半蔵は里長の家を後にすると、我が家へと向かった。
 一月ぶりに戻った里は秋も深まり、冬の気配を間近に感じる。出立時には緑の濃かった山も赤や黄色に彩られ、風は冷たさを増した。
 冷たい風の中に、昼時であるためか、里の家々からいい匂いが漂っている。
 外で働いていた里人達は昼餉の匂いに呼ばれたように、それぞれの家に帰っていく。その途中で半蔵にすれ違った者は、尊敬と僅かな畏怖を込めて半蔵に挨拶をした。
――……ふむ。
 挨拶を返しながら、半蔵は僅かに眉を寄せる。
 『服部半蔵』の名の重みは理解はしているし、『服部半蔵』の名を受け継いで五年が過ぎた。それでも幼い頃に先代に拾われてこの方ずっと過ごした地の者達の、自分への扱いが変わったことに慣れきらない。
 歩む足を速めつつ、ふと、玄衆の朧のことを思い出す。もしあの時、半蔵が名乗らなかったらどうであったろうか。
――もう少し楽ができたやもしれん。
 伊賀の草のいる村を襲ったやり口から、相当に伊賀忍に対して恨みを持っていると思っていた。故に挑発すれば心に隙が出来ると踏んでの事であったが、あそこまで憎悪をあからさまにし、猛攻を仕掛けてくるとは予測していなかった。
 あの時、朧が半蔵の名を知らぬまま、ただの伊賀忍と思っていたならば――
――……まあいい。
 朧は死んだ。遺体は玄衆が始末した。この世にいない者のことを考えても仕方がない。
 それに、家に着いた。ここから先は考えることが他にある。
 半蔵は戸の前で、一つ息を吸った。板一枚の向こうで、ぱたぱたとにぎやかな足音が聞こえる。
「今、戻った」
 もう一つ息を吸ってから、声を掛ける。
 同時に、戸が開いた。半蔵をしても、自分で開けたのか、中から開いたのかわからないほど滑らかに、素早く。
「おかえりなさいませ」
 いつものように、楓が出迎える。出立前と変わらぬ、優しい笑みと共に。
「おかぁ、り、なーい、ませ」
 たどたどしい言葉に目を下に向けると、真蔵もそこにいた。
「うむ」
 頷いた半蔵の目に映る我が子は、出立前よりまた少し大きくなった。やはり己よりも楓に似ている、と半蔵は思う。
 幼子は小首を傾げ、父と同じ色の瞳で、頷いたきり無言の父を見上げていた。
「…………」
 何処か不思議なものを見るような、きょとんとした顔の幼子に少々気まずい思いで半蔵は視線を逸らした。
――……親子といっても、か……
 共に過ごす時間どころか、顔を合わせる時間さえも短い。幼い我が子が父を父と認識しづらいのも、無理はない。
 しかし逸らした半蔵の目は、すぐに足下に向いた。
 歩み寄った我が子が、半蔵の闇色の伊賀袴の、膝の辺りを小さな手で握っている。そして、
「おかぁり、なさい」
さっきよりもしっかりとした口調でそう言った。鳶色の目で、じぃっと半蔵を見つめて。
「……あぁ」
 その目を見つめて、半蔵はもう一度頷く。
「あなた、中へ入ってくださいませ。昼餉の用意がもう終わりますから」
 二人の様子を柔らかい笑みを浮かべてみていた楓が、控えめに声を掛けた。
「うむ」
 今度は楓に向かって頷くと半蔵は真蔵の手を離させ、その手を出来る限りそっと、そして少しぎこちなく握りなおした。
 半蔵の大きな手の中で、真蔵の小さな手は拳を作っている。幼子の手は拳を作ってもまだ、柔らかい。
 その手が、もぞもぞと動いた。ゆっくりと拳を開くと、きゅ、と半蔵の手を握り返す。
「ちち、うえ」
 真蔵の顔一杯に、嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
 幼い笑みを映す半蔵の鳶色の目が、僅かに見開かれた。
「ちちうえ?」
 また、きょとんと真蔵は小首を傾げる。
「……あぁ」
 頷き、半蔵は我が子の手を引いて家に入った。小さな柔らかい手をそっと握り返して。
 外の風に冷えた半蔵の体を、暖かい空気が優しく、包み込んだ。

                        終幕

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