――この音は… ガルフォードは、足を止めた。 風が鋭く駆け抜けた音と似ている。だが、違う。 「風切り……」 それは伊甲の忍が仲間への連絡に使う忍具である。 ――追いつかれたかな…それとも…まさか… 衣の胸元をぎゅ、と掴む。 あの忍、鷹丸から託されたものがそこにある。 「これは?」 「俺にもしもの事があれば、それを持って山の西に行け。沢沿いに下ったところに女がいる。そいつに渡せ」 ガルフォードの問いを無視して、忍は言った。 「もしものことって……そんなことは、絶対に」 「お前を信じるとか、信じないとか、そう言う事ではない」 ガルフォードから視線を外す。 「………役目を果たすことが忍の全てだ。故に俺は果たす可能性を上げているだけだ」 「……………」 納得がいかなかった。忍が自分を信じているのなら、こんな事は言わないのではないかと思う。 「…お前には、……………」 「え?」 なんと言ったのか、わからなかった。だがその言葉の奥に、激しい感情があるような気がしてならなかった。 首をかしげるガルフォードに視線を戻すと忍は、言った。 「俺の名は鷹丸だ。女はなずな。なずなに会ったら、鷹丸に頼まれたと言え」 「……わかった。でも、絶対に、それはないからな」 鷹丸は答えず、また、視線を逸した。 ガルフォードの言葉に興味はない、とでも言わんばかりに。 「それはない」そう言った。それを果たす……つもり、だった。だが、できなかった。 だからせめて、託された役目は果たさなければ。 駆けながら強く思う。 たとえ、相手が…… 駆ける足が、ほんの少し、鈍くなった。 闇色の装束、紅の巻布、金の鉢金。 いつか、こんな刻が来ると思っていた。自分の忍としてのあり方を決めたときに、覚悟した。 だから、迷いはない。動揺もない。 それなのに……なにか、気になる。 ――なんだろう? 考えかけて、やめる。 人影が見えたからだ。ほっそりとした影は女のものだ。 足を緩め、近づく。 女は白い小袖を着ていた。手に篭を持ち、頭を手拭で包んだ姿は、山草を取りに来た近くの村の娘、といった風だ。影は細かったがやはり忍だからだろうか、華奢という印象はない。 「誰……ですか」 低く女は言った。怯えと警戒の色が顔にある。その顔をどこかで見たような気がして、ガルフォードは首を捻った。 「……誰なの」 女は一歩、後退る。警戒の色はかなり濃い。 慌ててガルフォードは口を開く。 「なずなさん、ですか」 「………」 女は答えず、ガルフォードを睨むように見た。 ほんの僅か、左足を引いている。 「鷹丸から頼まれました」 「異人に?」 声が変わっていた。先の声には感情があったが、今の声にはまるでない。 この女も忍なのだな、と実感する。 「ああ」 「鷹丸は」 「……すまない」 「そうか……それで、ものは」 鷹丸の死を哀しむそぶりはまるでない。忍だからなのだろうか。 「これだ」 懐から密書を取り出し、女に差し出す。 女が受け取る。 ――……ん? パピーが、大きく吠えた。 女の手首を掴む。 「何をするんです」 「何者だ」 ぐるん、と視界が回る。 何が起こったかわからないまま、ガルフォードは地面に叩きつけられていた。 掴んだ腕を軸に投げられたのだ、と気づいたのは背をしたたかに打った後だ。 「なぜ気づいたのですか」 男の声が、耳に響く。 身を起こすと、一人の忍がいた。 顔はさっきと変わらない。だがこの忍は男だ。確かあの場に最後に現れた忍であり、知っている忍だった。 半蔵の息子、真蔵だ。 「手が違った。男と女の手はまるで違う。それにパピーが教えてくれた。火薬の匂いが……するって」 言いながら、隙をうかがう。鷹丸から託された密書は取り戻さなければならない。 ほんの僅か、右足を動かす。 「なるほど。とっさのことでしたので忘れていました」 何の感情もなく言うが、真蔵もこちら―ガルフォードとパピー―の隙を伺っている。 「それを返せ」 「取り戻して、どうするつもりなのですか」 ほんの少し、言葉に冷やかな響きが宿る。 「………」 「意味が無いことです」 「お前達に渡さないことに、意味はある」 「……これがどんなものか、知っているのですか?」 手の中の密書を、ガルフォードに見せる。 言う中に、静かな怒りと哀れみが、はっきりと感じられる。 「え?」 「邪な企てが記されたものかもしれません。 一人の命がかかったものかもしれません。 何が書かれているのか、知って動いているのですか」 「……知らない」 考えてもみなかったことだった。 「…もしこの内容が、悪事に謀ったものなら、そして私達がそれを阻止するためこれ奪ったのなら、どうしますか」 口調は相変わらず冷やかだったが、皮肉な響きだけはなかった。 「そうなのか」 そうだとしたら、あるいはそれが全くの偽りだとしたら、自分はどうするのだろうと、考える。 「さあ。私もこの中身は知りませんから」 さらりと真蔵は答える。 「知らない?」 …わからない。答えが、見つからない。 「はい。知りません。 私達はこれを奪うことが任。密書の内容が何であるかなど、どうでもいいことです」 「……………」 いつしかガルフォードはうなだれていた。鷹丸の頼みは果たしたい、だが、密書の内容が悪事ならば…いや、そうではないかもしれない……そうでなければ…… ――どうするんだ…… 密書の中身で、行動を変えるのか。 その、ガルフォードが自分から目を離した隙を見逃さず、真蔵が跳ぶ。 「!」 ガルフォードは反射的に刀を抜き、行く手を遮ろうとした。 なぜかはわからない。わからないが、体は動いていた。 それを見取った真蔵はガルフォードの直前で地を蹴って跳び下がる。 「爆炎龍!」 そこにできた間に、朱い焔の龍が飛び込む。 ほんの僅かな間、指を弾くほどの時、ガルフォードの思考も動きも硬直した。 地に沈み、地から飛び出し、跳ねる龍の動きだけが妙にゆっくりと、見えた。 しかし実際は、それこそ刹那の時だった。 駆け抜けた龍は、大気に熔けるように姿を消す。 『どうか、もう関わらないように……』 遠い声を、聞く。 その声に我に返れば、真蔵の姿はもう、無かった。 残ったのは、ガルフォードと、パピーだけだった。 幕 |