出羽の秋


 見慣れた出羽の山まで戻ってきて、半蔵は僅かに気を緩めた。
 二月ぶりのこの北の地はもうすっかり、秋に変わっている。八日前にあとにした江戸はまだやっと、秋の気配を感じ始めたところだったというのに。
 木々はその葉を赤く、黄色く変え、大気はひやりと冷たい。やっと夜が明けたばかりのこの時間は寒さが更に厳しい。今、半蔵は忍装束を纏い、覆面もしているのでわからないが、吐く息は白く凍ることだろう。
 半蔵は首に巻いた巻布を軽く持ち上げ、隙間から入り込む冷気を遮断した。
 山は、静かだ。人の気配はない。今日はどうやら、修練に出ているものはいないらしい……
――…む。
 一人、いた。よく知った気配だ。
 修練ではない。静かな気配だ。誰もいないというのに、誰も起こさないようにしようとしているような、そんな、慎ましい気配だった。
――…………
 少し気になって、半蔵はその気配をたどった。
 程なく、気配の主は半蔵の視界に現れた。
 石竹の色の忍装束を身につけ、髪を一つに結ったくノ一である。手籠を持ち、どうやら山菜を摘んでいるようだ。

「楓」

 迷うことなく声をかけ、気配を表す。
「あら」
 楓は振り返り、
「おかえりなさいませ」
 微笑んで、いつも通りにそう言った。背後から突然―半蔵がいくら気を遣ったとはいえ―声をかけられたというのに、まるで驚いた風がない。
「今、戻った」
 あまりにも『いつも通り』に言われ、思わず、半蔵もいつも通りの言葉を返す。
 返してから、ぼそりと呟く。
「驚かぬのだな」
と。
「何を驚くのですか?」
 きょとん、と楓は首を傾げた。
「いや……
 山菜摘みか」
「はい。
 この時間ではないと、ここまでは来られませんから」
 なるほど、と半蔵は思った。
 昼間はここまでくるには、修練場の近くを通る必要があり、楓本人にも家事を始め里での仕事がある。かといって夜に山菜摘みに出るわけにもいかない。結局、早朝しかここまでは来られないということになる。
――それにしても
「寒くはないのか」
 忍装束は動きやすいが―だからこそ、楓はそれを着ているのだ―着ていれば暖かいと言えるものではない。
「ええ、大丈夫です。動いていたら自然と暖かくなりますもの」
 そう妻は答えるものの、見ている半蔵には寒そうに見える。北国の生活にももう十分に慣れているだろうし、楓もくノ一なのだからして、少々の寒さを苦にすることはない。
 それでも「寒そうだ」と半蔵は思っている。それは、気配が気になって辿ったことと同じ理由からだが、本人は全くと言っていいほど意識していない。
――…………
 半蔵は少しだけ、迷った。
 どうするかではなく、そうすることを。

 しゅるり

 冷たい大気を震わした衣擦れの音に、楓は大きく目を見開く。
「……これを」
 差し伸べられた手には、真紅の巻布。
「え……?」
「少しは、暖かいだろう」
 声が一段、低くなる。
「あ……」
 楓は、思わず笑みを浮かべた。
 夫の声の変化がおかしかった。
 そして、夫の気遣いが嬉しく、それが笑みとなってこぼれたのだ。
「………………」
 手を差し伸べたまま、半蔵は妻が微笑むのを見、何とも居心地が悪くなった。
 不快ではない。
 不快ではないが、いたたまれない。照れくさい。
 今更、何を照れくさがるのか、とも思うが、どうにもならない。
 制御しきれない感情に、半蔵は鉢金の下で視線を妻から逸らそうとした。
「ありがとうございます」
 その行動は、妻の言葉にぴたりと止まる。
 止まってから、止めたのではなく止められたのではないかと、疑う。
「お借りいたします」
 楓は夫の心中などまるで知らぬ様子で、手籠を地に置いた。
 夫の手から巻布を取り、ふわりと己の首に巻く。長さが一丈半(約4.5m)ある巻布は、ゆったりと三巻きしてもたっぷりと余り、楓の膝の辺りまで流れている。
「あたたかい……」
 感じるこのぬくもりの中には、大気に消えなかった夫のそれもあると、楓は思った。
「そう、か」
「はい」
 こっくりと、頷く。
「そうか」
 一つ頷きを返すと、半蔵は視線を楓から逸らした。
「そうか」
 同時に半蔵が纏う雰囲気が、変わる。
 楓の夫である男から、『服部半蔵』に。
「先に、戻る」
「はい。
 私もじきに戻りますから」
「うむ」
 しゅるり、と風が唸ると、半蔵の姿はもう、楓の視界から消えていた。
 一人残された楓は、首の巻布にそっと手をおいた。
 目を閉じ、笑みを浮かべる。子供のように、楽しげに。

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