「御老公様、お願いです。 このアキも、一緒に連れていってください」 きちんと手をついて、少女は徳川光圀―言わずと知れた天下の副将軍、水戸黄門である―に頭を下げた。 ――アキ? 光圀は、頭を下げたままのアキに、僅かに首を捻った。 アキは伊賀忍の柘植衆頭領の孫娘だ。それ故に幼さには似合わぬ芯の強さを持った少女であるが、今日は何かおかしい。伊賀での攻防戦の時に見せた頭領の孫娘としての振る舞いとも似ているが、それとはどこか違うものも感じる。 「アキや、何があったのです?」 優しく問いかけても、アキは沈黙したままだ。 ふむ、と困惑して光圀はアキを見つめた。 アキを連れて行くことは構わないと光圀は思う。まだまだ幼いが、利発なこの少女が同行する旅は楽しいものだ。広く世を見ることはきっと少女の役にも立つ。光圀の旅では危険なこともしばしば起きるが、少女には頼りになる守役の忍、「風の鬼若」がいるので大丈夫だろう。 気になるのは、妙に改まったアキのこの様子だけだ。 「アキ……?」 光圀がもう一度促すと、アキはようやく口を開いた。 「……御老公様が加賀に参られると伺いました。それで私も、見聞を広める為に御一緒したいと思ったのです。 どうぞ、お許しください」 頭を下げたまま、アキが答えたのは、それだけだった。 「……わかりました。では、訳は問いません。 一緒に、参りましょう」 「御老公様!」 光圀が優しく言うと、アキは顔を輝かせて顔を上げた。 「アキちゃんが一緒だと、私も、嬉しいですよ」 「ありがとう、じぃじ」 いつもの様子に戻ったアキに、光圀もまた嬉しそうにほっほと笑った。アキの事情はその内にわかるだろうと、心の中で頷きながら。 光圀の隠居所である西山荘を弾んだ足取りで後にしたアキであったが、次第にその足取りは重く、顔は俯きがちになっていった。 ――夜叉王丸が、生きていた。鬼若がやっつけたと思っていたのに。 鳴神の夜叉王丸。甲賀忍者だ。 かつてアキの命を狙い、アキを守る鬼若と戦った。その戦いの中で鬼若の力を認めた夜叉王丸は、鬼若を宿敵として狙うようになったのだ。 だが、夜叉王丸は死闘の末に鬼若が倒したはずだった。 ――それなのに。 夜叉王丸が生きていたことを、自分に報告した鬼若の顔が忘れられない。 とても真剣で、とても優しくて、そして、泣き出しそうな顔だった。 だからアキにはすぐに、鬼若が何を考えているかがわかった。 優しい鬼若は、アキに危害が及ばないこと、それを一番に考えている。そのために一人、どこかへ行ってしまおうと考えている。そうすれば夜叉王丸は鬼若を追ってくるに違いないのだ。 でもそうしたら、アキは一人になってしまう。ずっと一緒だった鬼若がいなくなれば、どれだけアキは寂しい想いをするだろうか。 それを知っていてもなお、鬼若はアキの身を守ることを選んだ。だから、鬼若は泣きそうな顔をしたのだ。 鬼若は忍の癖に感情を隠すのが下手なのだ。 「鬼若の、ばか」 鬼若の考えていることはわかっても、アキには納得など出来ない。鬼若と離れたくない。 夜叉王丸は強い。戦えば鬼若でも無傷ではすまない。そんなのは、鬼若が自分の知らないところで傷つくのは、アキはもう嫌だった。 伊賀攻防戦の時の怪我をした鬼若。 鬼若と夜叉王丸が最後に戦った時にアキが視た、鬼若が倒れる幻影。 どちらの時も、アキの為に鬼若は戦い、怪我をした。そして、どちらの時もアキは鬼若を戦わせるしかなかった。 ――アキが、伊賀の頭領の娘だから。 でも、もう鬼若が怪我をするところは見たくない。視たくない。 それに、一人で行ってしまえば、鬼若は死んでしまうかもしれない。相手は鳴神の夜叉王丸、どんな手を使うかわからない。 ――そんなのは、いや。アキは鬼若とずっと一緒にいたい。 そしてアキが見つけ出した答えが、水戸のじぃじ――水戸黄門こと、徳川光圀と一緒に旅に出ることだった。光圀が加賀へ行くことを、じぃじの家来の助さんと格さんが話しているのを聞いたときに、思いついた計画だ。 安全な水戸になら置いて行くことが出来ても、旅に出るアキを放っておくことは鬼若には出来ないはずだ。夜叉王丸のことがあっても、きっとついてくる。そうすれば、鬼若が夜叉王丸に会いに行くことはない。 夜叉王丸が追ってきても、その時は、自分も一緒だ。 強い決心を固めたアキは、不意に、視線を上げた。 「アキ様」 その前に、音もなく一人の巨漢が降り立った。 巌のような体躯でありながら、人なつこい犬のような顔をしたこの男が「風の鬼若」であった。 「鬼若……どうしたの?」 「御老公の元へ行かれたと伺ったので、お迎えに」 「そう」 頷いたアキは、一つ、息を吸った。 「鬼若、私、じぃじと一緒に加賀へ行くから」 「アキ様!?」 鬼若が目を見開いて驚きの声を上げる。 「じぃじはいいって言ったもん」 いつも通り、いつも通りににっこりと笑って巨漢の忍を見上げた。 アキの視線からずっと高いところで、くしゃりと鬼若の顔が歪んだ。困っているのだ。 アキの安全を一番に考える鬼若は、アキが旅に出ることを良いとは思わない。だが、主であるアキに逆らうことはない。しかも光圀も許しを出したと聞けば、反対など出来ようもない。 一歩近づくと、アキは鬼若の着物の裾を掴んだ。 「一緒に、来るよね」 「……アキ様」 「来るよね、鬼若」 軽く小首を傾げて念を押す。 「…………」 鬼若の眉がぎゅっと寄せられ、口がへの字に曲がる。 「ね?」 「……はい。お供いたします」 アキのだめ押しに、とうとう鬼若は頷いた。巨漢の顔は、困りすぎて泣き出しそうにも見える。 「わぁい! 鬼若、大好き」 ぴょんと飛び上がって、アキは鬼若の腰に抱きついた。その小さな体を、ひょいと鬼若が抱え上げる。 「でも、アキ様、危険なことはしてはいけませんよ」 自分の肩の上にアキを乗せ、泣きそうな顔のままで鬼若は言った。 「大丈夫、だって、鬼若が守ってくれるんだもん」 自分のいつもの場所でにこっと笑うと、アキは答える。 「それは、そうですが……」 少しばかり不満そうな鬼若の頭を、えい、とアキは抱きしめた。 「アキ様?」 「信じてるからね、鬼若」 ――そのかわり、鬼若は私が守ってあげる。 鬼若の頭を抱きしめたまま、アキはその小さな胸の中で呟いた。 終幕 |