不意に、店がざわめいた。
「……ん?」
 ざわめきの元へ目を向ければ、一人の侍が入り口に立っている。
 空色の羽織を着ており、結い上げた髪にぐるりと渦を巻かせた変わった髪型をした、端整な顔立ちのあの若い侍。さすがに眠ってはいないようだ。それでも、眠たげな半眼をしている。
――よっぽど、寝るのが好きなんだな。
 若い侍は誰かを捜すように、店内を見回す。その眼がふと、覇王丸に止まった。
 澄み切った蒼い、空。
 それを思わせる曇りのない静かな眼差しはもう、半眼ではない。その目にあるのは、鋭利で清冽な闘志。
 殺気こそないが、覇王丸の魂に在るものを、その目は確かに揺さぶった。
――イイ目をしてやがる。
 覇王丸の口元が不敵に歪む。若い頃なら、迷わず声を掛けて立ち合うことを求めただろう。
「知っているのか」
 若い侍に僅かに視線を向け、男が低く問う。
「いや、こっちに来てから何度か見た顔ってだけだ」
 若い侍が、店の隅の席に座るのを視界の端で見ながら、覇王丸は答えた。
「……ほう」
 覇王丸の盃に酒を注ぎながら、男は低く声を洩らした。
「知っているのか?」
「否とは言わぬ」
「……忍ってのは面倒だな」
「この年までつきあえば、気にはならん」
「この年になる前は、そうでもないと?」
「もう、忘れた」
 言いながら、男は小銭を机の上に置いた。
「あん?」
「酒代だ」
「おいおい、まだほとんど話してないぜ」
「忍は色々面倒でな」
 答える男の目が、入り口に向く。その視線の先に、中年の侍の姿があった。小柄なその侍は、自分の背よりずっと長い十字槍を手にしている。
 覇王丸はその侍を知っていた。
「迅じゃねぇか」
 侍の名は花房迅衛門。覇王丸の古くからの友人であると同時に、幕府に仕える御庭番である。
「若、勝手に行かれては困りますぞ!」
 迅衛門は小料理屋の一角に目を止めるとと、大きな声で呼ばわった。そのあまりの大きな声に、一瞬、酒場がしんと静まり返る。
 しかし男は気にした様子もなく、ずかずかと店の中に入ってくる。
「若!」
 男が声を掛けているのは、店の隅の席でじっと座って――いや、眠っている、あの若い侍だ。こんな状態でも眠っているのは、さすがと言うべきか。
――迅の連れか……って事は、あいつも御庭番。なるほど、御庭番衆と伊賀衆……色々ある、ってか。
「覇王丸」
 迅衛門達に向けられていた覇王丸の意識を、男の声が引き戻した。
 音もさせずに、男は椅子から立ち上がる。
「話はこの次に」
 低くそれだけ言うと、男は覇王丸に背を向けた。
「あぁ、頼む」
 その背に、答える。
 男は覇王丸の言葉を背で受け止め、店を去った。
「この次……か」
――忍と次を約束するとはねぇ。
 クックと愉快な気分で笑うと、覇王丸は男が満たした盃の酒を、ぐいと飲み干した。

                              終幕

「これやこの」目次へ