横笛の音が、低く抑えられた。
 “おかりな”の音が、くっきりと浮かび上がる。
 今日の陽気そのままに、“おかりな”の音は軽やかに踊り、横笛の音はそれを見守るように、静かに流れる。
 “おかりな”を吹くのは、桜の木の下の少女。旅芸人の形(なり)をした少年が一人、側で少女を見つめている。
 横笛を吹いているのは茶店の長椅子に腰を下ろした巡礼姿の青年。その隣に腰をかけている長い黒髪の娘が、じっと耳を傾けている。
――困ったものだ。
 その光景を眺めやりながら、男は茶を一口、すすった。
 いますぐに咎めるわけにはいかないが、後で一言、言っておかねばならないだろう。
『よいではありませぬか』
 ひらり、と花びらが一片、男の左手の上に降りた。
――よくはなかろう。
 聞こえるはずのない声だったというのに、男は不思議と驚かなかった。
『春ですもの』
 ころころと声が笑い、それに、と言葉を続けた。
『ご自分のことはお忘れですか?』
――それを、言うな。
 思わず、それでも微かに、苦笑が男の口の端に浮かんだ。
――あれは、冬だった。
 反論になりもしない言葉を、返してみる。
『でも、同じですよ』
 やはりさらりと返された。
――……春……か。
 男は天を仰ぐ。
 ほろほろと散り、風に流れる花びらの向こうに、澄んだ青空が見える。
 夏のように厳しくはなく、秋のように遠くもなく、冬のように弱々しくもない、優しく暖かい光を投げかける日輪が、そこにある。
 北国の出羽にも、そろそろその光は届く頃だろう。
――桜の下で、夢を紡ぐもたまにはよい、か……
 軽く目を閉じ、半蔵は笑みを洩らした。

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