くわ、くわ、と鴉が鳴く。 連れ立って三羽、赤く染まった空をねぐらへ帰っていく。 ぎぃんっ 「くわっ!」 彼らの真下から響いた剣戟の響きに、鴉達は驚いたように大きく羽ばたき、飛ぶ速度を上げる。それでも三羽は連れ立って空を行く。 「……くっ」 絶対の……とまではいかないが、自信のあった一撃を軽く受け止められ、勘蔵は表情を歪めた。しかし歪めながらも刃を翻し、斬り上げる。 「遅い」 ぼそり、と呟き身を捻る。 「わっ」 それだけで勘蔵は体の釣り合いを崩し、倒れかかる。その腕がぐいと引かれ、ぐるりと風景が回った。 ――……っ! 背中から地に叩き付けられ、一瞬呼吸が止まる。見開かれた目に、振り下ろされる刃が映る。 ――死んだ、な。 妙に冷めた頭で考えながらも、わずかに頭を動かす。 とすっ 射抜くような殺気を宿した刃は、勘蔵の首のすぐ側に突き立った。 「それ」を支点にし、ぐおんと影が飛んだ。真紅の尾が、長く引かれる…… 自分の上を飛ぶ影の目が、勘蔵には見えた。 弾指の間、それは勘蔵の目を見ていたが、すぐについと『次』に向けられる。 そこには刃を振るう白い影―兄、真蔵の姿。 ききぃんっ 影が放った手裏剣を、真蔵はとっさに刀ではじき返す。 ――やはり、無理かっ! 刀を返し、投じる。 地を蹴って影がそれを躱わしたところへ、三つ、手裏剣を打つ。 狙い過たず、それらは跳んだ影の体に突き立っ…… ――違う……!? 確かに手裏剣は何かに突き立った……が、影にではない。しかしそれに気づいた時には既に真蔵の背後に影は、いた。 一呼吸吸う間もなく首に腕が回される。無造作に回しているようなのに、はずすことが出来ない。 「う……く……」 息が詰まりかけたところで、不意に腕がはずされた。 「ここまで」 低い声が、終わりを告げる。 「……は」 がっかりと真蔵と勘蔵は頷き、影―服部半蔵を見上げた。 半蔵は突き立ったままの刀を地面から抜くと、二人の若い忍を見据えた。 「真蔵は狙いが甘い」 立木に突き立った三本の手裏剣を示す。 「動きを止めようなどと考えるな」 真蔵が打った手裏剣は、半蔵の左側の足、腰、肩を狙っていた。当たっていれば動きを止められただろうが、致命傷まではいたらない。 「……はい」 「勘蔵は一呼吸動きが遅れている。 今少し気を張ることだ」 「はい」 半蔵の視線をまっすぐに受け止めながらも、真蔵は唇を噛み、勘蔵は拳を握りしめている。感情を表に出してはならないとわかっていても、敵わないことがそれぞれに悔しいのだ。 目の前にいるのが、伊賀衆最強の忍、服部半蔵と知っていても、なお。 「二人ともいま少し、考えて当たれ」 その感情を見取りながらも、半蔵はそれだけしか言わなかった。 刀を真蔵に返す。 「以上だ。今日は戻れ」 「はい。 しかし……」 真蔵と勘蔵の視線が、同じ方を向く。 くわ、くわと帰る鴉の声が、天から聞こえる。 「構わぬ。行け」 「……はっ」 真蔵はすぐに頷いたが、勘蔵は気に入らないらしく、視線を止めたまま動かない。 「勘蔵、行くぞ」 「……はい」 それでも兄に言われ、渋々視線を外す。 そして若い忍二人は、獣道と変わらぬ細い山道を里へと下っていった。 その気配を追いながら半蔵は腕を組むと、二人が見ていた方にようやく目を向ける。 ――……………………… 一時空を支配した赤に、影が差し始めた。 「出てきたらどうか」 二人の気配が完全に消えたのを確認し、半蔵は口を開いた。 「気づいていたか」 がさがさと藪をかき分け、隻眼の侍が一人、姿を現す。将軍家剣術指南役にして公儀隠密の、柳生十兵衛である。 「あれらも」 「忍から隠れ通すは、やはり難しい」 「……………………」 けろりとした十兵衛の言葉を、冷ややかに、かつあきれ気味に半蔵は聞いた。 この男ほどの達人なれば、完全に気を断ち、忍の目からも逃れることは出来る。それを敢えてしなかったのは、単にその気がなかっただけに違いない。 「……下で待っておればよいものを」 ぼそり、と呟く。 「少し急ぎの用でな。それに、お主が人に物を教える様子など、滅多に見られぬ」 「おもしろい物でもなかろうに」 どこか憮然としたその口調に、くくっ、と十兵衛は低く笑った。 「いや、十分に見物であった。息子御達、腕を上げたな」 「二人とも死んでいる」 「そう言うな。お主相手では誰でも死人よ」 ついたしなめる口調になった十兵衛の言葉に、僅かに半蔵は、視線を落とした。 「……任に出れば、何が相手となるかなどわからぬ。将軍家剣術指南役殿さえも、敵に回すやもしれぬ」 「恐ろしいことを言う。伊賀忍を敵に回すようなこと、儂はせぬぞ」 苦笑いを浮かべながら、十兵衛は腕を組んだ。だがその目は笑っておらず、ひたと半蔵を見据えている。 「……物の例えだ」 半蔵は目を上げ、その視線を受け止めた。感情を抑えた鳶色の目に僅かに、鋭い光が宿る。 「ならばもっとましな例えをせよ。肝が冷えたわ」 「それはすまぬ」 目の光が和らぎ、そう言いつつも、半蔵の言葉からは感情は感じられない。決して「それ」を戯れ言で言ったわけではないのだから当然のことやもしれない。また、十兵衛もそれをわかってはいる、が。 ――……もう少し言い様はあろうに。 十兵衛は一つ息を抜くと、今度ははっきりと苦笑して、言った。 「しかしあの二人の腕なら、滅多な者には遅れは取らぬだろう。少しは褒めてやったらどうだ」 何を言うのか、と問うように半蔵は十兵衛を見た。 じつと無言で、十兵衛は半蔵の答を待っている。 ややあって、つ、と視線を先ほど真蔵と勘蔵が下っていった道に、向ける。 「あれらは……儂の前を、先へ行こう行こうと駆けている。褒めればいたずらに先にゆき、道を見失うやもしれぬ。故に、抑えねばならん」 「それが半蔵殿の役目と」 僅かに眉を十兵衛は寄せた。 「儂の役目だ。 儂は先へ進む者を追い、後ろから道を示す。『服部半蔵』は、先に……遙か先に、在る」 半蔵の視線の先に在る道は、よくよく見ねばそれと分からぬ程度のものだ。そこをたどっていった若い忍達はもう、里に着いた頃だろう。 「ならばなおのこと、お主がたまには褒めてやらねば、動けなくなるのではないかな」 「……確かに」 呟いた半蔵の目が細くなった。それが想いを何かに馳せたからなのか、それとも己の心を隠そうとしたからなのか、十兵衛にはわからなかったのだが。 だが、その鳶色の眼に影が差したように、十兵衛には思えた。 「……それで、用は何か?」 しかしすぐに目を開き、半蔵は問うた。表情にこそ現れていないが、やや早口の口調は今まで口にしたことを恥じているかのようにも取れ、十兵衛はニヤリと笑んだ。 笑みの理由は、もう一つ。 「では里に戻るとしよう。 やはり里長殿も交えねばならんしな」 「……………」 何も言う気が起きず、半蔵は頷きだけを返して足早に歩き始める。 先に我が子二人が下っていった、里への道を。 「待たぬか、こら、儂を置いていくな」 慌てて十兵衛はその後を追った。 一番星が輝き始めた空に、鴉の姿はもう、無かった。 |