三 わがこひは


 青年はそれからしばらくして、いなくなった。だがときどき不意に訪れて、しばらく綾女の元に滞在する。それはたいてい、何か用があるときらしい。綾女が、「たまには単純に師の機嫌を伺いに来る、ということができんのか」と言うぐらいである。
 「だが」とある時綾女は冴に言った。
「この間までは、用を済ませるとさっさと出ていきおった。最近はしばらくはいる。ありがたいことだ」
 ありがたい、というのは雑用をさせることができるかららしい。
「なぜでしょう?」
「さあ?」
 どこか含みをもたせて綾女は言ったのだが、冴は気づかなかった。
 冴は青年が来る、と聞くたびに、綾女の庵に出かけている。綾女とそんな会話をしたのも、その中のある時だ。
 行けば必ず金の髪の青年と剣を交え、組み合い、手裏剣を打つ。
 それらは初めて会ったときから変わっていない。
 だが回を重ねれば何かは変わる。
 変わったの、は。
「きれいだよね」
 それは初めて会ってから一年ほどたった、春。
 青年は言ったのだ。
「何が?」
 冴は、隣に座る青年の方に顔を向ける。隣、と言っても人一人がそこに座れるぐらいの間が取られている。
 一年も経つのに、冴の口調は硬い。そっけないといってもいい。だが青年は気にした風がない。慣れてしまったのか、「何か」に気づいているのか、
――鈍感なのか。
 普通、これだけの態度をとられ続ければ、大抵の者は自然と遠くなる。
 なのに青年は変わらない。
「冴の動き。悪い癖がないし、無駄もない」
 明るく元気な声で、言葉を続ける。
「そう」
 褒められて悪い気はしない。むしろ、嬉しい気がする。ただ褒められたからというだけでなく、なぜか。
 そして何故か、胸の奥がほのかに熱くなる。
 なぜか。
 だがそれでも、口調は硬く、そっけない。
「やっぱり半蔵殿に教わってるせいかな」
「そうかも、しれません」
 頷く。
 実際のところはわからない。半蔵も、最初に冴に技を教えた父も、事細かに指導する者ではなかったから。
「いいなぁ」
「いい?」
「俺も、半蔵殿にもっともっといろんなこと教えて欲しいんだけどなぁ」
 つん、と青年は自分の金色の前髪を引っ張る。口調こそ残念そうだったが、その態度には屈託がなかった。
「……そう」
 どう答えたらいいのかわからなかった冴は、また硬く、そう言うだけだった。
 だが半蔵の名を聞いたことで、思いだしたことがあった。
「あの、『気持ち』って、どういうこと、ですか?」
「『気持ち』?」
「半蔵様と、手合わせをしたときに、言っていたでしょう」
 初めて青年を見たあの日、手合わせを終えたとき、半蔵は「あとは」と言い、青年は「気持ちですね」と続けた。
 お互い、わかり合って言っているようだったと、後で冴は思ったものだ。あれから二人が手合わせするのを見たことはないが、ひょっとしたら、そのたびに、そう言っているのではないかとも。
 あの時はさほどにも思わなかったが、羨ましいと今は思う。半蔵とそんな会話を交わしている青年ではない。青年とそんな風に話せる半蔵が、羨ましかった。
「ああ、うん。あれはね、俺がどうしても…うーん、なんて言うのかなぁ、『忍』になりきれないってこと、かな」
 どこか困った顔で、だが、真面目に青年は答える。
 冴の目を見て。
「なりきれない?」
 目を逸し、冴は問い返した。
 それは多分に、無邪気な問いだったろう。ただ疑問に思い、問う。それだけだったのだ。
 だが、冴の思う以上に真剣に、青年は答えた。
「俺は、相手を殺したくないから。
 忍は場合によっては、相手を殺すことも厭わない。目的を果たすためには、しょうがない。それはわかる。それにこれは、忍術に限ったことじゃない…
 だけど俺は、殺したくないんだ」
「どうして?」
 その真剣さに幾らか戸惑い、その言葉に幾らかひかれ、驚きながら冴は問いを重ねる。
「正義の味方は、罪を憎んで人を憎まず。みだりに殺したり、傷つけたりするものじゃない」
 青年はきっぱりと力強く、そして何でもない当り前のことを言うように、言った。
「でも」
 冴とて知っている。忍が正義ではないことを。だがそれは、世を支えるために必要なものであるということを。
「そう。だから、『気持ち』の問題、なんだ。
 「でも」を超えられるか、超えられないか。俺は、超えられないけどね。
 だから、俺には半蔵殿に届かないものがあってしまう…」
 言う青年の表情にはしかし、『届かないこと』を残念に、あるいは悔しく思うものはなかった。
 それでいいと、自分の道を見極め、迷いなく進んでいる、そんな表情であり、口ぶりであった。
――「超えられない」んじゃない。「超えない」。わかってて、超えない。
 そう思った。そしてそれをこの青年は誇りに思っている……。
 冴は目を細くした。
 青年の中に輝きを、忍の役目とは最も縁遠い輝きを見たように思った。
 太陽の光と、同じ輝き。
 それが、まぶしく感じられたのだ。
「あなたのような方が、なぜ……」
 ほろり、と言葉が唇から落ちる。
「ん?」
「なぜ、あなたみたいな人が、忍、に」
 忍はどうあがいても影の存在。与えられる役目も、その意味も。
 それが悪いとは思わない。そんな存在も必要、むしろ、他者が容易にできるものではないと誇りにさえ思う。だが、この青年には合わない、遠いものだと思わずにはいられない。
 太陽は、影には遠過ぎるものだ。
「憧れだったんだ」
 立ち上がって、青年は空を見上げた。
「子供の頃、俺は、忍は悪をくじき弱きをたすく正義の味方とか、そんなこと聞いて育ったんだ。だから、俺は忍に憧れた。正義の味方になるのが夢だったし。
 ちょっと勘違いだったけどね」
 照れくさそうに、頭をかく。
「だけど一度始めたことだから。
 それに、憧れは自分で叶えるものだから。
 だから俺は正義の忍になることにしたんだ。例え人から違うって言われても、俺にとっての忍を俺が実現する、そう決めたんだ」
 厳しさをどこか感じさせる声でそう言うと、ガルフォードは冴に顔を向けた。
 はにかんで笑い、また頭をかく。
「ほんとはまだまだ、えらそうにこんなこと、言えないんだけどね」
「ううん」
 冴はそう言い、首を振った。
 初めて『異人』の話を聞いたときに感じた抵抗感は、もう消えていた。
――変わらない。
 同じだ、と思う。姿は違っても、同じようにいろいろと考えて、悩んで、一所懸命に生きて。
 だけどやはり、冴の意志に反して、声は小さく、動きも微かだった。
 だがガルフォードはにこにこと、嬉しそうに笑っていた。


 その夜の空に月はなかった。細い月はとっくに沈んでしまったのだ。
 残された星は、淋しげに弱く、光を放っていた。
 その星明りの下に、半蔵は冴の姿を見つけた。里長の家に出かけて、戻ってきたところである。
「どうした?」
 冴は庭先で、一人、立っていた。昼間と変わらぬ格好で、一人。
「一つ、お伺いしたいことがあります」
 稟、と半蔵を見上げて、言う。
「なにか」
「半蔵様はガルフォード殿のどこを認め、どこを認められぬのですか」
 半蔵の鳶色の瞳に、刹那、何とも言えぬ色が走ったが、冴からはその顔は陰になっており、わからなかった。
「お聞きしたいのです」
 一呼吸おいた半蔵を逃さぬように、強く、言う。
 それに従ったわけではないだろうが、ゆっくりと、どちらかといえばとつとつと、半蔵は言葉を発した。
「お主は見、会い、剣を交え、話も、しただろう」
「……はい」
 冴は実は、半蔵には何も言わず、綾女の庵へ行っている。いままでそのことを話したことはない。だが、当然のことかもしれないが、半蔵はそれを知っている。その声にとがめる響きはなかったが、冴の顔は赤く染まっていた。
 知られていたことを恥じたのか、勝手なことをしたと恥じたのか、それとも全く他の理由のせいか、冴はわからなかった。わからないが頬はほんのりと熱く、熱を持っている。
「ならばもう、わかっているのではないか」
 それを見ているのか見ていないのか、半蔵は低い、感情の捕らえにくい口調で言葉を続ける。
「あとは」
――あ。
「気持ち、ですか」
 するりと言葉を続けていた。
 ガルフォードの笑みが、胸をよぎる。
 ことん、と何かが踊る。
「そういうことだ」
「はい」
 こっくり、と頷く。
「明日も、ゆくか」
「……はい」
 答えたのは、僅かな逡巡の後。
「ならばこれを渡してくれ。頼まれていたものだ」
 布にくるまれた何かが、半蔵の手から冴の手に渡る。それほど大きくはないが、重い。
「苦無、ですか?」
「うむ。
 ここの産のものがよいのだと。急に来て、無理を言うことだ」
「では、こたびはこのために?」
「ああ。こんなもののためにな。おかしな者よ」
 忍にとっては、刀を始め武器は道具に過ぎない。よいにこしたことはないが、こだわる者はまずいない。
 だが冴には、ガルフォードがこだわることが少しも不思議でなかった。むしろ、らしい、とも思う。
『俺は正義の忍だから』
 そう言うだろうと、思う。
「承知致しました。必ず、お渡し……くしゅんっ」
 春が訪れたとはいえ、出羽の夜の大気はまだまだ冷たい。
「家へ入れ。明日も早い」
「は、はい」
 今度ははっきりと理由がわかる恥ずかしさに顔を真っ赤にして、冴はやや早足に歩き出した。
 その背を見ながら、半蔵は思う。
――『ガルフォード殿』、か……
 どことなくたどたどしい呼び方であった。だが、初めての時にあった妙な敵愾心は無くなっていた。
――許せるか?
 先ほどはちらと目に浮かんだだけの複雑な色が、今度は顔に現れていた。
 常には見せない、半蔵の『人』の表情。
「さて…お主なら、どうする?」
 そのまま視線を空に上げ、呟いた言葉は今宵の星のようにおぼろで、冴までは届かなかった。


 次の朝は、風が吹いていた。いつかのように、いつもの春のように、春を運ぶ風が、吹いていた。
 冴はいつもより早く、山に入った。
 もっともその時にはもう、半蔵の姿はなかった。任を受け、日が姿を見せる前に、里を出たそうだ。
 『苦無』を渡すことを頼んだのはそのせいだろうと、冴は思いつつ山道を歩んだ。
 いつもより早かったけれども、ガルフォードは、いた。一人、己の修練に励んでいたようである。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「そうですか」
 冴の口調は硬い。
「ガルフォード殿、これを」
 しっかりともっていた包を手渡す。
「ありがとう」
 嬉しそうに受け取ると、包を開く。
 見るとはなしに、冴はそれを見ていた。
 包の中には十本ほどの新しい苦無があった。
「やっぱり丁寧に作ってあるな」
 やはり嬉しそうに見ている。まるで新しい玩具をもらった子供のようだ。
「そんなにここのものがよいのですか」
「うん。
 たぶん、原料の関係もあるんだろうけどね。
 俺にはこれが一番しっくりくる。半蔵殿にはいつも無理を言うことになってるけど。
 おかしな奴だって、言ってただろ?」
「……ええ」
 あの時の半蔵の顔―と言っても、暗くてよく見えず、雰囲気を感じ取っただけなのだが―を冴は思い出しつつ、頷いた。
 言葉こそ皮肉混じりだったが、雰囲気には優しいものがあった。
「やっぱりね」
 ガルフォードも、笑む。とても、苦無を受け取ったときよりも嬉しそうに。
「『おかしな』と言われるのが、それほど、嬉しいですか」
 余りにも嬉しそうなので、冴は問うていた。
「それは嬉しい、とは言えないよ。
 俺が嬉しいのは」
 小さく一歩、冴に近づく。
「冴が、笑ってくれたこと」
「えっ」
 思わず自分の頬に手をやる。
 全くそんな気はなかった。
「初めてだよ」
「そう、ですか?」
 冴は人に笑みを見せることは多くはないが、少ないとか、滅多に笑わないとかいうことはない。
「うん」
 少し気まずげに、少し照れた風に、頷く。
「そう…」
「やっぱり、笑った方がかわいいね」
「かわいい? 私が?」
 そんな風に言われたのは初めてである。冴も自分が『かわいい』などと思ったことはない。
「からかってるんですか」
「からかってなんかないよ」
 本気でそう思ってるのがわかる。わかるだけに、困る。
「……………」
 こういう時、どういう風に反応すればいいかなど、冴は知らない。
 困っている。
 だがガルフォードは、苦無をどこへやらにしまうと―実際、手品のように装束のどこかに収めてしまっている―あっさりと言った。
「さ、始めようか」


 今日の冴は、集中できなかった。
 「かわいいね」と言われたことが頭の隅からはなれない。それがきっかけになったのか、いままでガルフォードに言われたこと、自分が答えたことがぐるぐると回っている。
 こんなことは初めてである。人の言動に捕らわれ、集中を欠くのは。だがそれを言うなら、ガルフォードに出会って以来、冴は初めて感じたことをいくつも経験した。
 心騒ぐ、だが消して不快ではない想い。
「冴っ!」
「え?」
 左手首に、鈍痛。
 持っていた刀が落ち、冴は膝をついた。
「大丈夫かい?」
 真剣な青い色が、間近に見える。
 冴は状況を理解した。剣を合わせていて、それを落とされたらしい。しっかりとしていればどうと言うことはなかったのだろうが、集中を欠いていた冴は、力の受け流しを誤ったのだ。
「手には当たってないけど……」
 冴の手を、まず右手から、そして次には左手をとり、子細に具合いを見る。
「……!」
 左手をとられたときに、鈍い痛みをまた、感じた。
「ごめん。
 少しくじいてるかな。どれぐらい痛い?」
 やさしく、そっと、動かしてみる。
「……そんなに、ひどくはないです」
「ならいいけど」
 言いながらも、心配そうである。
 どこからか取り出した薬草をその手首に当てがい、包帯を巻く。慣れた手つきだ。
「ちゃんと手当しとかないとね」
「だいじ……大事、ありません」
 蚊の鳴くような声、になりかけたのをとどめ、声を振り絞る。
 痛むことは痛むが、心配をかけたくない。ちゃんとそれを伝えたい。
――伝え、たい。
 そう思ったから、はっきりと声を出した。
『あとは気持ち』
 ぽっかりと、半蔵の言葉が浮かんだ。
「ありがとう」
 自然と笑みになっていた。痛みを堪えつつではあったけれども。


「さて、と。今日は終わりにしようか」
 ほっとしたようにガルフォードが言ったのは、山の端に日が傾いたときだった。
「ええ」
 汗をうっすらと額ににじませ、冴は頷いた。
 手首が痛むせいである。ガルフォードは気遣って今日は休もうと言ったのだが、冴は続ける、と言って聞かなかった。
 実際、修練できないほどの痛みではなかったし、この程度で弱音を上げてはならない、と思っているからである。
 あくまでも、それだけのつもりだ。
「大丈夫かい?」
「はい。
 明日になれば痛みも引くでしょう」
「よかった…」
「そんなに気にしないでください」
「うん…うん?」
 頷いて、ガルフォードはぱちくりと目をまばたかせた。
「どうかしましたか?」
「いや、うん。なんでもないよ」
――なんか違ったような気がするな。
 冴の声の硬さとそっけなさが和らいでいたのである。完全に消えたわけではなく、奇妙なぎこちなさがあったのだが。
 だがそれが、ガルフォードに言わせることを決意させた。
「あのさ、俺、また、明日か、明後日か、出るよ」
 珍しく、些か緊張している。
「そう、ですか」
 声が微かに沈む。
 わかってはいたのだけれども。今回は新しい苦無を手に入れるためここに来た。それを手に入れたなら、いる理由はない。
 また行くのだ。『正義の忍』として。
「で……また来るよ。ここに、冴のとこに」
 ほんの一瞬躊躇したが、躊躇の後に迷いはなく、冴の目を真正面に見て、言った。
「私の、ところ?」
「うん」
 じっと、冴を見る。まるで怒っているかと思うぐらい真面目な顔で。
「どうして?」
 冴の顔も、怒ったかのようになった。
 端から見たら、睨み合っているようにも見えただろう。
「だって、俺は……ええと、その……」
 言葉が見つからない。
「Because, I love you」
 散々考えた末、口をついて出たのは、母国の言葉だった。
「…………」
 冴はガルフォードを見ている。
 西日に照らされたその顔は、西日のせいではなく、きれいな赤に染まっていた。
「待ってる」
 冴は答えた。
 言葉はわからない。でも、こう答えるのが一番だと、思った。
 ことことと、胸で何かが踊っている。
「待ってる」
 前と同じぐらいのそっけなさで、もう一度言う。
「うん」
 それでも、表情を崩し、ガルフォードは頷いた。
 冴の表情は、どこか怒ったようなままだったけれども。

 春風はくるくると舞いながら、山を駆け下り、また天空へと駆け上がっていった。




 この道 どの道 恋の道
 恋の道行 終わりは何処
 終わり何処か 問えれども
 問うもの 始まり知りやせん
 始まり知らねで 終わりを知るか
 知らず歩むが恋の道
 されど語りはここまでや
 あとはいずれか語らんや
 ひとまず見送り終わらんや
 終わり何処か 恋の道

目次に戻ります