想いは風になって 言葉越えて


 風が 吹くよ
 懐かしい風 力強い風
 来るよ もうすぐ
 熱い風 暖かい風
 聞こえるよ
 懐かしい あの声が聞こえるよ
 来るよ もうすぐ 来るね
 ここに……

 風だ
 ずっと探していた 風
 やっと 見つけた
 やっと聞こえた
 だから 来た
 風を追って 来た
 あと少し もう少し
 必ず行くから
 そこまで。 


「もう一人の光の巫女を、助けて欲しいのです。
 私の、妹なんです。封印されて、ずっと、眠ったまま……」
 そう言った少女の愛らしい顔が曇る。
 身の丈一尺にも満たぬ、小さな少女。澄んだ水をたたえる泉の上にふわりと浮いて、男の顔をじっと見つめている。
 自分は今、ここに在ってここにいないのだと、少女は男に告げた。遙か遠き地、遙か遠き時の彼方より、その意識だけをとばしているのだと。意識が実体化したのが、この姿なのだと。
「今の私が来られるのはここまでなのです。あの子を私では助けられない……
 あの子は必ず、あなたの敵を討つ助けとなるはずです。だから、お願い……」
 黙って少女の言葉を聞いていた男―闇色の装束を纏い、覆面と頭巾、鉢金で顔を隠した忍はきびすを返した。
 左の二の腕に、鮮やかな青い布が縛り付けられている。
「待って!」
「言われるまでもない」
 背を向けたまま、忍は少女に言った。
「ずっと、探していた……」


 異国風の建物の広間にある、大きな扉。その向こうが、忍の行くべき場所。
 だがその行く手を遮る者が、在った。
「貴様も我が蝶を、奪いに来たか」
 島田に結った髪に、赤い簪を突き刺し、派手な模様のやはり女の着物を身に巻き付けた男は不気味なほど静かに、そう言った。
 巌のような体つきをしていながら女の姿をした男の様は異様であり、その目には狂気の光が確かに揺らめいている。それでも男の言葉は静かであり、厳かささえ、在った。
「蝶、だと?」
 左足を引きながら、忍は問う。
 男の手には、巨大な鉈にも似た刀がある。その刃に見える赤茶けた、あるいはどす黒い染みが何であるかは、考えるまでもない。
「其は永遠に朽ちぬ蝶。永遠の美。
 我が求めてやまぬ、至高の存在。
 美は我の物。美しき蝶、其は我」
 男の声が、何もない、殺風景なこの空間に重く響く。その狂気に満ちた目が、じっと忍を凝視している。
「闇に在りし猛き者よ、蝶は汝が手には決して降りぬ。
 故に愛でよ。永遠の中の蝶を。遙か彼方……」
「御託はいい」
 く、と忍は右足に体重をかけ、背の刀に手をかける。
「儂はこの先に用がある。通してもらう」
「哀れな男よ。生きる世界が違う物と共に在る術など……ない!」
 くわ、と口を開き、男は嗤った。

 ごぼりと血を吐きながら、異装の男は斃れた。
「美しく……我、は……」
 死に瀕しながらも、その顔には狂った笑いが張り付いている。
 忍は男を見下ろしながら、左手でどうにか刀を収めた。その右腕は力無く垂れ下がり、体のあちこちに受けた傷からは血が滴り落ちている。
「我…は、うつく……」
 かくん、と男の体から力が抜けた。
「…………」
 忍は男の死体をそのままに、足を引きずりながら歩き始めた。
「蝶……は……」
 歩きながら、忍は呟いていた。
「飾って、見る物などではない……」
 体全てで押すように、押し開きの扉を開く。 
 重い音をあげ、開いた扉の向こうから、さぁっと澄んだ光が射す。
「陽光の……下を、自由に、舞う……それが蝶だ……」
 一歩ずつ、忍は光の中を行く。歩みに会わせ、点々と赤い滴が地に落ちる。
「それが…儂の……」
 言葉の最後は、もう、広間の中には届かなかった。
 血臭の漂う広間に残された男の背に刻まれた蝶の刺青が、澄んだ光の中、艶やかに虚しく羽を広げていた。


 黄と。
 白と。
 日差しと似た色の花々が、無数に咲き乱れる。
 その向こうに石造りの小さな塔が見える。
――なんだ……ここは……
 光のまぶしさに目を細くしながら、忍は辺りを見回す。
 澄んだ日差しを受けて咲き乱れる花々は美しい。それは、扉の向こう側にあった、殺風景な広間とまるで違う光景だ。だが、あの広間と似た異様な静けさが花園を支配していた。
 日差しと、花と、塔と。他にはない。舞う蝶もなければ這う虫もなく、鳥の姿もない。
――狂った……守護者に見合った、園か……こんなところに……
 歩む忍の、覆面の下の顔が歪んだのは、傷のせいだけではない。
 それでも傷ついた体を引きずり、忍は塔へ近づいた。

――もうすぐだよ。

――もう、すぐだ。

 今度の扉も、押して開くものだった。
 扉にもたれるように、忍は扉を押し開いた。
――教会……?
 話と、絵だけで見たことがある、キリシタンの寺、「教会」にその内部は酷似していた。背もたれのついた長椅子が左右に一列ずつ十脚ほど並んでいる。奥に祭壇があり、そこに窓から落ちる光を受けてきらめく大きな氷の固まりが、在った。
 人の背丈ほどもあるそれの側に、忍はゆっくりと、ゆっくりと歩み寄る。
「ああ……」
 そのすぐ前までたどり着いて、忍は膝をついた。
 ひやりとした冷気が、忍を迎えるように優しく、その体を包む。ひやりとしていてもそれは冷たくはない。心地よい、やさしい冷気だ。
 あの時と、全く変わっていない。
「来た、ぞ」
 左腕を、ゆっくり、差し伸ばす。氷の固まりの中で、静かに眠る少女に。
 年の頃は十五、六か。短い袖、短い裾の着物の、活発そうな少女である。膝を抱えた姿勢で、心地よさそうに眠っている。
 二十年という、長い間。
「リムルル」
 忍の伸ばした手に、ぼう、と焔が灯った。

――ずっと、待っていたよ。

 焔はしゅるりと伸び、氷に優しく絡みついた。
 そして音もなく、しかし大きく燃え上がる。
 焔は風を呼び、風は渦を巻いて、氷の周りで軽やかに踊る。
 焔と風の中、氷は溶けるように消えはじめた。

――あたたかい。

 そのぬくもりは、遠い日に触れたものとも、似て。

 リムルルは、ゆっくりと、目を開いた。同時に焔は風に抱かれ、しゅると消える。
――黒い、目。
 リムルルの開いた目に一番初めに見えたのは、まっすぐに自分を見つめる忍の「目」だった。そこには、時を経て―それはリムルルには一瞬のことであり、この忍には長く永い時を経て―あの頃にはなかった色や光、闇が見える。
――でも。
 あの頃に在ったものは何も、失われていない。
「勘蔵、さん」
 自然とその名が、口から出る。
 ふっと忍―勘蔵の目が、細くなった。
 無事でいてくれたこと、『己』をわかってくれたことに。
 そして。
 改めて見るその姿が、あまりにも変わっていないことに。
「来てくれたね」
 それに気づいてか、気づかないでか……リムルルは明るくそう言うと、ひょいと立ち上がって勘蔵の側に駆け寄った。
「聞こえていたの。ずっと、勘蔵さんの声、聞こえていたよ」
「俺にも、聞こえて、いた。だから……」
「うん」
「無事で、良かった……」
 安堵の息を洩らした弾みか、ふっと上体が傾いだ。
「勘蔵さん!」
「ん……いや、大丈夫だ」
 どうにか倒れるのはこらえたが、安堵したしたせいか、傷の痛みがひどくなったような気がする。実際、どれも決して軽いと言えるものではない上に、手当もしていない。痛むのも当然だ。
「こんなにいっぱい、怪我して…もう……」
 勘蔵の体のあちこちの傷に、きゅう、とリムルルの眉が寄った。
「命に、関わるものでは、ない」
「でも、ちゃんと手当しないとだめでしょ」
 立ち上がりかけた勘蔵を制すると、出血こそ止まったものの、手当のされていない傷に、そっと手を置いた。軽く目を閉じ、カムイへの祈りの言葉を捧げ始める。それに従い、傷に添えられた手が淡く光を放ち始める。
――………
 一つ、一つ、傷から痛みが引き、楽になっていくのを感じながら、勘蔵は覆面の下で小さく微笑んでいた。
 初めて会った時も、こんな風に手当をしてもらった。それからも、何度か。会う度にこんなことをしていたような気もする。
――今もこれでは、俺も変わらぬということか。
 微笑みは、軽い苦笑に変わっていた。
「ほんとに…そうだね…」
「ん?」
「ううんっ。なんでもない。
 あ、あのね、つけたまま、なの?」
 やっと、会えたのに。
 言葉には出さなかったが、その表情はそう言っていた。
 勘蔵の顔を隠したままの覆面を、じっと見つめて。
――………………
「ああ」
 覆面の下の顔は、リムルルの知っているものではない。外せば時の流れを思い知るだけだ。見せなければどうなるというものでもないが、それにはためらわずにはいられなかった。
「どうして?」
「どうしてと言われても……今は、役目の途中だ」
「じゃあ、終わったら、ね?」
――終わったら、か。
 強い、と勘蔵は思った。リムルルはわからずに言っているのではない。わかっていて、なお、そう言える。意識しているかどうかはわからないが……
――これも、前と同じだな。やれやれ……
 もう一つ、苦笑する。リムルルの、この少女の強さはやはり何度も何度も感じてきたことだ。
「ねっ」
「……ああ。そうだな」
 明るく念を押され、勘蔵は頷いていた。
「はい、終わったよっ」
 ぽんっ、と最後に治癒した部分を軽く叩いて、にっこりとリムルルは言った。
「ああ。楽になった。ありがとう」
 言って勘蔵は立ち上がった。痛みは確かにどこにもない。右腕に軽い違和感があるが、問題ない。
「じゃあ、行こう?」
 くい、とリムルルは首を傾げて勘蔵を見上げた。
「……何?」
「邪悪なモノを、討つんでしょう?」
「ああ」
 長い間隠れ、潜んでいたモノ達が動き始めた。狙いは幕府転覆だという。それを阻止するために勘蔵はここに来たのだ。
「だからっ」
「……………………」
 『駄目だ』と言おうとして、勘蔵は言葉を飲み込んだ。
――言っても、聞きはせぬか。
「……何よぉ」
 リムルルの頬が、ぷっ、と膨らむ。
「いいや。行こうか」
 浮かびかけた笑みを抑え、故意に低い口調で勘蔵は言った。
「うんっ」
 大きくリムルルは頷いた。
 昔とまるで変わらない笑顔で。
――変わらないな。
 その笑みの中に、「そのこと」をはっきりと勘蔵は確認した。

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