卵の殻


 しゃらん、と澄んだ音を立ててシャルロットは愛剣―ラロッシュを抜いた。
――ラサンブレ
 ラロッシュを一振りし、下段でぴたりと止める。
――サリュエ
 胸の前で垂直にラロッシュを構える。
――アンガルド
 右足を引き、半身になり、ラロッシュを握る左手は水平に前へ伸ばし、右手は肘を曲げて軽く挙げる。
――エドブプレ
 軽く息を吸って意識を集中し、闘志を高めていく。
――アレ!
 高めた闘志を解き放ち、
――マルシェ
 素早く間合いを詰め、
――ファーント
 踏み込み、突く。
――ロンペ
 一歩下がり、
――フェイント
 軽く剣先を振って誘い、
――ボンナバン
 懐に飛び込み……
――パワーグラデーション!
 一瞬身を沈め、そこから床を蹴って大きく跳躍する勢いに乗せ、下段から相手を斬り上げる。
 ラロッシュが陽光を弾き、描く軌跡が七色に輝く。
 とん、と軽やかな音を立てシャルロットは着地すると、顔にかかった髪を払う。
 それを合図に、シャルロットを見つめていた船員達が一斉に歓声を上げ、拍手を送った。
「ありがとう」
 シャルロットは優雅に微笑んで賞賛を受けて、ラロッシュを鞘に収める。
「さすがシャルロット様。
 お父上譲りの剣の冴え、船旅を経てもまるで曇ることがありませぬな」
「ありがとう、ミッソン船長」
 同じ礼の言葉を口にしながらも、シャルロットは拍手しながら歩み寄ってくる船長には、優雅さはそのままだが鋭い棘を含んだ笑みを向けた。このミッソンはシャルロットの父の古い友人であり、今はオランダ商船の船長を務めている。シャルロットが鎖国を敷いた東の彼方の島国、日本までやってこれたのも、この男の協力が得られたからだ。
 今日まで随分と世話になったが、それでもその口調が皮肉混じりになるのは抑えられない。
「この剣技も、日本に入ることができなければ意味はない」
 すぐそこに見える小さな島に目を向け、一転、冷ややかに言葉を続ける。
 シャルロットの水色の目が見据えたその島は、出島という。日本が限られた国々にだけ開いた数少ない貿易港の一つだ。特にヨーロッパ―といっても交易しているのはオランダだけなのであるが―に対して開かれているのは、ヴェルサイユ宮殿の庭の一角程度の広さしかないこの狭い出島だけである。
 その出島をもう七日余りも、シャルロットはこの船の上から目の前の出島を苛々としながら見ていることしか許されなかった。今の剣の修練も、日課であると共に苛立ちを紛らわせる為のものだ。
 だがそのようなシャルロットの苛立ちを誰よりも知っているはずのミッソンは、老獪な笑みをもってシャルロットの棘を受け流した。
「日本といえば、通詞から聞いておりますが、難しいと言われる彼の国の言葉もすっかり覚えられたとか。うちの船員どもにも見習わせたいものですな」
「だから、いくら言葉を覚えても日本の土を踏むことができなければ意味はない!
 もう一週間も過ぎてしまったのだぞ! こうしている間にもアンブロジァは我が国を……!」
「左様ですな。では、参りましょう」
 笑顔を浮かべたまま、ミッソンはシャルロットに手を差しのばす。
「何……?」
「出島へ下りる許可が出ました。入国許可はまだですが、出島で少しでも日本の空気に慣れておいてもよろしいでしょう」
 「ですから、参りませんか?」とミッソンの笑顔が問うている。
「……よかろう」
 シャルロットはぶつけようとした不満を逸らされた苛立ちを抱えたまま、ミッソンの笑顔に頷きを返した。


 小舟で出島へ渡ったミッソンとシャルロットは簡単な手続きを終えると、上陸を許された。
「……簡単なものだな」
 もっと面倒な手続きがあるものだと思っていたシャルロットは、拍子抜けした思いで呟いた。
「まだここは日本であって日本ではありませぬ。故に、交易が目的の『オランダ人』には寛容なもの」
 シャルロットと並んで歩きながら、ミッソンは答える。
「オランダ人、か」
 祖国を偽らねばならないことに憮然としながらも、シャルロットは周囲へ目を走らせた。
 並ぶ建物は木造で小さく、二階より高い建物はない。窓に紙が貼ってある粗末な作りの物ばかりだ。
 通りの向こうには畑らしきものが見える。家畜も飼っているらしく、のんきな牛の鳴き声が聞こえてきた。
「オランダ人以外は、この出島にすら入ることはできませんからな」
 言外に、くれぐれも素性を明かさぬようにとの警告の響きがある。
「わかって……」
 ミッソンの言葉に頷きかけ、シャルロットは足を止めた。
「どうされた?」
「あの男……」
 無意識にラロッシュに右手を添えながら、シャルロットは腕を組んで海を見つめている男を視線でミッソンに示した。
 二人から十歩ほど離れたところに立つ男は、日本人だろう。船の中で見た絵に描かれていた「侍」と同じ格好をしている。ただ、髪は結ってはいるが絵の「侍」のように剃ってはいない。隻眼なのか、眼帯をしている。日本人の年はよくわからないが、三十は超えているだろう。
「……かなり、できる」
 シャルロットが低く呟くのに応えるように、男が顔を二人に向けた。明き目は真っ直ぐにシャルロットを見据え、「ほう」と声を洩らす。驚いた風にも、感心した風にもシャルロットには聞こえた。
 男の視線が、つと下に落ちる。その目が愛剣に向けられたことに気づき、また、自分が愛剣に手を掛けようとしていたことに気づいた時、
「手合わせ、願おう」
思わずシャルロットはそう、日本語で言っていた。
「シャルロット様!?」
 言葉はわからなくてもシャルロットの表情と気配に内容を察したのだろう、ミッソンが彼にしては珍しく大声を上げるのも気にせず、シャルロットは男に歩み寄った。
「受けてもらえぬか?」
「……よかろう」
 ミッソンほどではないにしろ、驚いた表情を浮かべていた男はシャルロットの重ねての申し出に不敵な笑みを浮かべ、頷いた。


 抜刀。
 腰の剣を抜き、構えた男の姿に、シャルロットは戸惑いを覚えた。
――二刀流か……
 日本の「侍」は二刀を腰に差しているが、振るうのはうち一刀だけだとシャルロットは聞いていた。もう一刀は万一の時の用心のためであり、それが「侍」の心掛けなのだと。
――聞くと見るとは大違い、か。
 男は右足を引いて軽く膝を曲げる。二刀のうち、短い方の剣を低く、長い方の剣をやや高めに、その刃の丸みで円を描くような構えを取る。
 シャルロットはいつも通りの構えを取る。右半身となり、ラロッシュを持った手を水平に伸ばし、後方に引いた右手はバランスを取るために軽く曲げる。
 構えたまま、二人は無言で互いに相手の様子を伺う。
 先に仕掛けたのはシャルロットだった。
 軽くステップを踏んで間合いをつめ、男の長刀の間合いぎりぎりのところで踏み込み、突きを繰り出す。
 男はすいと右足を引いて僅かに身を沈めながら、短い方の刀を下段から切り上げ、シャルロットの突きを弾き返す。
 男が口の端をぐい、と上げ、笑みを浮かべる。明き目に浮かんだ年に合わぬ無邪気な愉悦に何故か、シャルロットは背筋を冷たいものが伝うのを感じた。
 笑みと共に男は長刀を右斜めに振り下ろす。
「シャルロット様!」
――!!
 ミッソンの警告の声が、凍り付いていたシャルロットを突き動かした。ぎりぎりのところで男の刃を受け止め、渾身の力を込めてはじき返し、大きく飛び離れる。
 男は追い打ちをかけることなく、間合いを取った。
 そして、ゆっくりと二刀を鞘に収める。
「ここまでといたそう」
 静かに、少し残念そうな口調で告げる。シャルロットが寒気を感じた愉悦は、男の何処にももう存在していなかった。
「なに!?」
「抜き身でこれ以上続ければ、どちらかが血を見る。
 この出島でそのようなことは起こすわけにはいくまい」
 「どちらか」と言いながらも男は自分が血を流すとは思っていないのが、その声からも表情からも伝わってくる。揺るぎない男の自信にシャルロットは圧倒され、頷いてしまっていた。
 ミッソンが安堵の息を洩らしたのが聞こえる。
「よい手合わせであった。異国の剣、面白きものよな。
 機会があれば、もう一度手合わせ願いたいものだ。今度は最後まで、な」
 また不敵な笑みを浮かべてそう言うと、男は二人に背を向けた。
「待て!」
 抜き身のラロッシュを手にしたまま、咄嗟にシャルロットは男の背に叫んだ。
 男は足を止めると、怪訝な顔で首だけ振り返る。
「名を名乗れ。名を知らないままではもう一度の手合わせなどできん!」
「……そうであったな」
 男はシャルロットに向き直った。
「我が名は、柳生十兵衛」
「私はシャルロット。ヤギュウジュウベエ、次は、必ず」
 睨み付けるように男を見据え、シャルロットは言った。
「十兵衛、でよい。シャルロット殿、楽しみにしておるよ」
 シャルロットの視線を先に見せたのと似た楽しげな表情で受け止め、十兵衛は二人に背を向けた。
「十兵衛……侍の剣技……か。
 確かに、面白い……」
 シャルロットは歩み去る十兵衛から視線を逸らし、ラロッシュを一振りして鞘に収めると、くるりと踵を返した。
「シャルロット様?」
「船に戻る。船長、私の入国許可が一刻でも早く出るように、手配を頼む」
 早口に言い、返事を待たずに歩き出す。
 一刻も早く船に戻り、今の手合わせの感触を忘れないうちに剣の訓練をしたかった。
 あの男に怯むようでは暗黒神に打ち勝つなど叶わない。


 数日後、シャルロットに日本への特別の入国許可が幕府から出た。
 その裏に、幕府の公儀隠密であった柳生十兵衛の働きかけがあったことをシャルロットが知るのは、そして同じ邪悪を討つ道で十兵衛に再会するのはまだ先のことである。
                                            終幕

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