深く、濃い紫紺の布の上に、銀紛をまき散らしたような、星空だった。 冷たく無慈悲な月の姿の無い今宵は、星々が各々の輝きを存分に放ち、夜空を飾っている。 だがその光は、ただ天だけのものであり、地上にはさしたる恩恵をもたらさない。天においては無慈悲でも、地にはささやかな明りをもたらす、冷たい月とは違って。 そんな、天のきらめきとは無縁の―墨を流したような闇の帳の中、八角泰山は、街道を黙々と歩んでいた。 槍に似た封具を肩に担ぎ、ただ一人、明りも持たず、歩き続ける。 闇は、静かだった。 様々な音を包み込み、静かだった。 ………………… ――………………… 八角は、足を止めた。 肩の封具を、地につく。 その、とん、という音は、闇に存外大きく響いた。 音に答えるように、ぼう、と薄赤い光が闇よりにじみでる。 天にいない月のものとも似た淡い光は、ゆっくりと近づいてくる。 静かにするりと近づく光は、提燈のものだった。手にしているのは、女だ。 藍の着物に濃い緑の帯を締めた、三十をいくつか出たぐらいの年の女。ほんのりとした光に浮かぶ、艶やかな黒い髪が、印象的である。 八角の目が、すっと細くなった。 くるりと封具が回る。 ぶん、という音の後、封具の切っ先は女の喉に向いていた。 八角はその女を知っていた。 ――随分と遅くなってしまったな…… とっぷりと日が暮れ、すっかり闇に包まれた山道を早足に進みながら、八角は思った。 麓の里にある寺の住職に、本堂に飾る額を書いてくれと頼まれ、赴いていた帰りである。 妙に手間取った一日だった。 道具は揃えていったはずなのに、墨が切れていたり、額に書く字が二転三転したりと、終わるまでに時間かかり過ぎた。 更にその後で、住職に夕餉を馳走になり、里を出たときには既に外は闇に包まれていた。 今宵は泊まったらどうかとも問われたのだが、それは断わり、家路を辿っている。 ――……すみと真魚はもう寝てしまったか…… 家で留守をしている妻と子を思う。 ――……… 足が止まる。 ――すみ…真魚…… 漠然とした不安が胸をただよう。 ――何が起こるという。いつものことではないか。 そうしばしばあるわけではないが、額や掛軸を書くことを頼まれ、出来上がった物を届けた、あるいはそこに赴いて書いた、その帰りが遅くなるのは珍しくはない。 ――早く、帰ろう。 再び歩き出しかけ、ふと、空を見上げる。 木々の隙間から、降るような星空が目に入った。 月はない。 ――昏いな。 見事な星空を目にしながらも、八角はなんとはなしにそう思っていた。 確かに天には無数のきらめきが在るが、夜道を進む八角の足元を照らすのは、手にした提燈の明り一つである。 天にある星々の輝きは、周囲を包む闇の濃さを強く感じさせるだけのもののようであった。 あるいはこの天と地の様の差が、不安を抱かせたのかもしれない。 ……いや。 歩む八角の表情が、僅かに変わる。 丸い眼鏡の奥の目に、剣呑な光が浮かぶ。 ざんっ 何かが、八角の前を駆けた。 その時には八角は後方に跳びすさっている。 逃げ遅れた提燈が衝撃の後に八角の手から飛び、地に落ちた。 落ちた提燈が燃え上がり、辺りが瞬間明るくなるがそれは一時の事。辺りは見る間に闇に閉ざされる。 己の手を伸ばした先すら見えぬ闇の中、八角はただ一点をじっとねめつけていた。 提燈の最後の明りも、そこまでは届かなかった。だがそこには確かに、 「……魔物か」 低く、感情の無い声で呟く。このような声を最後に出したのはいったいいつの事だったか。 八角の視線の先、闇の向こうには、この世に在らざるものの気配がわだかまっている。 「まだ…来るのか……」 憤りと疲れを含んだ呟きを洩らし、懐から、矢立てを取り出す。 ぶわっ! 布が風をはらむ音が聞こえる。 身を低くして、前に跳ぶ。左脇を魔の気配が駆け抜けていくのが感じられる。 跳びながら矢立てから筆を抜く。伝わる重みで、筆がたっぷりと墨を含んでいるのは確認できた。 ――些か心許ないが… たんっ 足が地につくと同時に、ぐるりと体を回す。魔の気配を正面に捕らえると、筆を持った右手を胸の前で構えた。 親指と、人差指、中指で筆を持ち、薬指と小指はそっと添える。その腕を魔の気配の方へ、するりと伸ばす。 「………………………………………………………っ!」 声無き絶叫を、魔物が上げるのが、聞こえた。 ――………? 僅かに、八角は眉を寄せた。 「………………………………………………………っ!」 もう一つ、叫び。 叫びと共に、魔物が、来る。 八角の手が動く。 “劔” 一歩、前。 八角の体は、かつて様々な魔物を封じてきた者の体は、忘れていなかった。 考えることなく、『剣』を、一閃。 「は………っ………」 『魔物』のうめきと、確かな手ごたえが伝わって来る。 そして、倒れる、音。 ――………!? 鼻を差した匂いに、八角の顔が僅かに強張った。 濃い、鉄のものとも似た、血の匂い……人の、血の匂い……魔のものには決してない、この匂い…… “明” ぼう、とほのかな明りが宙に浮かび上がる。 朱い光は、驚愕に凍った八角の顔と、地に倒れた『魔物』の姿を静かに闇から浮かび上がらせた。 「……………っ……………」 がくりと八角は膝をついた。 苦痛はかけらもなく、むしろ安心したような、女の死顔。 「おお………」 八角の震える手が、死した女を抱き上げる。 妻である、女の体を。 悲痛な絶叫が、闇を裂いた。 無数のきらめきに見守られた闇の中、八角は妻を抱き抱え、家に辿り着いた。 そこに待っていた光景は、八角を更に打ちのめすものだった。 むせ返るような血のにおいと魔の気配。 徹底的に荒された、家の中。 そこに、無惨に引き裂かれた我が子の体が転がっていた。 何があったか、そして、それが何故なのか、全てを八角は理解した。 魔に捕らわれた妻、死した子。 妻の安堵した死顔の訳さえも。 「…………………」 もし見るものがあったならばぞっとしたに違いないほどの無表情な顔で、八角は妻の体を我が子の遺体の側に横たえた。 奥の部屋へと入る。 戻ってきた八角の手には、一振りの槍―ここを襲った魔物達が求めていたに違いないもの―があった。 「…………待っていてくれ………許してくれ…………」 掠れ、震える呟きとは裏腹に、滑らかな動作で、槍を振るう。 すると、槍の穂先が筆のそれに変化し、瞬く間に二つの文字が宙に書き出された。 “弔” “誓” 二文字は微かに揺らめくと、ぼっ、と音を上げて燃え上がった。 見る間に炎は大きくなり、文字を飲み込み、天井に燃え移った。そこから柱を伝い、障子、襖から畳へ、そして、横たえられた女と子供の遺体に炎は走り寄る。 そっと、愛おしむように、炎が二人に触れた。 炎上する我が家から、八角はゆっくりと、現れた。一振りの槍―封具だけを手にして。 そのまま、八角は闇に消えた。一度も振り返る事なく。 炎に崩れる家からは火の粉がちらちらと舞い、地を閉ざす闇から逃れるように、きらめきに満ちた天へ昇ろうとしていた。 どれほども昇ることができず、全て虚しく闇に消えながらも、それでも……… 「お懐かしゅうございます」 槍を突きつけられていながらも、静かに、女は微笑んだ。 妻と同じ姿形で、同じ声で、同じに微笑んだ。 「ずっと、待っておりました。あのよからずっと。 どうして戻ってきてくださらなかったのですか? 真魚も私も、あなたのお帰りを、どれほど待ったことでしょう……」 困った人、そう言う様に女は槍の穂先を見、八角を見た。 音は、その瞬間には、無かった。 「…………………!?」 女の目が、驚愕に見開かれる。 無造作に喉を貫く槍を、表情を変えぬ八角を。 ぽとりと、女の手から提燈が落ちる。 「……おのれっ!」 しわがれた声を上げると、女は首を穂先から引き抜き、飛び下がった。傷口からは、何も流れない。 「なゼワカったッ! 気はイハかん全に消したはズ!」 「………………」 くるりと封具を回すと、無言で八角は構える。 「………ッ」 女の姿がみるみる崩れ、獣になりそこねた人のような姿に変わり、魔物の本性を表す。 「シャアァァァァァァァァァァッ!」 魔物は鋭い牙をむき出し、尖った爪を振りかざし、八角に襲いかかる。 八角はただ、封具を振るった。 振るわれた封具の先は槍のそれから墨を含んだ筆と変わり、宙に一文字、書き記す。 “滅” 記された文字は、不可視の力を放った。 放たれた力は魔物をたやすく貫く。貫かれた箇所から、ぼろぼろと崩れ、消えていく。 「く……ウ………が…………」 今度は苦痛と、己をおとなうた滅びへの恐怖に、魔物の目は見開かれた。 魔物の姿が薄れ、女の姿が重なる。 「き、キ……さまァ…あ、あなた………」 女は恨みのこもった目で、苦しげに八角に手を伸ばす。 「…………………」 怒りもなく、憎しみもなく、哀しみも、一片の冷やかさすらなく…… 八角は、再び鋭い切っ先に変じた封具を、振り下ろした。 八角は、また、歩き始めた。 光なき昏い道を、黙々と。 ふと、足を止める。 僅かに振り返り、口を開いた。 「惜しかったな……… もし、月が出ていれば……月の光の下ならば、騙されていたかも、しれん……」 遠い天を見上げる。 月の支配から逃れ、各々の輝きを精一杯に示す星々の姿が、そこにある。 決して地の闇を開くことのない、光が、天にある。 ――もし…… 視線を落とす。 魔物のいた跡は、何もない。僅かな気配すら、消え失せている。 「もっとも儂には、もはや月は見えんがな……」 声の中にあったのは、疲労。 全てに疲れきった老人のような、声だった。 八角は顔を前に向けると、封具を肩に担ぎ、歩み始めた。 ただ一人で。 きらめく無数の星の下に広がる、閉ざされた闇の中を。 終 |
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