赤卒


 右京がそこに辿り着くより先に、ごろつき達は圭を路地裏に引きずり込んでいた。
 右京は足を止めずに路地裏に飛び込む。人の姿はない。声が奥から聞こえる。迷わずに路地を駆ける。そこは長屋が並ぶ、裏通りになっていた。祭に出払ったのか、人気はない。祭囃子も遠くにしか聞こえず、奇妙に静かだ。
 だから余計に圭の声は、ひどく大きく右京の耳に響いた。
「きゃっ!」
――圭殿!
 声に振り返った右京の目に映ったのは、男に突き飛ばされて倒れる圭の姿だ。
 全身の血が一気に頭に昇るような感覚と同時に、残りの距離をまさに飛ぶが如く右京は駆ける。
「圭殿!」
 鞘ごと愛刀を引き抜き、なお圭に手を伸ばすごろつきを打ち据える。
「ぎゃん!」
 犬のような悲鳴を上げ、打たれたごろつきが転がる。
「な、何者だ!」
「右京様……」
 倒れた圭が右京を見上げ、小さく驚きと安堵の声を上げた。
 右京も、とりあえずは無事と見える圭の姿に内心安堵する。しかしすぐにごろつき達を睨み据え、
「この方への無礼は許さん」
静かに、低く、言った。
 ごろつき達は一瞬あっけにとられた様子で顔を見合わせたが、すぐにニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる。右京の口調と細い体に、たいしたことのない相手と思いこんだらしい。
「許さんだとぉ? イヤなこった、俺達はこのお嬢さんに用があるんだよ」
「うらなりびょうたんに用はねぇや」
「大体てめぇは何者だぁ? ああん?」
 懐の匕首をちらつかせながら、ごろつきたちは口々に嘲りの言葉を投げつける。
 しかし眉一つ動かさず、ひた、と取り囲むごろつきどもを見据えると、右京はやはり静かに、ゆっくりと、名乗った。
「神夢想一刀流、橘右京。
 よろしいか」
 威圧するでもない、脅しつけるでもない、ただそれだけの右京の言葉に、ごろつきは動けなくなった。完全に右京の「位」と「威」に呑まれてしまっている。
 ごろつきどもとて、神夢想一刀流一の使い手、橘右京の名を知っている。五人程度では数で勝っているということすらできる相手ではない。病に冒され、女をかばっていても、だ。それぐらいのことは考えられる頭はある。
 右京の素性を知ったごろつき達の威勢は、たちまち崩壊した。そこに追い討ちをかけるように、右京は言葉を続ける。
「この方は小田桐家の御息女、圭殿だ。それを知っての狼藉か」
――右京、様……
 自分をかばって立つ右京の背を、圭はそっと見上げた。
 肺の病に痩せているはずだが、その背は圭が思うより広く、この世の何よりも頼もしいと信じられる。
 同時に、そこにいる右京が圭には恐ろしいものと感じられた。風のない日の湖のように静かな穏やかさを―それは時として、さざ波揺れることもあるのだが―宿した、圭の知る橘右京は、ここにはいない。
 口調も、物腰も、普段の右京とどこが違うのか、その背のみを見る圭にはわからない。それでも、この右京は違うのだ、と圭は感じ取っていた
「そ、そうよ、俺たちゃ小田桐のお嬢さんに用があるんだ!
 てめぇみたいな、う、うらなりびょうたんは、すっ、すっこんでやがれぇっ!」
 雲散霧消寸前の意地と矜持にすがりつき、ごろつきは叫ぶ。
「そうはいかん。
 貴様らのような無礼不作法な輩を圭殿にこれ以上近づけることはできん」
「お、おま、てめぇは関係ねぇだろうが!」
 右京は冷ややかにごろつき達を睥睨(へいげい)した。
「我が神夢想一刀流は小田桐家にひとかたならぬ御恩を受けている。
 一門たる私が側にありながら、その御息女に何かあっては流派の恥となる」
 右京の声は決して荒げられる事は無い。
 それでも、ごろつき達は気づいた。自分たちを見据える痩身の侍の目には、冷たい焔が、小田桐圭に危害を加える者達を斬り捨てることを躊躇わない怒りの焔が宿っていることに。
「くっ……う……っ」
 ごろつきたちの顔が、あからさまな怯えに彩られる。
「去れ」
 右京は柄に右手をおいた。
 つい、とその前を赤卒が一匹、ゆく。
 それがごろつき達のおそれを弾けさせたかのように、
「お、おぼえてやがれぇっ!」
捨て台詞を吐くと、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
 ごろつきの気配が完全に消えたことを確認すると、高ぶった気を少しでも静めるために右京は小さく息を吐いた。感情を収めないまま圭に声をかけては、圭を怯えさせるかも知れない。
 そうして落ち着きを取り戻してから、右京は圭の傍らに膝をついた。
「圭殿、お怪我はありませんか」
 怒りの色は面には無い。口調も、纏う雰囲気も、圭の知るいつもの橘右京だ。
 何よりもそのことに安堵して、圭は答えた。
「右足を……少し、捻ったようです」
 先ほど突き飛ばされて、倒れ込んだときに捻ったのを覚えている。絡まれていた恐怖に感覚が麻痺していたのか、今になって鈍い痛みと熱を右足首に感じる。
「右ですね。少し痛いと思いますが、我慢してください」
 右京は圭の右足を取り、軽く動かす。
「はい……っ」
 走った痛みに上がりかけた声を、どうにか圭は堪えた。
「……ひどくはないようですが、歩くのは難しいでしょう」
 右京は懐から手ぬぐいを取り出し、細く裂いて圭の足を固定する。手当てしながら、右京は唇を引き結んでいた。そうしていなければ、再び込み上がる怒りと自責の念に耐えられそうになかった。
「……はい……」
 形良い眉を痛みにひそめながら、小さく圭は頷いた。
「申し訳ありませんが、家の者を呼んでいただけませんか?」
「…………」
 手当を終えた右京は、じっと俯いたままで何も言わない。
「右京様?」
「あ、も、申し訳ない。何でしょうか?」
 感情をどうにか抑えつけ、右京は問い返した。
「家の者を迎えに呼んでいただけませんでしょうか」
 訝りながらも圭は言葉を繰り返す。
 聞いた右京は、考え込む表情を見せた。躊躇うように圭の傷めた足を見、圭の顔を見る。
「右京様……?」
 どうしたのだろうかと、圭は右京の顔をのぞき込んだ。
 圭の視線を受け、右京は言った。
「しばらく、お許しを」
「え……?」
 右京の顔が近づく。それに疑問を抱く間もなく、圭は浮遊感を覚えた。
「右京……様……?」
 何がどうなったのか圭が理解したときには、右京は圭を抱きかかえて歩き始めていた。
「お屋敷まで、お運びいたします」
「そんな、いけません」
 耳まで真っ赤になりながら、圭はかぶりを振った。
「お嫌ですか?」
 足を止めて、困った顔で右京は問うた。
「いえ、あの……右京様にご迷惑は……」
「人を呼びになど行ったら、圭殿は一人になるのですよ。
 怪我をされている圭殿を、あのようなところに一人にしておくわけにはいけません」
「で、でも……」
「お嫌でも、どうかお屋敷に着くまで我慢ください」
 困ってはいるが、右京の圭を運んでいくという意志は揺らぎもしない。圭に嫌われようが―それは想像するだに恐ろしいことであったが―圭をおいていくことはできないのだ。
 それに、こうして圭を抱いていることは、右京にとって何物にも代え難い至福であった。今を逃しては、もう圭にこれだけ近づける、触れられることはないかもしれない。
 そう思うと、圭がなんと言おうが自分が圭を屋敷まで運んでいかずにはおれないのである。
「いえ……」
 嫌ではないのです、と小さく圭は言った。
 細いと思っていた右京の腕は、しっかりと圭を抱きかかえている。抱かれていることへの不安はない。それどころか、不思議な心地よさを圭は感じている。ただの「安心」とは何かが違うその心地よさを、もう少し感じていたいとさえも思っている。たとえどのように恐ろしい一面を持っていたとしても、圭は右京が与えてくれるこの心地よさを大切にしたいのだ。
 そうであるからこそ、圭は右京に申し訳なさを抱いてしまう。しかしそれを、なんと言葉にすればいいのかわからないでいる。
 圭が一所懸命言葉を探している間に、右京はまた歩き始めた。圭を人目につかせまいと、裏道を選んで小田桐の屋敷へと向かう。
 自然と遠回りになるのだが、それでいいと、右京も、圭も思った。
 進むうちに、祭囃子は遠くなり、また、近くなる。日がほとんど沈み、闇が訪れ始めている中を、祭の提灯がちら、ちらと走っていくのが見える。
「お祭り……」
 ぽつり、と圭が呟いた。右京を説得するのは諦めたらしい。
「行きますか」
 足を止めて、右京が言う。圭の方は見ずに。もっとも圭に顔を向けていたとしても、闇に包まれつつある中で圭に右京の表情が見えたかどうか。
「…………」
「冗談ですよ」
 答えない圭に、早口に右京は言った。自分自身に言い聞かせるように、付け加える。
「早く戻って、きちんと足の手当をしなければ」
「あの」
 右京が歩を進めようとしたとき、圭がひっそりと言った。
「少しだけ、見ていきませんか……?
 この足では今年はもう、見に行けませんから……」
 右京の足が、ぴたりと止まる。
 今度は、右京が沈黙する番だった。
「……あの……」
「行きましょう」
 努めて平静に、右京は言った。
「ただし、少しだけですよ」
「はい」
 こっくりと、圭は頷いた。
 辺りが暗くて良かったと、心の底から右京も圭も思っている。
 同じ事を互いが思っていることは知らずに。
 右京は、ゆっくりと神社に向かって歩き始めた。
 圭の足に響かぬように、少しでも長くこの時が続くように。
 その傍らを、つがいの赤卒が、つい、と飛んでいった。

                                      終幕

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