抜けるように空が高い、雲一つない上天気のある日。 「耳そうじいたしましょう」 不意に楓が言った。 もうその手には、反古紙と耳掻きがある。 「…………いや」 そういうことは自分でやる、とか。 それほど耳垢はたまっていない、とか。 その辺りの理由で、断ろうと半蔵は思った。 思ったのであるが。 「いたしましょう」 有無を言わさぬ、妙に押しの強い妻の笑顔に言葉が続けられず、 「うむ」 唸るような声で、頷いていた。 「ささ」 楓はすたすたと縁へ出て、半蔵を手招きする。 「…………」 「どうなさいました?」 「別に、中でも構わぬだろうに」 「中では暗くて見えません」 「……やはり」 やめておく、といったことを半蔵は言おうと思ったのだが。 「早く」 「……うむ」 やはり言葉を続けられずに、半蔵は頷いてしまった。 天より降り注ぐ光は、夏のように鋭くなく、冬のように弱々しくもない。 心地よく麗らかなその日の下で、楓はちょこんと正座して、縁に出た半蔵を見上げる。 「どうぞ」 「……………………」 往生際が悪い、と、我が事ながら半蔵は思った。 それでも、外の方に目を向けてしまう。 出羽の里で、里長の家と半蔵の家にだけは垣に囲われ、中の様子が外からは見えぬようになっている。 ――それでも、だ。 服部半蔵として、一個の人としての矜持(きょうじ)がためらいを生んでいる。 同時に、ためらいが生まれることはおかしなことではないのだろうかという、不安に近い想いが半蔵の心中にくすぶっている。 「どうされました?」 優しく笑んで、楓が言う。 全てわかって言っているのではないか、と半蔵は思う。 ――わかっているのなら、わかって欲しいのだが。 胸の内で呟くが、菩薩を思わせる微笑みは応えてくれない。 言葉を口にしていない以上、当然のことと半蔵もわかっているのだが。 「……………………」 諦めて、半蔵は楓の隣に腰を下ろす。 その膝を枕に横になり、腕を組む。 小さく息をつく。 目を、閉じる。 日の光が、さやかな風が、心地よいと感じた。 「では、始めますよ」 ふふと笑って、楓は耳かきで半蔵の耳をかく。 最初に触れた一瞬だけ、半蔵は眉根を寄せた。 後は特に反応することもなく、黙って楓のするに任せている、様に見える。 ――言っていただかなければ、わかることはできませぬよ。 目を閉じた横顔に時々目をやりながら、楓は心の内でそう話しかける。 それは当然届くはずもなく、半蔵は楓の膝の上で必要以上に大人しく、されるがままだ。 どうも緊張しているらしい。頭を楓の膝に預けながらも、どこか体に力が入っているのがわかる。 ふふともう一つ笑うと、後は楓も静かに、耳掃除を続けた。 「はい、こちらは終わりです。次は……」 ふと、楓は言葉を切る。 耳に届く、微かな寝息。 膝に感じる良人の頭の重みが、先よりも増している。 ――………… 楓は、良人の頬にそっと触れた。 それでも半蔵が目を覚ます様子はなく。 疲れているのだろうと、楓は思った。 膝の上のぬくみと、重みは心地よかった。 肌寒さを感じ、半蔵は目を開いた。 周りが赤い。 ――……何? 視線だけを動かして周囲を見やれば、日が山の端に沈んでいくのが見えた。 遠ざかる日輪と共に、じわじわと肌寒さが増していく。 耳そうじされている内に眠ってしまったのか、と半蔵は気づいた。 頭の下のぬくみに、まだ楓の膝の上にいることを知る。 「楓」 どれほど眠っていたのかを問おうと、半蔵は妻の名を呼んだ。 「……楓?」 困った、と半蔵は思った。 半蔵を膝の上に置いたまま、楓も眠っていたのだ。 「楓」 もう一度、そっと呼びかけてみる。 「………………」 「………………」 半蔵は、そろそろと体をずらせた。 楓が起きないことを願いつつ、その膝の上から頭をどけると、一息をつく。 楓は幸いにも、まだ眠っている。 疲れているのだろうか、と妻の隣に座り直した半蔵は思った。 このままでは、ゆっくり眠れまい、とも。 僅かに、思案。 腕を、楓の肩に回すと、そっと抱き寄せる。 力の入っていない楓の体は、いとも容易く、軽く、半蔵の腕の内に収まった。 ことん、と頭が何かにぶつかった感触に、はっ、と楓は目を開いた。 一瞬、何がどうなっているのかわからず、頭を巡らせる。 最後に見上げると、そこに半蔵の顔が、あった。 そこで初めて、楓は自分が半蔵の腕に抱き寄せられていると気づいた。 「あの……眠って、おりました?」 「互いにな」 楓の肩を抱き寄せたまま、半蔵は言った。 夕焼けで、辺りは真っ赤に染まっていた。 「続きは……どういたしましょうか?」 「自分でやる」 少し困った、少し申し訳なさそうな楓に、少し憮然として、少し苦笑気味に、半蔵は、言った。 |