かとれあ


 橘右京が最初に訪れた時の訳を、武蔵の国の老学者、新居は覚えていない。
 学者である新居の所に来るのだから、何かしら訊ねたいことがあったのは間違いない。
 だが、それがなんだったのか、忘れてしまった。
 ひょっとしたら右京は何も訊ねなかったかもしれない。
 確かあの日には、酒好きの―元々新居が仕込んだのだが―剣客、覇王丸も来ており、二人で酒を酌み交わし、いい気分だった。そこへやってきた青年をその座に引っ張り込んだ……はずだ。何かを訊ねる時間など、与えなかったかもしれない。困った顔で、杯を持っていた右京の顔を覚えている。
「橘殿、遠慮は無用ぞ」
「ひょっとして、飲めない口か?」
「いや……」
 少し躊躇った後、右京は、はっきりと、言った。
「肺を、病んでおります。杯を受けるわけには」
「ならばなおのことだ」
「花を愛で、酒を飲み、命を思う。
 なにをためらわんや」
「……………………………」
 杯を手にしたまま、右京は庭へ目を向けた。
 季節は春だ。ちょうど庭の桃の花が満開で、良い香を放っていた。
 桃の花の色は、『春』そのもののように暖かく、華やかな色だ。
 冬の空気の冷たさ、乾き、くすんだ色、それらを全て払拭する、優しくも力強い色だ。
「……美しい」
 ぽつりと、しかし心の底から右京は呟いた。
「そうじゃろうそうじゃろう、これはな、儂の自慢の桃でなぁ」
 機嫌良く答えた新居に、覇王丸が意地の悪い笑みを向けて口を開く。
「この庭は先生の自慢ばっかりじゃねぇか。梅に桃に桜。百日紅(さるすべり)に山梔子(くちなし)に椿、木犀に藤、何でもござれの節操なし」
「美味い酒にはよい景色じゃよ。これだけの庭を無理のないよう整えるのに儂がどれだけ苦労しておるか知らぬくせに」
「そりゃ知らねぇさ。庭木の世話をしてるのは、俺や他の連中ばかりじゃねぇか。
 おい客人、お前さんも気をつけなよ。この爺様は人使いが荒くていけねぇ」
「はは……」
 曖昧に笑い、ようやく右京は杯に口を付けた。
「何を言うか、初めての方にそのような話をするものか」
 憮然とした顔で、新居は杯を空にした。
「……はは……
 いや……しかし……他の季節の花も是非、見たいものですね……」
 なぜだか苦笑を混じらせながら、右京はそう言ったものだ。
 それが、きっかけだった。
「ほう、橘殿は花がお好きか」
「はい。
 花は……良いものです」
 再び桃の花に目をやり、右京は言った。
「その美しさが目を楽しませ、その存在が心を力づけてくれます」
「ほほう」
「私は、花が好きですよ」
 静かに告げた言葉が僅かに熱を帯びたのは、酒の所為ではないだろう。
 新居が口を開いたのは、酒の所為であったのだが。
「ほう、ほう、では橘殿、『究極の花』をご存じか?」
「究極の、花……? いえ、聞いたことはありませんが。
 どのような花でしょうか?」
「おいおい、また先生のほら話かよ」
 酒臭い息を吐きながら、 覇王丸が口を挟む。
「ほらではないわ、黙って聞けい。
 よいか、日の本の国の何処かに、魔界への入り口がある。
 その入り口に咲く花こそ、『究極の花』じゃ。
 この世のものとは思えぬほど、美しい形と色をしておると、文献にはある」
「魔界の側に咲く花が、そんなに美しいのか?
 天界の花ってなら、まだわかるけどよ」
「覇王丸、剣を振るうお主が、そのようなことを言うのか?
 生と死の狭間、そこにあるものの美しさ、わからぬはずはあるまい。
 魔界と人界の狭間とてそうよ。命育む世界と、命を拒む世界の狭間で生きる花……美しくないはずがなかろう」
 新居の顔はかなり赤い。赤さに比例して口はどんどん滑らかになる。
――ああ、ああ、いい気分になっちまって。
 気づかれないように喉を鳴らして笑うと、
「美しいかどうかは知らねぇが……そうだなぁ、そう言われると、わかるような気がするよ」
 なぁ? と、同意を求め、覇王丸は右京の杯に酒を注いだ。
 そうですね、と、脇に置いた己の剣に目をやり、右京は頷く。
「うむ。
 しかしな、『究極の花』が究極たる所以(ゆえん)は、それだけではない」
「なんだよ」
「変わらぬ花なのじゃよ」
「変わらない?」
 口元に杯を運びかけた手を止め、右京が問うた。
「天界の花は天人を楽しますが為、ほろほろと散るという。人界の花が散り、枯れるは言わずもがな。
 だが、魔界の花は枯れもせず、散りもせぬという。
 人界と魔界の狭間に咲く花は、それと同じ性を持っておるそうな。だからこそ、『究極の花』と呼ばれるのじゃよ」
「なるほどねぇ、『究極の花』と呼ばれるわけだ」
 感心した様子で、大仰に、覇王丸は頷いた。
「そのような花があったとは……」
「どうした? 先生の話を真に受けちまったか?」 
 小さなため息と共に呟いた右京の顔を、覇王丸がのぞき込む。
「真に受けるも何も、本当じゃというに」
「この間もそんなこと言って、俺をかついだじゃねぇか」
「あれはあれ、これはこれじゃ」
「まったく口の減らない爺だぜ」
「何を今更」
「新居殿」
「な……?」
 『何かな』と、答えかけて新居は言葉を途切らせた。
 酒の席には似合わぬ厳しさを宿した真剣な右京の目を認めたせいだ。
 いつか、似た目を見たと、酔った頭で思いながら、言い直す。
「何かな」
「魔界への入り口とは、何処にあるのでしょうか」
 新居が言葉に詰まったのには構わず、右京は問うた。
「おいおい」
 覇王丸の苦笑も気にかけず、右京は新居の答えを待っている。
 ふむ、と頷きはしたものの、新居には答えは一つしかなかった。
「すまぬのぉ。
 魔界の入り口が何処かは、儂も知らんのじゃ」
「そう、ですか」
 落胆の色も明らかに、右京の肩が落ちた。
 あまりの落胆に、覇王丸さえ気の毒に思ったようである。
「元気出せよ。この世にないとは言ってねぇじゃないか」
 背中をぽん、と叩く。
「そうですね」
 弱く笑って、右京は頷いた。
 くっ、と酒を飲み干す。
――究極の、花。
 ひらりと花びらが、右京の杯に舞い降りた。

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