をしているのかを全て命は知っている―忍とは雰囲気が大きく違う。無感情ではなく、遠い存在でもなく、不思議な暖かみが、その奥底に感じられる。 「闇の部分は眠ったか。……うまくいって、よかった」 頭巾と覆面をつけたまま、素顔を隠したまま、視線を忍は命に向けた。 隠されている上に、夜闇の中では忍の顔はまるで見えないけれども、優しい目をしていると、命は感じた。 遠いあの日々を共に過ごした人達と同じ、優しい目をしていると。 「あなた、は……?」 命は体を起こした。 「敵だ」 今の優しい目が嘘のように、感情のない言葉が跳ね返る。 「そうではなく……貴方は、何故、私を助けてくださったのですか? 私は貴方の敵だというのに」 「………本来なら、すぐに討つところだ。だが…… だが、昔の己を見るようで、放っておけなくなってしまった」 ふうっと風が吹いたように命は感じ、この忍が笑ったのだと、知った。少し苦いものを含んだ笑みを浮かべたのだと。 「昔の、貴方、ですか?」 「………………」 答えず、ゆっくりと忍は立ち上がった。 そして、命を見下ろした。 「あなた……は……!」 自分の内に潜むモノと同じか、とても近いモノを、命はそこに見た。 妖しの気を纏い、深い憎悪と悲しみに顔を歪めた美しい青年の姿が、忍に重なって見えた。その向こうには、人の世でいう闇ではない、現世と対する位置にある、『闇』が、在る。 「かつて、己が弱き心の為、魔に囚われたこの身と魂……それが何をもたらすか、私は知っている」 薄く目を閉じ、忍は拳を強く握りしめた。あれだけの犠牲を受けながらも、未だに内なる闇は残っている。何がそれを残したかも、己は知っている。 それでも、己は生きている。 「でも……貴方は、私とは違う…私は貴方のように強くない…。貴方のようには越えられない! 私はいっそ、この体を引き裂いてしまいたい……」 「ならば、そうすればいい」 「……え?」 「死ねば全て終わる。楽になれる。己を止めるに、一番良い方法だ。 私が殺してやってもいい。そうすれば、私も役目が果たせる」 ととん、と軽く忍は飛びすさった。 背に負うた刀に、手をかける。 「……私…わたくし、は…………」 そうだ。確かにそうすれば全てが終わる。そうすれば「私」は「私」に苦しめられることは、ない……もう、血に染まった光景を見ずにすむ……そう…… ――……でも。 赤い目の男の顔が、胸をよぎる。 赤い目をした、二つの男の顔。 惹かれてやまぬあの人と、記憶の底にある漆黒の影。 全てを捧げても力になりたいと願う人と、己との関わりを知りたいと願う存在と。 「私は…私は……」 「できないか」 忍は刀から手を離すと、腕を組んだ。 「わかりません……。この呪わしい身も魂も、失せてしまえばいい……でも、でも……」 つうっと、命の頬を澄んだ涙が一筋、流れ落ちた。 「それでも……だ。そういうものなのだよ」 忍はまた、月を見た。月は丁度、娘の後ろの天で輝き、闇を抱いている。闇をどれほど疎んでも、忌まわしく思っても、闇を抱くことからは決して逃れられない、月を見るたびにそう思う。 「娘よ、闇の己は忌まわしかろう。恐ろしかろう。なれど、それもまた己であることを知れ。決して逃れることはできず、永久に共にあるものと」 しゅるりと風が吹いた。 森の闇より静かに流れいでたそれは、忍の周りで渦を巻く。 「娘よ、覚えておくがいい。何人もお主を救うことはできない。どれほどの言葉も、どれほどの犠牲も、真にお主を救うことはできない。闇の己を知る者ができることはただ、己が力で立ち上がること……それがどれほどに叶わぬと思えても……」 声は風の中に遠くなり、忍の姿は闇に消えた。 まるで初めからいなかったかのように、何の痕跡も残さず。 「誰も、私を救えない……私は私の力で……」 命は、地に突き立っていた巨大な剣を、取った。 それは、絶望的なことだと思えた。日増しに力をつけていく闇に抗するなど…… だが、命は自分の心の内の望みも、知った。 「私に……」 命は、振り返った。 「私に、できるでしょうか……」 吐息のような命の言葉を聞いたのは、半分の月。 光と闇に分かれ、輝きを放つ月。 それでも、それは一つの月。 |