少年は地を蹴り、崖下へと身を躍らせた。 まさに文字通りに、まるで、己には翼があり、飛べるから大丈夫だといわんばかりの勢いだった。 しかし人には翼はなく、自然、少年は落ちる。 頭を下に、真っ直ぐに、鋭く。谷川の水の流れの中に。 飛沫が、一つ大きく、上がった。 「…………!?」 谷川の岸辺の木立の影から、その光景を見てしまった少女がいた。北の地の民の衣装に身を包んだ少女は、その黒く大きな目を見開き、上がりそうになった声を呑み込む。 少年が身を躍らせた崖の上にはまだ人影が三つ見える。正体はわからないが、こんな場を見られたことに気づけば、穏当な行動には出ないだろう。 ぎゅっ、と少女は氷の精霊を抱きしめ、じりじりと焦る気持ちを抑えこんだ。 どれほどの時間がたったか、人影はようやく姿を消した。 少年はまだ姿を現さない。 少女は急いで流れに駆け寄った。やっと解放された氷の精霊がふらふらと後を追う。 間近で見ても、少年が上がってくる様子はない。気を失っているのならば浮かんできてもよさそうなものであるが、その気配もない。 「……どうしたのかな」 水面を見つめて心配そうに、少女は呟いた。 落ちた少年を知っているわけではない。だが純粋で人の良い少女には、危険な目に遭っている者を見てそのまま去る事が出来なかったのだ。 「うーん……」 その愛らしい眉を、少女がきゅっと寄せたその時。 ざばと音を立てて、少年が流れから顔を出した。 年の頃は少女と変わらない。十四、五といったところか。よく日に焼けた肌と、強い意志を感じさせる黒い目が特徴的だ。 二人の視線がきれいに合う。 「……………………………………」 困惑しているようにも、憮然としているようにも見える顔で、少年は少女を見つめている。 少女もまた、いざ少年が上がってくるとどうしたらいいか判らず、言葉を探して視線を泳がせた。 「えっ……と、大丈夫? 怪我はない……?」 少女の問いかけに、少年は、ふ、と息を抜いた。その顔に浮かぶ表情は気が抜けたようにも、苦笑したようにも見える。 ざばざばと水音を立て上げながら、少年は川から上がった。ちらりと少女を一瞥すると、両の手の指を複雑に絡ませる。 指を組み替えることを数度繰り返し、 「はっ!」 鋭く、重く、一声。 瞬間、少年の体が赤い光を放ったかのように、少女には見えた。 「……こんなもの、かな」 自分の体をくるりと見回し、少年は頷いた。 不思議なことに、びしょぬれだった体も衣も、すっかり乾いている。 その時、少女はある匂いを嗅いだ。 「よし」 一つ頷いて歩み去ろうとする少年の手を、咄嗟に取る。 「待って!」 が、それはするりと躱わされた。 それでも少年は少女の方に振り返ったので、とりあえずは目的を果たしたことにはなる。 「……なんだ?」 怪訝と困惑の表情を浮かべ、少年は少女を見る。 「手。 右手」 「ん?」 「怪我してるよ?」 「あ……たいしたことはない」 自分の腕を見やって、少年は言った。少女を安心させるつもりか、口元に小さく笑みを浮かべる。 しかし少女は腰に手を当てると、ことさらにはっきりと首を振って見せた。 「だめ」 「だめと言われても……って、わかったよ、手当てするから」 反論しかけたが、少女の真摯な目に、慌てて少年は懐から布を取り出した。 「待って」 「ん?」 少女は少年を止めると、その右腕の傷―刀傷のようだが、確かに深くはないし血も既に止まってはいる―に、両の手をかざした。 「???」 少年は、二度、三度目を瞬かせる。 少女の手に、澄んだ光が宿ったのが、見えた。 冷たさと優しいぬくもりを同時に宿した光に照らされた傷は、奇妙なことにみるみるふさがり、やがて、何の跡も残さずに消えてしまった。 驚きに目を見開いた少年の口から、嘆息にも似た息が洩れた。もう腕には痛みはない。 「……へぇ」 「はい、これで大丈夫」 「……ありがとう」 にっこりと微笑んだ少女に、少年は軽く頭を下げた。 「ううん」 「だけど、何でこんなことを? 俺は君のことを知らないし、君だってそうだろう?」 「だって、落ちるのが見えたから、びっくりして、大丈夫かなって。なかなか上がってこないし」 「人の……君の気配があったからさ、上がれなかったんだ。 おかげで溺れるかと思った」 少し気まずそうに、少年は左手で頭をかいて言う。 「……あ……ご、ごめんなさい」 「いや……でもびっくりして、気になって、それだけか?」 「うん」 何を聞いているのだろう、という顔で少女は首をかしげた。 「……ふうん」 不思議な物を見る色を少年は黒い目に浮かべたが、 「とりあえず、怪我を治してくれたことは感謝してるよ。ありがとう。 じゃあ」 もう一度礼を言って頭を下げ、つい、と少年は踵を返す。 「あ、うん、気をつけてね」 「君……」 歩み書けた足を止めると、肩越しに少年は振り返った。 「名前は? 俺は、勘蔵」 「あ、あたしは、リムルル」 「リムルル……君が」 「あの」と、勘蔵が続けたように思い、リムルルは首をかしげる。 「え?」 「あ、いや。じゃあ」 少し慌て気味に手を振ると、とん、と勘蔵は軽く地を蹴って駆け出す。 その足は速く、あっという間に勘蔵の姿はリムルルの視界から消えた。 「勘蔵、さんか……」 ぽつんとリムルルは呟くと、傍らの氷の精霊に目を向けて言った。 「無事で良かったよね、コンル」 心から安心した嬉しそうな表情で。 |