手向け


 翁は煙管から口を離すと、ぷかり、と煙を吐いた。
 ふわ、と白い揺らめく固まりが空に流れ、薄れ、大気に消える。
 消えた頃にまた、ぷかりと煙を吐く。
 煙はまた、空に消える。
 この翁、実にうまそうに煙草を吸っている。
 しかし翁は禿頭であり、その衣は墨染めの法衣であった。つまり翁は僧であった。
 江戸初期の名僧、沢庵和尚が煙草を害毒であると禁じた例を出す以前に、贅と欲を断ち、精進潔斎せねばならぬ僧が煙草を吸うなどもってのほかである。
 その、もってのほかのことを悪びれる様子なく楽しむこの破戒僧の名は、花諷院和狆という。
 四尺半の小柄なこの老体からは想像もできないが、かつては優れた剣の腕と陰陽の術で退魔師として名を馳せた身である。思うところあって仏門に入ったものの、未だにその腕も術も捨てたわけではなく、また衰えを見せていないという。
 剣技は百歩譲って良しとするにしても、陰陽の術を捨てぬことは真っ当な仏門にある者からは考えられない。こうしてみると煙草を吸うぐらいは大したことではないかもしれない。
 たっぷりと煙草を味わうと、和狆はくるりと煙管を回して軽く一つ、振った。灰がぽろりと落ちる。
 灰を落とした煙管を帯に挟むと、和狆は脇に置いてあった刀を取った。
 刀の長さはぴったり二尺。通常のものより短い直刀だ。
 それを和狆は抜いた。抜かれたそれは珍しい両刃造りだ。だが刀身は半ばほどから折れ、刃にも曇りがある。 銘は、『對魔(たいま)』。かつて和狆自身が振るっていた刀だ。この刀が何故折れたのか、その訳は和狆の苦い記憶の中だ。
「さぁて」
 しばらく對魔を見つめた後、かちりと鞘に収めると和狆はその『山』を振り返った。
 そこに、對魔を折ったモノがいるのだ。
 その『山』は目には見えない禍々しい気に包まれている。その気の為、『山』の五里四方の生き物は死に絶えた。
 天は灰色の雲に覆われ陽光が射すこともない。和狆が根元に腰かけていた大木も葉を全て散らし、白く枯死した幹だけの無惨な姿となっている。
 全て、長らく眠っていたモノが目覚めた結果であった。
 そのモノを退治し、苦い記憶に決着をつけるため、そしてこの厄の根を今度こそ断つため、この小さな老人はここまで来たのだ。
「ゆくとするかのぉ……む?」
 立ち上がりかけた和狆はこちらへ歩んでくる人影を目に止め、ふと眉を寄せた。
「あれは……やぁれやれ……」
 見知ったその人影に、和狆は大仰にため息をつくと、とんとんと腰を叩いてから笠をかぶり、錫杖を取る。
 はずみで、しゃんと錫杖の頭の金輪が音を上げた。


「魔物と関わるな、と言うた」
 一間の間をおいて足を止めた大振りの刀を右肩に担いだ浪人―和狆の弟子である、覇王丸に苦笑を混じりに言葉をかける。
「悪い弟子ですまねぇな。だがよ、師匠」
 覇王丸は空いている左手で頭をかきながら言った。
「俺自身の手でケリをつけねぇことには、どうにも気がおさまらねぇ」
「お前様らしいのう。
 もっとも最初から、言うてきくとは思うておらんかったがの」
 ほっほっほ、と和狆は笑った。
「さすが師匠、よくわかってるぜ」
 覇王丸も大きく笑う。

 しゃっ、と錫杖が鳴る。

 和狆の小柄な体が、飛ぶ。
 迷うより早く覇王丸は、右手の刀を鞘がついたまま、振るった。
 宙で海老反りに身を反らし、それを戻す反動のままに、和狆は錫杖を覇王丸の頭に振り下ろす。
 がん、と際どいところで覇王丸の刀はそれをくい止めた。衝撃が腕を走るが構わず、刀を振り抜く。
 その力の流れに逆らうことなく、和狆は一回転すると地に降り立った。
「師匠、冗談がきついぜ」
 言いながら、刀を抜く。二尺八寸、肉厚で幅広の胴田貫である。銘は、河豚毒。
「冗談と思うかの?」
 とん、と錫杖を和狆はついた。その顔には先と同じ笑みがあるが、そこには老人のものとは思えない気迫が宿っている。
「そんなに俺の腕が信じられねぇか?」
 右足を引き、身を低くする。柄を握った両の手を、右肩に引きつけるように構える。
「腕云々の話ではないわ」
 右手で錫杖を構え、左手を懐に滑り込ませる。
「へへっ」
 覇王丸は笑った。構える両の腕が、僅かに膨らむ。
「旋風裂斬!」
「雷符っ!」
 大きく振るわれた覇王丸の刃から放たれた唸るつむじ風と、懐から抜かれた和狆の手から放たれたいかづちを纏った鳥が喰らいあい、互いをずたずたに切り裂く。
「うぉりゃあっ!」
 旋風が飛ぶと同時に、覇王丸は駆けていた。旋風の唸りより低く重く、大気がおめく。
 ぎんっ!
 風といかづちが消えるまさにその一瞬、振り下ろされた覇王丸の一撃を和狆は錫杖で受け止めた。
 河豚の毒と同じで「あたれば」死ぬ。冗談のような由来の銘であるが、覇王丸に振るわれる時、その銘の示す意味は真実となる。
 だが、和狆は河豚毒の一撃を右手だけで握った錫杖でがっちりと受け止めていた。その枯れ木のような細腕のどこにこれだけの力があるのかわからないが、受け止められた刀はびくとも動かない。
 そして左手が再び懐に滑り込む。
「ちぃっ」
 放たれるであろう陰陽の術を警戒し、錫杖を弾いて覇王丸は右に飛ぶ。その後を追うように和狆の手が、懐から抜かれる。

 ただ真白いだけの符が空を舞った。

「……へ?」
 意識することなく、だがはっきりと覇王丸の目はその白を注視した。
 それは、かとんぼが一回羽ばたくほどの僅かな時間。
 だが隙と呼ぶには十分な時間だった。
「ほっ!」
 墨染めの僧衣を翻し、和狆はまた飛んだ。くると錫杖を回し、地に突き立てる。
 しゃん、と高く鉄(かね)が鳴る。
「支杖螺旋脚っ!」
 和狆の小さな体が水平に回る。
 直に立った錫杖を支点として回る勢いそのままに、覇王丸を蹴りつける。
 一、二、三…………陰陽の示す螺旋を描いて降下しながら、蹴る。蹴る。蹴る。
「ほいさっ!」
 最後に覇王丸の足を払うように一段強く蹴りつけると、その反動を利用して逆方向に半回転し、ひょいと立ち上がる。立ち上がりざまに三度、符を放つ。
「炎符!」
「ちぃっ!」
 足への蹴りに崩れかけた体勢だった覇王丸は、燃えさかる猿にも似た式神が襲い来るのを見るや、そのまま体を地に投げた。したたかに体を地に打ち付け、新たな痛みが体に走るにも構わず転がる。炎の熱が間近を駆けるのを感じながら、さらに刃を振るう。
 だが転がった勢いを殺しきれず、二転三転地を転がった末、ようやく立ち上がった。
 覇王丸を捕らえられなかった炎の式神は、符に戻って地に舞い落ちている。
「ほ、ほ、確かに腕は上がったのう」
 覇王丸が剣を構え直すのを見ながら、和狆は笑い声を上げた。
「えぐいぜ、師匠」
「人のことは言えぬじゃろうに」
 にこにこと笑っている和狆の右足の黒い脚絆が裂け、裂けた辺りの色が濃くなっている。
「違ぇねぇ」
 ぺ、と血の混じった唾を吐き捨て、ニヤリと覇王丸は笑った。微妙に急所は逸らしたが、蹴られた箇所の痛みは楽なものではない。それでも覇王丸の顔に浮かぶ笑みは、この上もなく楽しそうなものだ。
「修羅道、じゃの」
 細く長い顎髭をしごき、和狆は呟いた。
「あん?」
「いいや。
 さぁて」
 怪訝な顔をした覇王丸にもう一つ笑いかけると、和狆は両手で錫杖を構えた。
「そろそろ、終わりとしようかのぉ」
「ああ」
 頷く。
 どちらともなく、間合いを詰める。
「りゃぁっ!」
 先に仕掛けたのは覇王丸だった。踏み込んだ勢いに乗せ、刀を振り下ろす。
「ほわっ」
 和狆は一歩後ろに飛んでそれを躱わすと、錫杖を突き出した。
「しゃぁっ!」
 覇王丸は躱わしも受けもせず、一歩踏み込む。踏み込みながら振りきった刀を下段から回転させながら振り上げ、錫杖を跳ね上げる。
 更にまた一歩踏み出し、振り上げた刀を弧を描きながら和狆の体に振り下ろす。
「ありゃっ!」
 慌てて和狆は錫杖を引き戻す。かろうじて間に合ったそれが河豚毒の一撃を受け止める。
 だが、覇王丸は和狆が次の行動に出るよりも先に、また踏み込んだ。
「天覇、封神斬!」
 踏み込み、河豚毒を弧を描いて振り下ろし、振り上げ、息をつく間も与えぬ連撃を和狆に叩き込む。
 どうにか和狆はそれらの攻撃を受け止め続けるも、重い斬撃の連続に腕は痺れ、後退せざるを得ない。
――む。
 引いた左足が何かにぶつかる。
 微かに背を伺えば、先刻腰掛けていた枯木が真後ろにあった。
――ほっ。
 ぎりと残り少ない歯を食いしばり、心の内だけで和狆は笑った。
 その視界の中で白刃がまた、弧を描き、
 ぎん!
 下段から擦り上げる一撃を、堪える。
 一歩踏み込み、再度覇王丸は真円に河豚毒を振るう。
 ぎぎんっ!
 しゃん、と音を立て、錫杖が和狆の手から落ちた。
 だが容赦なく覇王丸は踏み出し、河豚毒を振り上げる。
「どっこいしょ」
 それと全く同時に、とん、と和狆は前に出た。
 一見のんびりと、その実、刃が頂から落ちるより速く。 
 ちっ、とようやく河豚毒が地を擦ったそのときには、和狆は覇王丸の襟を掴んでいた。
 ぐいとその身を引き寄せる。といっても体格と体重の差で、和狆が覇王丸にしがみついたようにしか見えない。
「!?」
 驚愕しつつも腕を振り上げようとする覇王丸に、にっかりと和狆は笑いかける。
「ぷはぁっ」
 吐いた息は、僅かに茶色がかっているように覇王丸には思えた。
 膝よりほんのわずか上がった位置で、河豚毒が止まる。
 何十年と煙草を吸ってきた、年季の入ったヤニ臭い息の直撃を受けて平然としていられるほど、覇王丸はできていなかった。
 体が勝手に呼吸を拒否し、ぐらりと目が回る。河豚毒を振り上げようとしていたのが、これまたいい反動を生んだ。
 覇王丸はひっくり返った。
 ついでのように、思い切り頭も打った。
「……いてぇ」
 軽く着地した和狆は錫杖に手を伸ばす。痺れが残った手ではなかなかうまくつかめず、何度か取り落としながらも拾い上げると、
「よい音がしたのぉ」
 とんとんと腰を叩き、からからと笑った。
 頭をさすりながら、むくりと覇王丸は起きあがる。
「師匠……これはねぇんじゃぁ」
 和狆は枯木の根元に腰を下ろすと、煙管を帯から抜いた。
「師匠」
 河豚毒を鞘に収めながら覇王丸は和狆に目を向けた。年老いた僧は穏やかに笑んで、くるりと煙管を回す。
「……生きるか死ぬかの狭間の中に、あるもないもありはせんわ」
 煙管に煙草を詰め、小さな符で火をつける。
 吸い口を咥え、うまそうに、たっぷりと煙を味わう。
「そりゃ…そうだがよ。
 師匠、ちったぁ歯を磨いた方がいいぜ」
 鼻が曲がるかと思った、と付け加え、屈託なく大笑する。
 ぷはぁ、と煙を吐いて和狆もまた、声を上げて笑う。笑うが、
「大きなお世話じゃ」
 煙管を吸い、憮然と言った。
 ぽかりと開いた口から白い煙がゆうらりと流れる。
 消えながら流れるそれを、追うとはなしに目で追いつつ、覇王丸は立ち上がった。黒い帯に、河豚毒を差す。
「それじゃ、行って来るぜ」
「さっさとゆけい」
 覇王丸の方を見もせずにまた、和狆は煙を吐いた。
「さっさと戻って来い」
 言う。
 そして、ほ、ほ、と笑った。笑った口から、煙の残りが漂い出る。
「ああ」
 にかと笑って答えると、覇王丸は和狆に背を向け、『山』に向かって歩みだした。
 和狆は遠ざかる足音を耳にしながらぷかりと煙を吐く。
 煙が漂う中、煙管を返すと一つ、振る。
 ぽろりと灰が落ちる。
 煙管を帯に挟み、古い直刀を取ると一枚、黄色い符を放つ。
 符はひらりと舞うと小猿に似た式神と化した。
 ちょこんと座ったそれに、直刀を持った手を突き出す。
「捨ててきてくれるかの」
 こくり、と式神は頷くと和狆の手から刀を取り、一陣の風となって駆ける。
 ちょうど覇王丸が歩んで行ったのとは逆の方角へ。
 疾り去る風を見送りながら、和狆は煙管を取った。
 煙草を詰め、火をつけると、口を咥える。
 そして、うまそうに、吸った。


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