かとれあ


 また数ヶ月が過ぎ、初雪がちらついた、ある日。
 新居の庵を覇王丸が訪れた。
「先生、ちょいといいかい。
 いい酒持ってきたぜ」
 玄関ではなく庭から、覇王丸は声をかけた。その手に大きな徳利を一つぶら下げている。
「おお、覇王丸か。上がれ上がれ。ちょうど茸を焼いたところじゃ」
 家の奥から学者は答えを投げ返す。
「そりゃありがたい。道理でいい匂いがするはずだ」
 草履を脱ぐと、覇王丸は縁にあがった。
「こら、足ぐらい洗わんか。どうせあちこち回ってきた後だろうに」
 焼いた茸を盛った皿と杯を二つ持って、新居は姿を現した。
「いいじゃねぇか、縁なんだしよぉ」
「気持ちの問題じゃ。全く仕方のない奴じゃ」
「いまさら」
 にやりと笑い、覇王丸は杯に酒を注いだ。そして庭に目を向け、
「あれ……?」
「どうした?」
 覇王丸から徳利を受け取り、新居も自分の杯に酒を注ぐ。
「あの花、前にはなかったよな」
「どの花じゃ?
 この酒は、秋田のものか?」
「当たり。さすが先生だ。
 ……で、ほら、あそこの桃の木の下の、見たことがない花なんだが」
 覇王丸が示す先、桃の木の下には、冷たい大気の中でも緑の葉を伸ばし、天女の紗(うすぎぬ)のような白い花びらを広げた花が一輪、在った。
「ほう、お前に花の見分けがつくとは、知らなかったのう」
「それぐらいの風流は俺にもあるぜ。
 あんな花は見たことがねぇ。この寒空に咲いてるってのも奇妙な話だ」
 じっと、不思議なほどに真剣に花を見つめ、覇王丸は言う。
「……そういう花も、世の中にはある」
 小さく笑って、新居は杯を傾けた。
「そういう花、ねぇ……。なんて花だ?」
「さて、何だったかのぉ。
 異国の花であることは間違いないのじゃが」
「おいおい」
「杯片手に花の名を問うは野暮じゃろう。儂らはそれを愛でればよい」
「そりゃ、道理だな」
 花から目をそらし、ぐび、と覇王丸は杯を干し、茸に手を伸ばす。
「雪に花、うまい酒にいい肴……これ以上はいらねぇな」
「そういうことじゃ」
 新居も茸をかじり、酒を口に含んだ。
 酒は、まるで冬の気を溶かし込んだように清冽な味だ。
「きれいな花だな」
 花には目を向けぬまま、覇王丸はそう呟いた。
「うむ」
 頷き、老人は、橘右京も何処かで花を愛でていればよいと、ふと、思った。

                                    終

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