三 ガルフォード


――この音は…
 ガルフォードは、足を止めた。
 風が鋭く駆け抜けた音と似ている。だが、違う。
「風切り……」
 それは伊甲の忍が仲間への連絡に使う忍具である。
――追いつかれたかな…それとも…まさか…
 衣の胸元をぎゅ、と掴む。
 あの忍、鷹丸から託されたものがそこにある。


「これは?」
「俺にもしもの事があれば、それを持って山の西に行け。沢沿いに下ったところに女がいる。そいつに渡せ」
 ガルフォードの問いを無視して、忍は言った。
「もしものことって……そんなことは、絶対に」
「お前を信じるとか、信じないとか、そう言う事ではない」
 ガルフォードから視線を外す。
「………役目を果たすことが忍の全てだ。故に俺は果たす可能性を上げているだけだ」
「……………」
 納得がいかなかった。忍が自分を信じているのなら、こんな事は言わないのではないかと思う。
「…お前には、……………」
「え?」
 なんと言ったのか、わからなかった。だがその言葉の奥に、激しい感情があるような気がしてならなかった。
 首をかしげるガルフォードに視線を戻すと忍は、言った。
「俺の名は鷹丸だ。女はなずな。なずなに会ったら、鷹丸に頼まれたと言え」
「……わかった。でも、絶対に、それはないからな」
 鷹丸は答えず、また、視線を逸した。
 ガルフォードの言葉に興味はない、とでも言わんばかりに。


「それはない」そう言った。それを果たす……つもり、だった。だが、できなかった。
 だからせめて、託された役目は果たさなければ。
 駆けながら強く思う。
 たとえ、相手が……
 駆ける足が、ほんの少し、鈍くなった。
 闇色の装束、紅の巻布、金の鉢金。
 いつか、こんな刻が来ると思っていた。自分の忍としてのあり方を決めたときに、覚悟した。
 だから、迷いはない。動揺もない。
 それなのに……なにか、気になる。
――なんだろう?
 考えかけて、やめる。
 人影が見えたからだ。ほっそりとした影は女のものだ。
 足を緩め、近づく。
 女は白い小袖を着ていた。手に篭を持ち、頭を手拭で包んだ姿は、山草を取りに来た近くの村の娘、といった風だ。影は細かったがやはり忍だからだろうか、華奢という印象はない。
「誰……ですか」
 低く女は言った。怯えと警戒の色が顔にある。その顔をどこかで見たような気がして、ガルフォードは首を捻った。
「……誰なの」
 女は一歩、後退る。警戒の色はかなり濃い。
 慌ててガルフォードは口を開く。
「なずなさん、ですか」
「………」
 女は答えず、ガルフォードを睨むように見た。
 ほんの僅か、左足を引いている。
「鷹丸から頼まれました」
「異人に?」
 声が変わっていた。先の声には感情があったが、今の声にはまるでない。
 この女も忍なのだな、と実感する。
「ああ」
「鷹丸は」
「……すまない」
「そうか……それで、ものは」
 鷹丸の死を哀しむそぶりはまるでない。忍だからなのだろうか。
「これだ」
 懐から密書を取り出し、女に差し出す。
 女が受け取る。
――……ん?
 パピーが、大きく吠えた。
 女の手首を掴む。
「何をするんです」
「何者だ」
 ぐるん、と視界が回る。
 何が起こったかわからないまま、ガルフォードは地面に叩きつけられていた。
 掴んだ腕を軸に投げられたのだ、と気づいたのは背をしたたかに打った後だ。
「なぜ気づいたのですか」
 男の声が、耳に響く。
 身を起こすと、一人の忍がいた。
 顔はさっきと変わらない。だがこの忍は男だ。確かあの場に最後に現れた忍であり、知っている忍だった。
 半蔵の息子、真蔵だ。
「手が違った。男と女の手はまるで違う。それにパピーが教えてくれた。火薬の匂いが……するって」
 言いながら、隙をうかがう。鷹丸から託された密書は取り戻さなければならない。
 ほんの僅か、右足を動かす。
「なるほど。とっさのことでしたので忘れていました」
 何の感情もなく言うが、真蔵もこちら―ガルフォードとパピー―の隙を伺っている。
「それを返せ」
「取り戻して、どうするつもりなのですか」
 ほんの少し、言葉に冷やかな響きが宿る。
「………」
「意味が無いことです」
「お前達に渡さないことに、意味はある」
「……これがどんなものか、知っているのですか?」
 手の中の密書を、ガルフォードに見せる。
 言う中に、静かな怒りと哀れみが、はっきりと感じられる。
「え?」
「邪な企てが記されたものかもしれません。
 一人の命がかかったものかもしれません。
 何が書かれているのか、知って動いているのですか」
「……知らない」
 考えてもみなかったことだった。
「…もしこの内容が、悪事に謀ったものなら、そして私達がそれを阻止するためこれ奪ったのなら、どうしますか」
 口調は相変わらず冷やかだったが、皮肉な響きだけはなかった。
「そうなのか」
 そうだとしたら、あるいはそれが全くの偽りだとしたら、自分はどうするのだろうと、考える。
「さあ。私もこの中身は知りませんから」
 さらりと真蔵は答える。
「知らない?」
 …わからない。答えが、見つからない。
「はい。知りません。
 私達はこれを奪うことが任。密書の内容が何であるかなど、どうでもいいことです」
「……………」
 いつしかガルフォードはうなだれていた。鷹丸の頼みは果たしたい、だが、密書の内容が悪事ならば…いや、そうではないかもしれない……そうでなければ……
――どうするんだ……
 密書の中身で、行動を変えるのか。
 その、ガルフォードが自分から目を離した隙を見逃さず、真蔵が跳ぶ。
「!」
 ガルフォードは反射的に刀を抜き、行く手を遮ろうとした。
 なぜかはわからない。わからないが、体は動いていた。
 それを見取った真蔵はガルフォードの直前で地を蹴って跳び下がる。
「爆炎龍!」
 そこにできた間に、朱い焔の龍が飛び込む。
 ほんの僅かな間、指を弾くほどの時、ガルフォードの思考も動きも硬直した。
 地に沈み、地から飛び出し、跳ねる龍の動きだけが妙にゆっくりと、見えた。
 しかし実際は、それこそ刹那の時だった。
 駆け抜けた龍は、大気に熔けるように姿を消す。
『どうか、もう関わらないように……』
 遠い声を、聞く。
 その声に我に返れば、真蔵の姿はもう、無かった。


 残ったのは、ガルフォードと、パピーだけだった。
                                                     幕

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