妹背


 世に様々な災厄をもたらし、邪悪なる神を現世に呼び寄せようとした魔人、天草四郎時貞が斃されて一月が過ぎた。
 災厄の爪痕はまだ現世に残ってはいるものの、世はひとまずの平穏を取り戻していた。
 その日は珍しいことに服部半蔵には何の命も下されておらず、半蔵は久しぶりに穏やかな一日を里で過ごした。
 穏やかな一日とはいっても、若衆の修練を見てやったり、里の雑事を手伝ったりはせねばならない。
 忙しく働く内に、北国の短い日は暮れた。
 家に帰ると、いつも通りの帰宅の言葉と共に戸を開ける。
「今戻った」
「父上っ」
 跳ね返るように返った声は、いつもと異なった。
 声を返したのは妻ではなく、外へ出かける支度をした勘蔵だ。
「どうした、夜の修練か?」
「違います。
 母上が戻られないのです」
「楓が?」
 改めて家の中を見やれば、確かに楓の姿はなく、いつもなら既にできている筈の夕餉の支度もまだのようだ。
「何も聞いていないのか?」
「はい。父上も、何も?」
「うむ……」
 今日一日を思い返してみるが、楓がどこかに出かけると言った覚えはない。また、楓は何も言わずに出かけるような女ではない。
――何か、あったのか?
 思いがけずに帰りが遅くなることもあるだろうが、この時間まで言づて一つないというのはおかしい。もっともこの里近辺であれば、何処に行こうと危険があるはずもない。
 つまり、解せない。
 だが楓が戻っていないのは、事実である。
「俺、探しに行ってきます。父上は家で……」
「いや、儂が行ってこよう」
 首を振って言うと、半蔵は足早に家を出た。


 探し歩く内に、里の者の何人かから神社の方へ独り行く楓の姿を見たと聞いて、半蔵は里の北に足を向けた。
 里の北、正確には艮(うしとら)の位置にある神社は、寛永の始めにこの出羽の里が作られた際、伊賀千賀地より分社されたものだ。
 社はいつもきれいに清められてはいるが、人の姿があることは少ない。この社を里の者が訪れるのは掃除を別とすれば、年末年始、秋の祭り、そして、里の誰かが命を落とした時ぐらいである。
 昼間でもそうであるというのに、夜ともなればいわずもがなである。人の姿があるはずもない。
 だが、神社の石段の中程に、一つ気配があるのを半蔵は感じた。
 闇の中、身じろぎもせずにじっといるその気配は、間違いなく楓のものだ。
 見つけた、という安堵と同時に、なぜこんなところで、なぜこんな風にいるのかと訝しさを覚えながら、半蔵は闇へ呼びかけた。
「楓」
「………………」
「楓」
 二度の呼びかけにも、応えは返らない。
「楓、どうした」
 三度目の呼びかけと共に、半蔵は石段を登り始めた。
 草履に付いた土が石段をこする、ざっ、という音が、やけに大きく聞こえた。
「お帰りくださいっ」
 半蔵の言葉というより、その足音に答えた楓の言葉には、明確な拒絶があった。
「楓……?」
 あまりに強いその響きに、半蔵は足を止めた。
「申し訳ありません。あしたには戻りますから、今はお帰りください」
「なにか、あったのか」
 このように頑なに他を拒絶しようとする楓を、半蔵は知らない。
 楓は、いつも穏やかで誰もを受け入れるような雰囲気を宿した女だ。だが今は、欠片もそれがない。
 その気が張りつめているのが、ひしひしと伝わってくる。
「どうした?」
 答えない妻に、半蔵は再び石段を登り始める。
 登る己の足音だけが闇に響いているのを、半蔵は意識した。
 登ってくる夫をじっと見ている妻と、その妻を見上げて登る夫の間に幾重にも巡る緊張の糸が、沈黙を織りなす。
 半蔵が近づけば近づくほど、沈黙は密となり二人に重くのしかかる。
「あなたが……」
 あと三段登ればその側に行く、というところまで半蔵が段を登った時、楓は夫から顔を背けた。沈黙を押し上げ、言葉を落とす。
 半蔵の足が、今度は己の意志とは無関係に止まった。
 闇を透かしてかろうじて見える楓は、半蔵を見ていない。顔を背け、必死で声を絞り出している。目ではしかと見えずとも、痛いほどにそれが半蔵には感じられ、それが足を止めてしまった。
「あなたが、自害しようとしたと、聞きました」
「……」
 思考が止まるのを半蔵は自覚した。
 楓の知ったことは、事実だ。
 あの時、我が子真蔵の体を奪った天草四郎時貞を討ち果たした後、半蔵は自害しようとした。天草を討った己が刃で喉を突いて死のうとした。
 このことを知っているのは、あの場にいた数人の者達と、出羽の里長である藤林伊織、伊賀の頭領百地覚斗ぐらいである。伊織と覚斗には報告しないわけにはいかなかった。
 それら以外に知る者はなく、また知る者達とてそうそう喋るはずがない。
 しかし楓は、知ってしまった。
 ただ一人、半蔵が知られたくなかった女が知ってしまった。
「誰から、聞いた」
 かろうじてそれだけ、思考が止まった半蔵の、乾いた声は形作った。それが楓の言葉を肯定していることには、まるで気づかずに。
「誰からなど、どうでもよいことでしょう。
 肝心なのは、私が、それを知らなかったこと。
 そして今、それを知っていること」
 堰が切れたかのように早口に、楓は言った。その声の中に半蔵は、これまで聞いたことのない響きを聞いた。
 やるせない哀しみと怒りを内に含んだ妻の声に確かに存在する、半蔵を責める響き。
 その目は決して、夫を見ようとしていない。
「……っ」
 震えた楓の声が、途切れる。断たれた言葉の代わりに抑えつけた苦しげな息が、半蔵の耳に届いた。
「………………」
 しかし半蔵は何も言えなかった。たった三段、石段を登ることすら、できなかった。
 知られたくなかったことを知られてしまったことが。
 初めて楓に責められたことが。
 そして、楓がその気持ちを押さえ込もうとしていることが。
 半蔵を、許さなかった。
「私は、今、あなたの側にはいられません。
 何を言えばいいのか、どうやってあなたの顔を見ればいいのか、わからないのです」
 闇の中で座り込んでいる女は、とても小さく見える。
「あしたにはきっと、戻りますから。だから、今は、独りにしてください……」
 言う声は、か細かった。
「どうか……」
 ゆっくりと、半蔵の足が動いた。
 楓に、背を、向ける。
 弱い吐息が洩れるのが、聞こえた。
 それを背に受け、半蔵は石段に腰を下ろした。
「……あなた……?」
 当惑の声と共に、楓は視線を夫に向けた。丸めた背が、闇に見える。
「言う言葉がないならば、何も言わなくてよい。儂を見たくないならば、見ることはない」
 それきり、半蔵は口を閉ざす。
 何を言えばいいのか、どう見ればいいのかわからないのは、半蔵も同じだ。
 それでも、楓を独りにすることは許されなかった。
 どうしても、楓を独りにしたくはなかった。

「ずるい」
 闇からの声が、細く半蔵の背に届いた。

「そのつもりは、ないのだがな」
 闇に向けて、低く応える。

「でも、ずるい」

「ずるいか」

「ずるいです」

「そうか」

「はい」

「困ったな」
 半蔵の肩が微かに揺れたのを、楓は感じた。
 石段三つ離れた先にかろうじて見える夫の背は、いつもより小さい気がする。
 背を丸めているからか、闇の中だからか。
「ずるい、人」
 呟いた言葉と同時に、涙が左の目からこぼれ落ちた。
 何故なのか楓にもわからない。それでも左の目から一筋、冷たくもあり熱くもあるものが頬を伝って落ちていく。
 じぃぃ、と長く、夜の虫が鳴いた。
 楓は、言った。
 
「お役目のことならば覚悟はできています」

「私達が、あの子達の為に命を懸けるのは、当然です」

「でも……」

「…………」

「おいていかないで…ください……」

 声には、震えはなかった。
 ただただひっそりと、楓は夫の背に向かって、そう言った。
 半蔵は目を閉じた。
 夜の闇が、無に閉じる。
 それでも、胸をえぐったかのような痛みは消えない。

 何故自害しようとしたのか、今の半蔵にはわからない。
 我が子を追い込んだ自責の念が、我が子を救いきれなかった罪悪感があったと思う。私情に走り、抜け忍同様となった己の始末をつけようとした気もする。
 全てから逃げてしまいたかったのだと、どうしようもなく疲れ果て、休みたかっただけなのだとも思う。
 だがあの時の想いは、もう、わからない。
 死ねなかった半蔵には。

 じぃぃと鳴く虫の声が、耳障りだった。

 どれほどの時間が経ったか。
 楓が身じろぐ気配を感じ、半蔵は目を開き、振り返った。
「あ」
 闇を通しても、確かに互いは互いの目を、しかと見た。
「どうした?」
「少し、寒くて」
「戻る……か?」
「え、ええ……」
 ためらいがちに半蔵は声をかけ、ためらいがちに楓は頷いた。
 ゆっくりと半蔵は立ち上がると、石段を二段登った。
 ゆっくりと楓は立ち上がると、石段を二段降りた。
「勘蔵が、待っている」
「勘蔵が、待っていますね」
 同時に言った言葉にまた、視線を合わせる。
「おいては、ゆかぬ」
 低い声は、しかしはっきりとそう告げた。
 告げると、石段を降り始める。
「……はい」
 小さく頷き、楓は夫の後を追った。

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