そよそよと軽く戯れるように吹く風に、ゆらゆらと菜の花の群がその頭を揺らしている。
 縮緬のような葉の上の花の頭も、小さな黄色の花の群が形作っている。
 揺れる花の群に、時折虫が止まる。
 それはぶんぶんと唸る蜂であったり、ひらひらと舞う白い蝶であった。それらは花から蜜を吸い、しばらく羽を休めるとまた次の花へ移り、あるいは何処かへ飛び去っていく。
 その光景を、勘蔵は一人、見ていた。
 柿渋染めの伊賀袴と筒袖を着た上に、藍色の羽織を羽織り、木賊(とくさ)の頭巾をかぶったいつもの芸人姿である。左腕に真紅の布が縛りつけてあり、背には幟を指した葛篭を背負っている。
 また一匹、ぶぅんと蜂が花から飛び立った。
 様子を見るようにくるくると何度か孤を描いた後、ふい、とある方向へ向かって、飛ぶ。
 そんな風に飛ぶ蜂は、巣へ帰るのだ。
 と、教わったことを、勘蔵は思い出した。
――あんな小さいのに、帰る場所がわかるんだよな。
 たいしたものだ、と感心し、赤玉を一つ左手から真上に投げた。
 赤玉は細く長い孤を描きながら飛び、やがてある一点で止まり、落ちる。
 其の瞬間にもう一つ、同じく左手から赤玉を投げ上げる。
 黄色い花の群を赤玉の向こうに見ながら、一つ、また一つと受け止め、投げ上げる赤玉を増やしていく。
――……静かだな。
 菜の花の群からその向こうに、ぽつん、ぽつんと見える家屋に目をやる。
 ここからでも、それらの家の戸が開け放たれたままであったり、茅葺きの屋根がいたんでいるのが見える。
 人気もない。つまり、廃村である。
 流行病か、野盗に襲われたか、あるいは他に何か理由があったのか。それを勘蔵は知らず、知る理由も必要もなかった。
――棄てられてからそうは経ってはいないようだが。
 花の群の乱れない列に、この村が住む者を失った時を計る。長くて、二月だろう。
 しかし列に植えられていながらもこの花は、奔放に咲いているように、見える。それは頭部に戴いた「群」の花の所為にも、目に眩しいほどの明るい花の黄色の所為にも思える……
 ふと、空を見上げる。
 抜けるような広く澄んだ青空に赤玉が舞う。視界の端には、賑やかに広がる、黄。
――春だなぁ。
 故郷、出羽は、まだ雪解けが始まったばかりだ。それにこんなにも広い春は出羽にはない。
 近くに蜂の羽音が、高くにヒバリが忙しくさえずる声が耳に響く。
 勘蔵の目の前をまた一匹、巣に帰る蜂が飛んでいく。

『迷ったりしないのかな?』
『蜂は蜂だ。迷うものか』
『?』
『迷うのは、考えるからだ。
 蜂は迷えるほど、物を考えはしない』

『蜂は、蜂だ』
 久延彦はそう、繰り返した。

 緩みかけていた勘蔵の口元が、真一文字に結ばれる。
 蜂のことを教えてくれた参の組頭、久延彦が抜けたのは一月ほど前のことだ。突然のことであり、そのような気配は微塵も感じさせなかった。
 久延彦は組頭であり、忠実にその役目を果たしてきた。些か独断に走るところが有りはしたが、掟に背くことはなかった。故にその行動の唐突さもあり、久延彦が抜けたという事実に里の者が気づいて受け入れるまで、二日を要した。
 しかし気づいた後の動きは早い。すぐさま始末の為の追手が向けられた。
 追手は、久延彦配下だった参の組の者達。頭の不始末は組の者の不始末。その決着は己でつけろということである。
 勘蔵も、参の組だった。
 久延彦探索に出て、半月。だが、その消息はまだ何もつかめていない。気づくのに遅れたこと、相手が手練の忍であることが原因だ。この任が困難であること、そして何の意味のない不毛なものであることは皆、始めからわかっていた。
 それでも諦めるわけにはいかない。例え何者であっても「抜ける」ことは許されないのだ。
――何者であっても……か。
 ちらりと左腕の紅い布きれに目を向け、それから天を仰ぐ。太陽は中天から西へ傾き始めている。
――そろそろ、だな。
 これまでの状況を報告するための繋ぎが来る頃だ。それまでの暇つぶしのお手玉を続けながら、何とはなしに周囲の気配を勘蔵は探った。
「!」
 ぼとぼとぼとと赤玉が地に落ちる。
 蜂の羽音の向こうに、この場には異質な、だがよく知った気配が一つ。微かだが、確かに捕らえた。
 落ちた赤玉の代わりのように勘蔵は『風切り』を天に投げ上げる。繋ぎの相手が近くまで来ていることを願いながら。
 だが実際は間に合わないことを知っている。これで初手が取れれば儲けもの、程度だ。
 葛籠をするりと背から落とす。
 羽音とさえずりの彼方から聞こえる、空を裂く、音。
 ひぃ、と『風切り』が甲高い音を上げようとした瞬間、飛来した手裏剣が短い竹筒を貫いた。
 その小さく乾いた音が聞こえた時には既に勘蔵は身を翻し、駆けていた。捕らえた気配を逃さぬようにそれだけに意識を集中し、後は本能に任せる。
 『風切り』の破片が、落ちた。
 後ろ腰に差した短刀を抜き、飛ぶ。
 ぎぃんっ
 勘蔵の短刀の一撃を、その男は左手の籠手で受け止めた。
「いきなりか。たいしたご挨拶だな」
 ニィ、と不敵な、しかしひどく懐かしく感じる笑顔を男は勘蔵に向ける。向けながら、体を左に捻って右肘で勘蔵の胸を突く。
 弾指の間、男の笑顔に気を取られた勘蔵がその動きに我に返った時には、遅く。
「俺に気づいたことは、褒めてやるがね」
 鳩尾に鈍く衝撃が走った次の瞬間、勘蔵の体は大きく飛ばされていた。
 肺から空気が全て絞り出されたように息が詰まり、気が遠くなる。
 だがその時、遠のく視界に、男の笑みが見えた。
――ここで倒れたら、終わりだ。
 意志が意識を引き戻し、体を突き動かした。
 視界から笑みを追い出し、体が地面に触れたと同時に身を捻る。転がって男から距離を取りながら衝撃を逃すと、間をおかず膝立ちに構える。
 喉が、ひうと鳴いた。
 少しでも多くの空気を吸おうと乱れる息を、無理矢理に整える。
 必要な気を得られずに、肺腑が痛む。
 だが、その痛みではなく戸惑いに、勘蔵は眉を寄せていた。
 目前に立つ忍から殺気も敵意も、戦意も感じられないのだ。たった今、鋭い一撃を勘蔵に見舞った忍とは思えないほどに。
 墨染めの忍装束に身を包み、組んだ腕には無骨な籠手をつけている。右目には眼帯を巻き、鉢金を締めている。
 里を出る前と、その姿は何も変わらない。
 出羽伊賀組、参の組頭、久延彦。
 様々な意味において良い頭だったと思う。優れた忍であったとも思う。
 だが、抜けた。
「……なぜ、だ」
 形容しがたいやるせなさが言葉となり、形を為した。
「さて……どの答えが欲しいかね?」
 久延彦は笑みを浮かべたまま問い返した。
 勘蔵はその笑みを睨むように見据えながらぐっと腰を落とし、低く、低く構える。
 どの、といわれても何を訊けばいいかわからない。訊きたいことはいくつもあるが、何を訊いてもどんな答えが返ってきても、何もどうしようもないことを勘蔵も、そして久延彦もわかっているのだ。
 じり、と足が動く。久延彦までの距離は少し、遠い。
「……自分の立場はわかっていように」
 間を稼ぐために、勘蔵は問いを無理矢理見つけだした。短刀を持った右手を胸の前に構え、左袖から左手に一つ、落とす。
「わかっていように、呑気に手玉で遊んでいる奴がいたのでね」
 久延彦は左手を右肩に置いて軽く首を動かした。
「つい、な」
「ばかな」
 動きを止め、反射的に勘蔵は呟いていた。
「ばかとはなんだ」
 耳ざとくそれを聞きつけ、心底心外そうに久延彦は顔をしかめる。
「自分の立場、おわかりか?」
「抜けて追われる身だな」
「ならば」
「俺には物を考える頭があったらしい」
 勘蔵が口を開き掛けたのを遮って言うと、小さく笑った。
 その笑みに、何か勘蔵は諦めがついたような気になった。
 そして、諦めがついた自分には久延彦の訳は分かるまいと、思う。
 だからこそ最後に。
「何を考えた?」
 静かに問う。息はもう整った。肺の痛みもない。
「忍は厭きたとな」
 組んでいた腕を解いてだらりと下げ、久延彦は答えた。
「そうか」
 勘蔵は一瞬目を伏せると、左手の中の物を久延彦に向かって、放った。
 駆ける。
「ふん」
 一歩も動くことなく、久延彦は籠手でそれを叩き落とす。
 堅い音と共に落ちたのは、赤玉が、一つ。
「何?」
 瞬息の間、久延彦の意識がそこに向いた。
 とん、と勘蔵は地を蹴った。同時に左手でもう一つ、今度は棒手裏剣を打つ。
 刀と手裏剣と、共に躱わされる可能性は低い。躱わされても、反撃は喰らうまい。
 低く飛ぶような勢いで、下段から久延彦の胴を薙ぐ。
 じん、と手裏剣が叩き落とされた音が聞こえた。視界の隅に落ちていく手裏剣を見ながら、
「……!」
無言の気合いと共に短刀を斬り上げる。
 刃が肉を食み(はみ)、筋を断つ……その確かな手応えを感じた、次の瞬間。
 久延彦が消えた。
 失せた手応えに体の釣り合いを崩し、勘蔵は大きくたたらを踏んだ。
――うつせみ!?
 足を踏みしめて体勢を立て直そうとしつつ、久延彦の気配を探す。
「場数がまだ足りんな」
 背後に言葉と気配、そして濃い血の匂いが顕れる。
 振り返るより早く、背に鈍痛が走った。
 あっけなく足が崩れる。だが膝をつく直前、更に鳩尾に一撃が入り、体が浮いた。
 肺から空気が絞り出され、喉がまた、鳴いた。
「では、な」
 間をおかず、こめかみに強力な一撃。
 蹴りだろうか。意識が薄れるのを感じながら、そんなことを思う。
 そのまま、倒れる。
 まだだ、と思いながらも今度は意志は意識に勝てないようだ。
――ここまで……か。
 ぶぶん、と蜂の羽音が遠く聞こえた。黄色の中に、ぽたり、ぽたりと赤い物が落ちていく。
 遠ざかる足音と共に。
――な…………



 赤が、近くに見えた。その向こうに黄色が見える。
 それが赤玉と菜の花に見えるまで、暫く時間がかかった。
――………………
 倒れたまま赤を凝視し、ゆっくりと手を伸ばす。
 一つ……二つ……三つ。
 地に転がっている赤玉を取る。
 手の内に収めたそれらを強く握りしめる。感覚はしっかりしている。体も動く。
 四つ、五つ。
 身を起こし、残りの赤玉を拾うと、勘蔵は大きく息をついた。
「……生きてる、な」
 体のあちこちの痛みに顔が自然と歪む。打ち身のみで致命的な物がなさそうなのは幸運だったが。
 痛みを堪えて座り直し、右手の中の五つの赤玉に目を向ける。右手と袖口に赤黒い染みが付いているのが目に入った。どうやら短刀から血が袖にまで流れたらしい。
――…………
 右手を軽く握り、開く。
 開いた手の中に赤玉はもうなかった。
 顔を上げ、菜の花畑を見渡す。
 ひらひらと舞う白い蝶やぶんぶんと唸る蜂が蜜を求め、ゆらゆらと揺れる黄の花を渡っていく。
 ぶうんと蜂の一匹が、勘蔵の目の前をまっすぐに飛んでいった。
――帰るんだな。
 その羽音が遠く聞こえなくなるまで、勘蔵はまっしぐらに巣へ帰る蜂を見送った。
「蜂は……蜂か」
 短刀を拾い、かちり、と鞘に収める。
 確信のあった一撃だった。久延彦と自分の力量の差はわかっていたが、あの瞬間は完璧に取った、そう確信していた。
 だが……負けた。気がついたら、倒れていた。
 生きたまま。
 なぜ、と呟きそうになったのを、呑み込む。
『忍に厭きた』
 ふ、と小さく息を吐く。
――それが全てか。だけど……
 勘蔵の思考に覆い被さるように、久延彦の笑みが浮かんだ。
「蜂は、蜂か」
 呟きは低く、重かった。
 そして、勘蔵は右手を左腕に縛り付けた紅い布の上に、ぽん、と置いた。
――忍。

 ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ

――『風切り』か。
 つい、と勘蔵はそちらの方へ目を向ける。
 高く青い空と、黄色い菜の花の群が視界に広がる向こう、だ。久延彦が見つかったのだろうか。
 音はそれきり、何も続かない。ただヒバリのさえずりと蜂の羽音が聞こえるだけだ。
――行かねばならない。
 ゆっくりと周りを見回す。点々と赤いしみがいくつか見えたが、一町ほど先でふっつりと途絶えていた。
「行くか」
 低く勘蔵は呟くと葛籠を背負い、『風切り』の音が聞こえた方角に向かって歩き始めた。



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