冬が明けた後の畑の土は、堅いのです。 根雪に固められた土はぎゅっと締まり、鍬を力一杯振るっても、なかなか思うようにおこせません。 それでも黙々と、真蔵は鍬を振るっておりました。 こういう畑仕事も大事な役目です。いかに忍といえども、ただただ忍事だけに励んでいればいいというものではないのです。朝早い内の修練を終えると、昼過ぎまでは畑仕事に励みます。それは里長から若衆、子供達まで 例外なくやらないといけないことなのです。 そう、「あの」服部半蔵でさえ、里にいるときは鍬を持って汗を流すのです。田植えの季節には当然、田植えもいたします。 …………………… 「服部半蔵」の威厳だとか立場だとかあるのでしょうか。それとも単純に忙しいだけかもしれません。そういえばあまり畑仕事をしている父上は見たことがないと、ふと手を止めて真蔵は思いました。 数少ない記憶をたどってみます。 ――……………… あまり見ない方が幸せかな、とぐいと汗を拭いつつ真蔵は思いました。 服部半蔵様御本人は真面目にやっていたんですけどねぇ。 父上には父上のする仕事がある、と思いながら再び鍬を振るいます。 「しーんぞーさーんっ!」 「ん?」 呼ぶ声に、鍬を振り上げたまま、振り返ります。 声の主は里の子供達でした。皆五、六歳のまだいとけない童です。男の子と女の子と、合わせて七人おります。 「きょーお、あそんでくーださぁい!」 声をそろえて童達は叫びます。 伊賀忍の子供達が修行を始めるのは基本的に七つからとなっています。それ以下だと幼すぎて体がついていかないからです。その年までは忍の子といえど、ただ人の子らとそうは変わらない生活を送ることができるのでした。 「いいよ」 鍬を振り上げた手を下ろして、真蔵は答えます。 「ちゃんと、お役目を片づけたらね」 にっこり。 「……はぁいっ!」 一瞬子供達は顔を見合わせましたが、すぐに声を上げて頷き、三々五々と里の中へ散っていきました。 自分達の「お役目」―つまりは大人達の手伝い―を片づけるために。 それをにこにこと見やりながら、真蔵は鍬を振るいました。 「私の後にちゃんとついて来るんだよ」 とんとんと細い山道を登りながら、真蔵は言います。 「はいっ」 答える子供達の声は真剣です。 雪がようやく溶けたばかりの山を登るのは、大変難しいことです。 そこがぬかるんでいたかと思うと、そこはまだかちかちで滑ります。獣道よりは幾分ましなその道をよくよく見定めて歩かなければ、転んでしまいます。 「ほらそこ、危ない」 転びかけた女の子を、すっと真蔵は支えます。さっきまでみんなの先頭にいたはずなのに。 「ありがとう、しんぞうさん」 「慌てなくていいんだよ。ゆっくりゆっくりね」 「ねぇねぇしんぞうさん、これはなぁに?」 一人の女童が、道ばたの地面に張り付くように生えた草を指さしました。 「それはハハコグサだね。喉の病に効くし、餅やお粥に入れてもおいしい」 「しんぞうさん、こっちは?」 「それはスイカズラだ。傷の膿んだのや、毒を取るのにいい。お酒につけても、おいしいんだよ」 まだみんなには早いけどね、と真蔵は微笑みます。 「じゃあこれはこれは?」 「ほらそこ、足下危ないよ。それは水仙。水場が近くにあるね。腫れ物によく効くよ」 子供達に山の歩き方を教えながら、彼らの訊ねてくること一つ一つに、真蔵はきちんと答えてやります。 山を歩くこと、そこにある草木のことを覚えること。それらはこの幼い子供達の修行、といえるものでもあるのです。 「しんぞうさん、これはくまざさだよねっ、おちゃがおいしいんだよねっ」 「そう、お腹の痛いのにいいんだよ……」 頷いて答えた真蔵の目が、ふと、子供達から外されました。 ぱちっ 風のような速さでその手が動き、飛来した物を受け止めます。 「ふん……勘だけは鋭いな。さすがは」 「新太さん……危ないじゃないですか。子供達もいるというのに」 木の陰から姿を現した若い忍に、真蔵は言います。柔らかい口調でしたが、そこには非難の響きが確かに宿っておりました。 「ほう、お前、俺が子供らに当てると思うたか」 真蔵よりいくつか年上と見えるその忍は、意地の悪い笑いを浮かべて真蔵を見ています。 「万が一ということもあります」 受け止めた小石を、地面に捨てます。 「確かにな。何せ半蔵様の……」 「はぁぁぁぁっ!」 ごす。 完璧でした。 角度も高さも蹴りの強さもいうことなしの「怪鳥蹴り」が新太の側頭部にヒットしました。 「勘蔵……」 蹴りを炸裂させたまま、にっ、と勘蔵は真蔵に笑いかけ…… ずる。 「いいかい、この時期の山道は足下に気をつけないといけない。ちょっとしたことで転んだりするからね。 そして転ぶと……」 「どぉうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………」 二人はもつれて転げ落ちていきました。 「わかるね?」 にっこり。 「はいっ!」 この無邪気さは、罪です。 山の中腹まで来ました。ここには道の脇にほんのちょっと広い空間があります。修行や山菜取りの時に一息入れるための場所なのです。 「さて、ここで休憩したら、帰ろうね」 「ええええええええっ」 異口同音に不満の声を上げる子供達に苦笑しながら、真蔵は言います。 「続きは、またね」 子供達の体力を考えると、この辺りまでが限度なのです。 一人二人ならともかく、これだけの子供達を真蔵一人でおぶうなり抱えるなりして帰るのは無理があります。 「また? ほんとに? こんどはいちばんうえまでつれていってくれますか?」 「そうだね。雪が全部消えて、青い葉の季節になったら、ね」 「はいっ」 「うん」 真蔵は頷くと、懐から笛を取り出しました。 自分で作った、よけいな飾りのいっさいない物です。それでも銘があります。 『七日月(なのかづき)』と。 できあがったのがちょうど、半月の夜だったからそうつけたのでした。 名器とはとうてい呼べない物ですが、真蔵はこの笛が気に入っています。 「一曲終わったら、帰ろうね」 吹く前にそう告げると、笛をそっと口元にあてがいます。 子供達は思い思いの場所に―それぞれが見つけた、乾いた座り心地のよい場所に―座って、真蔵を期待に満ちた目で見上げます。 軽く目を閉じると心臓は静かに息吹を『七日月』に吹き込みました。 ひょう……と尾を引いて、笛の音がほどけていきます。 春を迎えつつある山に。 赤く染まり始めた空に。 忍の里の一日が、こうして終わろうとしていました。 たまさかの、平和な一日が。 |