山間の夢


 山は、夏の気に満ちていた。
 強い日差しの下、積もった落ち葉から熱気がゆらゆらと溢れ、茂った草木がそれを抱きかかえる。もっと山深くなれば涼しくなるのだが、この辺りの風もない昼間の山は、ひたすらに、暑い。
 更に蝉の声が、暑苦しさに追い打ちをかける。
 されど、細い山道を歩む服部半蔵――煤竹色の筒袖と伊賀袴姿で、笠をかぶっている――は、夏の熱気をまるで感じていないかのように早足に歩を進めている。
 半蔵は任を一つ終え、出羽の里へ戻るところであった。
 と、僅かに、半蔵の眉が寄った。
――む……
 眉を寄せた半蔵の視線の先には、若草色の着物に赤いたすきを掛けた娘の姿があった。道端の木を片手で掴んで山の斜面に身を乗り出している。
 娘は、少し前から半蔵の視界に入ってはいた。何かを捜しているのか、足下をしきりに気にしながら、半蔵に向かって歩んできていた。
 もっとも、半蔵が眉を寄せたのは娘が危なっかしく身を乗り出しているからではない。
 近付いたことでよく見えるようになった娘の顔を、半蔵は知っていたのだ。
――……風間の……要の娘、か。
 かつて島原に出現した魔城の天守で、半蔵はこの娘を見た。
 娘は、風間忍群の者であった。名を葉月と言ったか。生まれながらにして特異な力を持っていたらしく、その力に目をつけた天草四郎時貞が、己が魔城の要にとこの娘をさらったことがあった。
 そして娘を救うために、一人の風間忍が里を抜け、一人の風間忍が追っ手となった。
 抜けた忍――風間火月も、追っ手の忍――風間蒼月も、娘の兄であったことまでは半蔵も知っている。だが島原の地から再び災厄が打ち払われた後、火月と葉月の詳しい消息は知らない。島原の災厄の後に起きた、いくつかの異変に風間の弟妹もまた、巻き込まれたことを見聞きしたのみである。
 もっとも、ここでこうして葉月が元気でいるということは、おそらくは火月も健在なのだろう。
――面倒が起きねば良いが。
 あの時は要として、意識までも囚われていた葉月が半蔵のことを覚えているはずはない。しかし、この娘の近くには必ずあの風間火月がいるはずだ。今は気配は感じないが、いつ現れるか分からない。
 火月は半蔵を知っている。敵対はした覚えはないが、友好的な知人とはいえない。出会えば、少々のやっかいごとが起きるだろう。それはできる限り、避けたいところだ。
 杞憂となればよいと半蔵は思うが、起きては欲しくないことが起きるのが現実の一面である。

 ずるっと、娘の足が滑った。

 咄嗟の決断が速いのは、忍の性である。
 取った行動を受け入れ、次の手を考えるのが速いのも、また性である。
 よって山道から滑り落ちかけた葉月を、その腕を掴んで道に引き上げた半蔵は、足早にその場から去ろうとした。
 だが、起きて欲しくないことは、えてして続くものだ。
「あ、待ってく……っ」
 半蔵を留めようとした葉月の声が、途中から苦痛のそれに変わる。
 胸の内で、半蔵は一つ溜息をついた。

「すみません……」
 半蔵の背で、消え入りそうな声で葉月は言った。
「気にするな。
 家は、この方向で良いのか」
「はい。この道をこのまま辿れば」
 それきり、会話は途絶えた。半蔵としては一刻も早く葉月をその家に送り届けてしまいたいところであるし、葉月は恐縮しきっている。
 先と変わらずやかましく鳴き喚く蝉の声が、耳につく。
 夏の暑気の空気が、じっとりと身にまとわりつく。
 沈黙が、重い。
 再び半蔵は胸の内で溜息をついた。
「何を、探していた」
 もっとも無難だと思われることを、問うてみる。
「え、……あ、櫛、です。」
 唐突な問いに戸惑いを見せたが、素直に葉月は答えた。
「櫛か」
「はい、これです」
 葉月は手に握っていたそれを、半蔵に見せる。
 少し泥に汚れてはいたがその櫛は、朱塗りの上等なものだった。月とうさぎの彫り跡が黒みを帯びており、黒漆の上に、朱漆を重ねて塗った上で彫刻を施した細工と見えた。凝った造りである。
「蒼月兄さん……あ、私には二人兄がいるんですけど、上の兄が蒼月といいます。
 その蒼月兄さんが、私が十五になったときにくれた櫛なんです」
 半蔵が自分たちの素性を知っていることに気づく由もない娘は、丁寧に説明する。
「……ほう」
 今や風間忍群の頭領である「風間蒼月」を半蔵は思い返した。冷艶、怜悧、冷徹などの言葉が似つかわしいあの忍が、妹とはいえ女人に櫛を贈ったというのか。
 意外だ、と半蔵は思い、おそらくは蒼月本人もそれを認めるだろうと、思う。
 一方で、半蔵は納得もしていた。
 この娘はそれだけあの食えない忍にとって大切なのだ。だからこそ、風間蒼月もまた妹の生存を知っているだろうに、追わずにいる。
 おそらくは蒼月本人はそれを認めないだろうと、半蔵は思った。
「『母上の形見』だって、言っていました。
 そろそろお前に渡しておきましょうって……」
「母御の、と言ったのか?」
 もう一度半蔵は櫛に目を向ける。
――それにしては、新しい。
「はい」
 背の娘の顔は、半蔵には見えない。
 だが、娘が優しく微笑んでいる気配は確かに、感じられた。「妹」ではなく、慈母のものにも似た笑みだと。
「……私、前に住んでいたところから、出ないと行けないことになって、ここで暮らしているんです。
 本当に……急、でしたから、この櫛を持っていくこともできませんでした」
 葉月は言葉を濁したが、話しているのは島原にさらわれたときのことだろう。
「その時、この櫛を届けてくれたのも、蒼月兄さんでした」
「…………」
 半蔵は無言で、娘に話すがままにさせていた。
「あ、直接兄さんから受け取ったわけじゃ、ないんです。
 私が気がついたとき……家にあったはずの櫛が、懐にあって……
 でも……わかったんです。蒼月兄さんだって」
 半蔵の首に回された娘の手に、力がこもった。
 溢れそうになる想いを、抑えようとするかの如く。
 故に半蔵は、ただ頷くだけに留めた。
 雲でも流れたか、ふうっと、照りつける日差しが弱くなった。


 山中の小さな家――元は打ち捨てられた炭焼き小屋だったようだ――に着くと、半蔵は葉月の挫いた足に手当を施した。今は歩けないが、葉月は若い。数日もすれば痛みも消えるだろう。
「すみません、火月兄さんがいれば、ここまでご迷惑は……」
 申し訳なさそうに言う葉月の着物の袷から、しまわれた櫛が僅かに覗いて見える。
「気にするな」
 当然ながら葉月には言えないが、半蔵としては火月がいない方が無用な面倒を避けられるのでありがたい。
 それに、迷惑ではない。関わったのは半蔵自身の意志によるものであるし、一度関わったことに中途で手を引くと、却って悪いこととなる。
――興味深い話も、聞けたことであるし。
 もう一つの理由を胸の内で呟く。今日のことを風間蒼月に話すつもりは半蔵にはもちろんない。だが、これからはあの忍を見る目が少々変わりそうである。
「これでよかろう」
 包帯を巻き終わると、半蔵は立ち上がった。
「ありがとうございました。
 あの……」
 深く、葉月は頭を下げた。そのまま、少しためらいがちに言葉を続ける。
「助けていただいて勝手を申しますが、今日のこと、ないしょにしていただけませんか?」
 半蔵の素性に気付いているのか、いないのか。葉月の口調からはわからない。それでも願いの真剣さは強く伝わってくる。
「お願いします」
「……内緒、か」
「はい……?」
 葉月の言葉を繰り返した半蔵に、きょとんと葉月は顔をあげた。
 それは、半蔵の声にほんのわずか、笑ったような響きがあったからかもしれない。
「承知。他言はせぬ」
 まだきょとんとした顔で、しかし真っ直ぐに自分を見上げる葉月の目を半蔵は受け止める。
 半蔵の言葉を理解したのか、見る間に葉月の表情は驚きから笑みへと変わっていく。年頃の娘らしい、日輪のような笑みだ。
――きれいな目だ。
 その目に、その笑みに半蔵は、一人、思い出していた。その様な己を隠すように、葉月に背を向ける。
「ありがとうございます!」
 半蔵の背を、元気で心から嬉しそうな葉月の声が追った。
「……数日は、出歩くのは控えることだ」
 それだけを告げて、小屋を出る。
 ありがとうございます、もう一度言う葉月の声が聞こえた。


 外は、まだ暑い。
 先ほどの雲はもう過ぎ去ったのか、強い日差しは戻っている。
 蝉の声はまだまだ静まる気配がない。
 だが葉月と出会う前と同じく、半蔵は暑さを感じた風なく黙々と歩む。振り返ることなく、足早に。
 だがその目元には、優しい光のかけらが浮かんでいた。
                         終幕

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