先に因縁をつけたのは、間違いなくごろつきどもであった。 背の高い侍姿の男を取り囲み、盛んになにやら言っている。 だが、男は全く気にかけた風もない。 その様子に激昴した一人のごろつきが、匕首を抜いた。 男の眉が、わずかに動いた。 微かにその口元が、笑みの形に歪んでいたかもしれない。 「た、た、助け…たす、たすけ…………」 震える言葉を発しながら、すでに立つことも出来ぬごろつきはそれでも必死に男から逃げようとみっともなくもがき、這いずる。 すでに動くものはそのごろつきだけである。他の連中は皆、男の刃の前に、肉塊と化していた。 諸肌脱ぎ、右手に血を滴らせる刀を手にした男は、ごろつきの哀願も無様な様も目に入らぬ風で、ずかずかと歩み寄る。 「ひ……ひぃ……」 言葉にならぬ声を上げるごろつきの尻の下に、しみが広がる。 男は、刃を振り上げる。 しゃらん 「やめなされ。これ以上はつまらぬこと」 男の目が、声の方を向く。 そこには、老僧の小さな姿があった。 男の身長の半分ぐらいしかないようにも思われるその老僧は、手にした錫杖で、男の刃を握る手を押さえている。 「………………」 その力は、老僧の枯れ木のようにも見える手からの元は思えぬほど、強い。 男はしばし、老僧を睨むように見据える。 笠の下から、老僧は奇妙なまでに穏やかなまなざしで、男の視線を受け止める。 「……ふん」 つまらなげに、男は手を下ろした。 必死の形相で、ただ一人生き残ったごろつきは逃げ去った。 老僧はとん、と錫杖をつくと、一言二言、小さく呟いた。経のようであった。 顔を上げると、手にした錫杖で、まだ抜き身を手にしたままの男の手に、軽く触れた。 「内の力を、もそっと弱く」 「…………」 男の目に、老僧はにこ、と笑むと、くるりと背を向ける。 そして、しゃらん、しゃらんと錫杖を鳴らしながら、歩みさった。 乾いた風が、血臭をさらうように駆け抜けた。 己が寺の山門の前で、老僧は足を止めた。 わずかに、振り返る。 先ほどの男の姿がある。 山門への長い階段を上っていた足を止め、男は感情の乏しい目で、老僧を見上げた。 「お前様、名は」 「牙神幻十郎」 鋭すぎる刃物のような声、だった。 「儂は花諷院和狆。ただの腐れ坊主じゃよ」 試すような響きがそこにあった。 幻十郎は、無言で歩みを再開する。 「ほぅ…ほぅ……」 笑いとも、軽い驚きともとれる息が、和狆の喉から流れた。 だがそれだけだった。 老僧は前を向くと、山門をくぐった。 幻十郎もまた、特に何を言うでもなく、足を速めるでもなく、表情を変えるでもなく、山門をくぐった。 そして、奇妙な生活が始まった。 いや、奇妙と言っていいのかもわからない。 和狆はそれまで続けてきただろう生活を変えた様子はなく、枯華院の一室に住み着いた幻十郎をかまうことはなかった。 幻十郎また、和狆を気にする風なく、ふらりと出ていっては、ふらりと帰ってくる、という日々を繰り返していた。 時折、帰ってきた幻十郎の体から血の匂いがすることもあったが、和狆がそれで言葉をかけることはなかった。 ただ、ごくまれに、思い出したように幻十郎の所作に、一言二言、何か言うだけだった。 それは例えば、普段歩くときの何気ない足さばきのことだったり、物を取ろうと伸ばした手の角度だったりと、端から見ればよく意味の分からない指摘であった。 しかし幻十郎は、無表情ながらも黙ってその言葉に従い、その都度己の動きを改めていた。 そんな生活が半年も続いただろうか。ある朝、日課の散歩に出かけた和狆が、なにやら担いで戻ってきた。 それは小汚いなりをしているが、隆々とした体躯の、一人の侍だった。腹を空かして行き倒れていたところを、和狆が『拾った』という。 瞬く間に和狆が出した食事を平らげた侍は、「覇王丸」と名乗った。剣の道を究めるために廻国修行しているという。 「ところで」 箸を置き、人心地ついたところで、覇王丸は言った。 言うと同時に、刀を抜こうと、する。 「やめなされ」 その手を軽く、和狆はさっき覇王丸が置いた箸で、打った。 「…………」 覇王丸はその場で和狆に弟子入りを申し出た。 和狆はただ、「好きにせい」とだけ、答えた。 幻十郎が覇王丸とあったのは、そんなことがあった後だった。 幻十郎は当然、そんなことは知らない。和狆も何も言わない。 「今日からここにいるという、覇王丸じゃ。 半年前からここにおる、幻十郎じゃ」 と、覇王丸と幻十郎に双方を紹介しただけである。 「………ふ…ん」 幻十郎の表情が変わった。面白いものを見つけた、とでも言うように、ほんの僅か、口が開く。 「兄弟子、というわけか」 なぜかこわばった表情で幻十郎を見たまま、覇王丸は言った。 「兄弟子?」 和狆と幻十郎の声が、期せずして唱和する。 「そういうものかも、しれんな」 ほっほっほ、と笑いながら、和狆は言った。 幻十郎は、何も言わずに立ち上がると、ふらりと出ていった。 後には、硬い表情の覇王丸と、対照的ににこにこと笑んでいる和狆だけが、残った。 覇王丸が来たことで、少し、寺の生活が変わった。 熱心に修行に励む覇王丸に、和狆が日に何度か声をかけることが一点。 もう一点は、幻十郎が和狆のことを「師匠」と呼ぶようになったことだった。 ある日そう呼ばれた和狆は、目をぱちぱちとしばたたかせて、驚きを表したものだった。 幻十郎はいつも通りの感情の乏しい声で、「兄弟子なのだろう」と、言った… 半年の月日が、過ぎた。 早い、と思う者がいた。 緩やかに感じた者がいた。 時が過ぎることさえ、気にかけぬ者がいた。 そしていつかのように乾いた風が吹いていたその日、幻十郎と覇王丸は剣を交えた。 「やってみるかの」 和狆の一言が、始まりだった。 鋭い刃がぶつかり合う、音。 地を蹴り、踏み込み、あるいは引く、足音。 びゃっ、と風が唸る声。 ひなびた寺の隅々に、広がっていく。 つと、和狆が片手を上げた。 その上に、小鳥が一羽舞い降りる。 ち、ち、ちっちっ 小さな声を上げ、物欲しそうに和狆を見る。 宙に、一振り、刀が飛んだ。 和狆は、僧衣のあちこちを探って米粒を見つけ出すと、地に撒いた。 ひらりと小鳥は地におり、それをついばむ。 振り上げられた刃は、鈍い輝きを宿していた。 その輝きの中を薄く、赤いものが幾筋か流れていた。 「……くっ」 覇王丸はそれを、ぎっ、と睨みつけていた。 「……ふん」 無造作に、幻十郎は刃を振り下ろした。 しゃらんっ ちちと鳴いて、小鳥が飛んだ。 「………何故だ」 不機嫌そうに、幻十郎は和狆を見る。 その手の錫杖が、幻十郎の刀を、覇王丸から守っていた。 幻十郎の視線が、覇王丸に移る。 驚いた様子を見せながらも、なおも覇王丸は幻十郎を見据えている。いつかの誰かとは違う、戦う者の目で。 「もっと、おもしろうなるに。もったいなきことじゃ」 いつかのように、いつものように穏やかな顔で、和狆は答えた。 「おもしろく……?」 和狆を見、覇王丸を見る。 くっ、とその喉が笑いにひくついた。 「なるほど」 剣を、幻十郎は下ろし、鞘に収めた。 上衣に袖を通す。 「だが、次も同じだ」 くる、と二人に背を向ける。 すたすたと、歩み出す。 「幻十郎」 とん、と錫杖を突く。 しゃら、と金の輪が、鳴る。 「破門じゃ」 歩みを止めぬその背に、言う。 「………………」 歩みが止まり、ほんの僅か、頭がこちらを見るように、動いた。 だが、顔を見せるほどでは、なかった。 「師匠と呼んだからのう」 ほっほっと笑い、付け加える。 「…………………ふん」 幻十郎から返ったのはそれだけだった。 そのまま幻十郎は枯華院から去り、二度と戻ることはなかった。 終 |